藤野龍樹
Row, row, row your boat
Row, row, row your boat (漕げ漕げボート)
Gently down the stream, (軽やかに流れを降ろう)
Merrily, merrily, merrily, merrily, (楽しく楽しく)
Life is but a dream. (でも人生は夢)
西洋の童謡は小中学校の唱歌にたくさん採用されているから、メロディの知名度が高いものは多いが、訳詩よりもオリジナルの英詩の方が有名なのはこの歌くらいじゃなかろうか。筆者が小2でならった時は吹雪をテーマにした歌だったが、ちょっと歳の離れた者に聞くとそんなの聞いたこと無いと言われた。訳の中でよく言われるのは月曜ロードショー版ダーティーハリーでも歌われた“漕げ漕げ漕げよ ボート漕げよ”バージョンだと思われる(現に今回調べた中では一番ヒットした)が、これにしても四小節目は“川くだり♪”で終わっており、原詩とはまるきし離れた意訳となっている。そうした不統一に比べれば、原詩は無理なく口ずさめる。これはこの歌がrとlの発音練習の童謡(ナーサリーライムというらしい)としてよく歌われることもあるが、個人的には訳に比べて圧倒的に語呂が良く歌いやすいからであるように思う。
(ちなみにこの歌、ヨーロッパのわらべ歌、いわゆるマザーグースだと思っていたが、アメリカの歌だという説が有力のようだ。)
ということで今回珍しく原詩を見ているのだが、ためしに訳してみるとやはり三小節目までと四小節目の意味のギャップに驚かされる。
ボートで降る でも人生は夢
なんともこのつながりが奇妙ではないか。これはいったいどういう解釈をすれば良いだろう。さんざっぱら考えられているかもしれないが、机上理論的解釈なんてのは出来ないものか。以下、しばらくお付き合い願いたい。
(1)ボートと人生のつながりを考える
ボートは人生を比喩的に表したものと捉える。そもそもここで漕いで流される場所。行き着く先は単に近所の砂岸だろうか、それとも果ての海だろうか。イギリスあたりなら海と考えても良いかもしれないが、アメリカだと海がそもそも遠いから、単に少し流された先の向こう岸とも考えられる。彼岸と捉えるのも面白いかもしれない。で、それが夢だという。
夢という語には、睡眠時、それも比較的浅いレム睡眠のときに見る体験のことを指す場合と、将来の自分がこうありたいと願う内容を指す場合がある。哲学的な意味合いで用いられるときは後者であることが多い。哲学とは形而上学的な事柄を考える、要するにもともと答えのないことを無理無理に解釈している学問だから、更に机上理論でこれに対してどうのこうの言っても仕方ないし、さんざぱら言われてるから、本稿では言及しない。では人生は今見ているレム睡眠の時の夢だとして解釈していくことになるのだが、それは更にボートを漕いでいるのだという。
ボートを漕いでいることが現実だけどそれは当人にとっては眠っている最中の出来事であるとなると、これはいわゆる夢遊病ということになる。ご当人は眠ったまま、ずんずんと流れを降っていき、起きたら「はっ、私はどうしてこんなところにいるんだ。」となるわけだ。この歌は、そんな暮らしを一生続けている人をうたったものと解釈できる。
では、この人はどうやって生計をたてているのだろうか。今なら特殊な病気持ちということで、あるいは生活補償を受けて暮らしていけるかもしれないが、この歌ができた当時の社会システムはそこまで充実していない。で、どこまで流されるのかは判らないが、そこから元いたところまでひーこらと船を戻すことを考えると、それだけでかなりの時間を使うだろう。となると、眠っている間に流れを下り、起きているときは流れをさかのぼるというそれだけでほとんど一日が終わってしまう。だからこの人がなんらか生業を持っているとすれば、そうした行動を利用して船に荷物を載せている海運業か、あるいは人を乗せる旅客業であると考えられる。馬の口捕らえて老いを向かうる者は日々旅にあり旅を住処とす。と奥の細道にもあるとおり、運送業に携わる人の人生がすなわち旅であることは古来より言われており、決して筆者だけの奇異な解釈というわけではない。
眠ったままボートを漕ぐ人がいた。
この歌はそんな特技を利用して生活している奇特な人のことを活写した歌だったのだ。24時間働けますかを実践する彼の人に対し、怠惰な人生を送る筆者などは襟を正してしまうのである。
いやそうではなく、そもそもボートと人生の両者に
(2)つながりなんかないんだ
と考えてみることはできないだろうか。すなわち二つを独立した文章と考えてみるのだ。筆者は英文学などまるで知らないから卑近な例を挙げることをご容赦いただきたいが、例えば東北の昔話は最後に「どんとはれ」なる言葉で締めくくるものが多い。それが一体何を意味するのか、それまでの物語とどう繋がっているのかという微妙なニュアンスは語り継がれるうちに消えてしまったのだろう(めでたしめでたし、くらいの意味だとする説はあるにはある)。ただ調子がいいから、ストンと落とすように終わる。(志村けんの「だっふんだ。」なんてのも同じ系統じゃなかろうか。つまんないのにお約束でやってるところが。)もう少し脈絡があってもいいと考えるなら、ロボっ子ビートンで話の最後にやっていたガキ親父の“今週の教訓”なんてのも上げられそうだが、古すぎて却って何がなんだかわからないなこれは。まぁいいや、とにかくこれらと同様に、本歌の四小節目も、この歌の作者が入れたすわりの良いフレーズなのではなかろうかと考えるのだ。
ではどうしてその言葉が「でも人生は夢」なのだろう。「どんとはれ」が東北の土着要素を含有するのならば、かの言葉にも風土からなんらか影響を受けていると考えることは自然だ。となれば「どんとミシシッピ」「どんとケンタッキー」でも全然かまわないと思うのだが。どうだろう。
逆転して、人生は夢という言葉が生まれるにはどんな環境があればよいか考えてみよう。
江戸時代初期の臨済宗の僧・沢庵は「人生は夢であり、夢ではない」などといかにも禅の坊さんらしく主張してんだかしてないんだかわからない言葉を吐いているし、西洋でもホジヴィリが「人生は夢である。死がそれを覚まさせてくれる。」なんて言ってる。(こちらは詳細不明だが、名言集に結構出てくる。)彼らの例からもわかるように、こんな言葉を吐く奴はだいたいその日の暮らしには困らない程度に裕福なのに自分の境遇に不満ばっかり言ってる頭でっかちでシニカルな野郎と相場が決まっている。これがイギリス民謡ならニュートンやダーウィンのジェントリ層で決まりだが、アメリカ民謡となると新大陸で一山当てた実業家のどら息子あたりを想定できようか。
しかし、こんなぼんぼんが舟なんか漕ぐだろうかと考えるに、一小節目の“row”が命令口調であることがかぎになる。やっぱりこいつは人に漕がせているのだ。どっかの軍隊の小隊長みたいに、命令だけは威勢が良いけど本人は行動しないタイプ。で、さんざっぱら周りに迷惑掛けてようやく満足し、その後しらけ口調で言うのだ。「でも人生なんて夢なんだよね。」
貴様そういうことは少しは手伝ってから言え。と思わずどっかの上司の顔を頭に浮かべつつ言いたくなるところなのであるが、とにかくそんな光景が、机上理論的な解釈をするとこの歌からは見えてくるということだ。
夢遊病の船頭と皮肉屋のどら息子。全然関係ない二人だが、筆者には両者に共通して言いたいことがある。
目を覚ませ。
おわり
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