遺族感情が作り出すもの

穂滝薫理



1.犯人を殺したい

「もし犯人が出所したら、私がこの手で殺す」
 山口県光市の母子殺害事件被害者遺族である本村洋氏は、こう発言している。
 事件の残虐性やその後の犯人の(というか弁護団の)態度などもあり、誰も表だって支持を叫ぶようなことはないにしても、多くの日本人が本村さんの発言やむなしと思っているのではないだろうか。少なくとも彼の気持ちは理解できる。
 「日本で死刑が廃止されないのは、仇討(あだうち)が復活する可能性があるからだ」と言われている。私も「それはそうかもね」と思う。凶悪犯が死刑にされず、また自分も殺されるという恐れがないのなら、復讐のために犯人を殺してやる、というのはいかにもありそうなことだ。つまり本村さんのような人だ。ちなみに江戸時代の仇討は、それ自体が法制化されており、いろいろ条件や手続きがあるものの、幕府によって認められていた。仇討をしてもとがめられないどころか、むしろ称えられさえしたのだ。もちろん現代においては、たとえ死刑が廃止になったとしても、国が仇討を認めるとは思えないので、仮に復活しても違法ではあるだろう。
 冷静に考えれば、本村さんのやろうとしていることは間違っている。いくら法律に不備があっても、また、殺されるのが殺人犯で殺すのが遺族であっても人殺しは許されない。例外は、法律の定める死刑と戦争だけだ。
 しかし、我々は、遺族感情そのものは理解できる。事件を自分に置き換え、もし自分の家族が殺されたら、やはり犯人を殺してやりたいと思うことだろう。おそらく冷静ではいられまい。それほどまでに遺族感情というのは強いものであるということだ。

2.死の意識の芽生え

 人類が初めて“死”というものを意識したのはいつのことだろう? 200万年前? それとも1万年前? 10万年ほど前にはネアンデルタール人の埋葬例があるとのことから、それより前には死の意味をわかっていたと考えられる。つまり、その人が二度と動かなくなり、自分の生活から永遠に消えるということである。
 遺族感情は、死の意識とともに芽生えたのだろうか? 現代の私たちならば、家族が死ねば当然悲しい。おそらく、故人についていろいろ思い出すだろう。楽しかったこと、つらかったこと、顔、声、しぐさなどなど。また、彼または彼女が使っていた道具などを見て、彼/彼女を感じることもあるだろう。そして、我々は、親しければ親しいほどその人を忘れることができない。これをもって「亡くなった人は、いつまでも、私の心の中で生きている」などと表現したりする。はたして10万年前の人類にも同じ感情があったのだろうか? おそらく猿にはそういう感情はないだろう。しかし、“人類”という言葉を使うのであれば、私は“あった”のだろうと思う。

3.いない人の声が聞こえる

 ところで、私たちは、そこにいない人の声を思い出して記憶として再現することができる。たんに言葉としてだけでなく、ちゃんとその人の声質や抑揚なども再現可能だ。これまた親しい人ほど再現度は高い。たとえば私は、母親が私を呼ぶ声や、父親が電話口でうなづく声を頭の中に再現できる。ただし、正直に言えば、まわりがうるさいとちょっと難しい。静かなとき、特にふとんに入って寝ようとしていたり寝起きだったりすると再現度はMAXになる。これは、死んだ人についても同様で、死者の声を頭の中に聞くことができるのである。実際にその人が言った言葉かどうかは関係がない。自分の経験に応じて、とうてい故人が言わないようなことさえも、故人の声で言わせることができるのだ。というと自由になんでも言わせることができるように聞こえるがそうではない、頭の中の故人が何を言うかはわからないのだ。これは特に夢の中だと顕著になる。夢では、全然知らない人の声でさえ聞くことができる。脳の不思議と言うべきだろう。
 再度問わなければならない。はたして10万年前の人類も、いない人の声を聞くことができたのか? 私はできたと思う、人類であるなら。

4.語り継がれる故人

 10万年前の人類のある集落を想像してみる。そこである人が死んだとしよう。故人がその集落の長であったなど、偉大であれば偉大であるほど、その人は集落に残された人に語り継がれることになるだろう。なぜなら、古代の集落において、残された人はほとんど遺族に等しく、ということは故人はいつまでも人々の中に生きているからである。
 ところで、この集落において、故人を知らずに生まれてきた者にとってその故人の存在はどういうものになるだろうか。父親の父親か、あるいはそのさらに父親か知らないが、自分たちと同じ形をした何者かがかつてこの場所に存在し、どんな人だったかとか何をしたとかを聞かされる。偉大な人だったなどと聞かされる。しかも大人たちの心の中には、彼/彼女が生きており、声が聞こえるという。子供にとっては、恐ろしいことであると同時に神秘的なものでもあっただろう。だが、やがて集落内の誰かの死とその後の自分の経験を通して、子供はその知らない誰かを受け入れるハズである。そして、今度はそれを自分の子供に語り継ぐことになる。しかも、より古い時代に死んだ人ほどより偉大な人として扱われるだろう。あの偉大だった父親が、もっと偉大だったと語っていたのだから。原始的な先祖崇拝と言えるものである。
 しかし、古代人類にとって、死んだ人が(人の中に)生きているとはどういうことだったのだろうか? また、死んだ人の声が頭の中に聞こえるという現象をどのように理解したのだろうか? 最も可能性が高いのは、死んだ人は実はここではないどこかで生きており、ときどきここに干渉している、と考えることである。それでは“ここではないどこか”とはどこなのか? 第1に埋葬をした地面の下である。しかし、頭の中の声は、土の中ではなくそのへんから聞こえるように感じられる。そのへん。今、自分もいる空間のどこか、あるいは空のあたり。つまり、“天”である。

5.遺族感情が作り出したもの

 こうして非常に強い遺族感情から自然発生した先祖崇拝により、自分が会ったこともない先祖(?)の声が聞こえてくるのも時間の問題だ。静かな夜、寝ようとしているときかもしれないし、夢の中かもしれない。だが、はっきりとその声を、そして声の主の存在を感じるハズである。我々と同じ形をし、天にいて、声を聞かせる存在。人類はそれをなんと呼んだか。神。
 もちろん、集落によってあるいは人によって神の概念は少しずつ違ったものだったかもしれない。ある集落では、声が聞こえるのは、天ではなく、木や山や海や太陽やその他もろもろからだと解釈したかもしれない。しかし、人々は、遺族感情そのものは理解できた。また、人類であるなら、いない人の声も聞くことができた。だから、集落が違っても、お互いに言わんとしている概念、つまり神そのものはわかりあえたに違いない。やがて、集落が大きくなって村となり、ついには国となっても。
 人類が死を意識してからどれくらい後かはわからないが、遺族感情はついに、神を、後には宗教を作り出した。基本的に宗教が死と結びついているのはそのためだ。
 「犯人を殺してやる」と言った本村さん、「イスラムに対する冒涜だ」と言って執拗にテロを繰り返すアルカイダ。もちろん全然違うものだし、私個人は、本村さんは理解できてもアルカイダは理解できない。しかし、根本は同じで、遺族感情なのではないだろうか?





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