机上理論学会 常考展開分科会
同 評議委員 ういろう座衛門
■ 常考
唐突ではあるが、諸君は「常考 」なる言葉をご存知だろうか?「常識で考えろ」という言辞が、余りに高頻度で用いられ、昨今では前述の二字で表わされている。左程に常識で考えることのできない若者が増加している。この由々しき事態に対処するため、本学会でも分科会を設け、常識で考えるテクニックを文章化し、広く世間にそのノウハウの啓蒙を試みることとあいなった 。そのための草稿 が本稿である。
■ 常識
常識の定義とは、任意の社会において、その構成員に対し、保持していることが『当然』として要求される『最低限の知識』と『最低限の思惟能力 』のことである 。
集団が(烏合の衆ではなく)社会として機能するとき、そこにはおのおのの構成員が準拠 する文化がある。その文化を、思惟能力で再現可能な範囲で圧縮し必然性を示した密度の大きい情報として『知識』をとらえると、常識と文化は一致する 。つまり本稿は文化の復興を期した事業でもあるのだ。
■ 行間を読め
常識の要素である「最低限の知識 」、その伝承は教育の範疇であり、限られた紙面の都合もある本稿でその回復を図る事は無謀に過ぎ、避けざるを得ない。その意味でも思惟による情報の展開能力の方法論が本稿の骨子となる。情報を扱うとき、得られた状態で無加工のままで後生大事に保管するだけでは、大切にしていようとも情報をある意味殺しているだけだ。背景や文脈 を読み取り、言葉の裏に秘められた意図を読み取ろうと努め、時に検証し、蒙昧な境地から抜け出そうと足掻き続ける姿勢こそが肝要なのである。
■ あんたバカぁ?!
水は低きに流れ、人は易きに流れる… 冷静に考えれば頓珍漢な解釈であっても、行間を読み続ける事は辛く険しいという現実の前に、我々は容易に思考を停止し、素っ頓狂な解釈を疑うことも無く安堵してしまいえる。その結果、偏狭な認識を恥じもせずに常識だと誤認するような事態に陥ってしまうのだ。冷静に、常識を以って自らの認識を検証する姿勢を忘れず、顕在化した誤謬は迅速かつ速やかに改めねばならない。これを怠る者はアスカしぇんしぇーにかの如く罵られて然るべきであろう。
■ 自己正当化バイアス(偏見を常識と誤認したがる傾向)
偏狭な解釈を常識だと誤認する事で思考停止を促す傾向は、自己正当化バイアス(自己標準化バイアス)と呼ばれている。この誤謬は、冷静に考えれば破綻が明らかにされるため、実例に関しては本学会での発表でも数多く登場しているため枚挙に暇は無い。端的な例としては「イタイのイタイの飛んでけー」というオマジナイが挙げられる。痛みを空中に不法投棄するこの呪詛は、質量保存の法則に鑑みれば、飛んでいったイタイのがどれだけ他者に迷惑を掛けるか?は、想像に難くない 。にもかかわらず我々は慣習を免罪符に仕立て想像力を殺し、利己的な環境汚染を続けているのである。
■ 快楽原則 バイアス
フロイト の提唱したこの傾向は、現実逃避として姿を示すことが多い。例えば足柄山の金太郎 は(人間の)友達が居ない寂しい少年であり、熊と相撲をとったり、熊に跨りお馬の稽古をするという空想世界に逃避していた著名な例である。桃太郎 に至っては家来に人間が居ないばかりか、その畜生 どもすら買収してかろうじて集めることができるという絶望的な人望を露見させている。そのヒトデナシ具合は、鬼族への虐殺と略奪という形で遺憾なく発揮され、この暴挙への怒りが、『桃から生まれた』=『やつは人間ではない!』という表現に込められているのだろうに、一般には、この凄惨な事件はなかなか直視されにくく、殆どが牧歌的な喧嘩のような空想に逃避することで苦痛の発生を回避している。因みにこの様な逃避は、現代にも残る鬼族への強い偏見にも支えられている。差別や偏見をしないと謳う者であっても、潜在的連合テスト では現代でも鬼族にはネガティブな受けとらえ方で扱われるケースが圧倒的多数 であることも直視したいものだ。
■ 経験不足による誤った推察
利己的な衝動ではなく、単に経験の不足から推察が失敗しているケースも多い。最近ではバウリンガルなる発明がイグノーベル賞を受賞したが、これも素では動物とは会話できないなどという誤認が流行している証左といえよう。古くは先述の桃太郎に黍団子を要求した畜生ども や、近代でも蝦夷地の猟師に「私は発つ鳥 波に聞けホイ 」と言い放つカモメ、近年でも迷子の子猫にお家や電話を聞くお回りさんの犬 など、言葉を駆使する畜生は、その枚挙に暇は無い。もっとも、彼らが誤解する根底には、その周囲の人間が、『私は畜生どもから無視されるほどみすぼらしい人間だ』という自覚から逃避していたために、日常生活において畜生どもとの会話に関する言及を避けつづけたがために与えた影響も否めない。畜生どもからシカトされる ならば、せめて恥じるセンス を持ちたいものである。
■ 総括
以上、常識で考えることを怠ったり、逸脱してしまう、典型的なケースを、ざっとではあるが概観してきた。日常生活の中で常識を形成するための材料は数多く受け取れるのだから、それを原型のまま温存せずに積極的に展開していってほしい。この講義が諸君の『常識で考える』契機に、乃至はより深い思考 を促すことができたならば幸いである。
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■ あとがき
絶望した!ExcelとWordの相性の悪さに絶望した!
(今回は、政府広報から統計資料の数値だけ盗用して、テキトーな散布図を提示して相関係数を算出したりして遊んでみたかったのですが、グラフの余りの崩れっぷりに挫折しました)orz
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