新日本紀行(芸術作品内に残された中世日本に於ける環境の記憶)

ういろう座衛門



 虐められた者は一生、その恨みを忘れないが
虐める側の者は、いじめた事実すら忘却の彼方…
などとはよく言われる台詞だ。
 斯様に、事物には主観と客観の両面的側面が存在する。歴史というものは主観的に綴られる傾向があり、往々にして主観的事実の記憶は、客観性に欠ける。自らの特殊性を忘れ、普通であると思い込んでしまう。
 ゆえに、日本人としての主観性から離れた記述にこそ、我々が忘れた日本の事実が残されているのである。

 ここでは、アマデウスの歌劇、『魔笛』に注目しよう。
主人公は狩衣をきた日本の王子、タミーノ。その従者、パパゲーノのそもそもの生業は「鳥刺し」と訳されているが、鳥を突き刺し殺すわけではなく、生け捕りにしていたらしい。鳥刺しと訳されたのは、該当する訳語がないからであり、その職業自体が、我々の忘れ去った過去だといえよう。この我々の忘れ去られた祖先、鳥刺しの生活に注目すると、中世日本の驚くべき環境が明らかになる。

 彼は鳥を捕らえるが、その方法は驚愕に値する。
彼の職業道具は、なんとキグルミなのである。鳥の格好をするのだ。
そして、彼を仲間だと誤認し、油断した鳥を、素手で捕まえるのである。
一見牧歌的ではある、が、想像して欲しい。もし我々が荒涼とした平野で珍しくも人と出会ったなら、朗らかに挨拶を交わすことも不思議ではない。が、遭ったのが人ではなく、17mの巨人だったらどうだろう。
起きるのは親しみや興味ではなく、恐怖である。ならば、体長15cmの鳥が、150cmのキグルミに対峙し、近づくだろうか?

近づかない。

我々が2m以上の人間に恐怖を覚えることを踏まえれば、鳥刺しに近づくのは、鳴き声、しぐさ、香り、それらを同じくする、体長おおよそ100cm以上の鳥だけだろう。つまり、中世日本には100cm以上の鳥が跋扈していたのである!(鳥の格好をする必要があったので、アホウドリではないことは明らかである)

つまり、どうやら日本オオカミに限らず、我々の先祖が絶滅させてしまった生物は 他にもまだまだ居るようなのである。絶滅に追い
やった、その後ろめたさからか、左様な生物が居たことすら忘れてしまったとは情けない。ましてや、その誤りの本質どころか過失の存在すら忘れ、根源的な反省を拒絶する姿勢が、やがてはニホンオオカミの絶滅を招いたならば、その態度はおおいに糾弾すべきであろう。

 逆に、そういった無反省な姿勢が当然のように立ち居振舞われていたとき、そうの無反省な姿勢があればこそ、ちょんまげをするものは最早 おすもうさんしか居らず、ポニーテールは絶滅危惧種となり、ブルマーやスカート付きスクミズはほぼ壊滅状態であり、トトロに至っては、記録された資料でしか見ることすら適わない、そんなこの日本の現状が、強い蓋然性を持つことになるのだ。

 巨大鳥の絶滅した今となっては鳥刺しの復活は不可能であり、
誤り以前への現状回復も不可能ではあるが、オオカミや狸(合戦ぽんぽこ)の二の舞を避けるために、(君が代のみならず)黒髪おさげ髪の清純女子学生を保護・推奨し、再興する必要を、モーツァルトやパパゲーノは、時代を超えて 我々に教えてくれるのである(´∀`*





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