穂滝薫理
今年のワールドカップサッカー・ドイツ大会で、わが日本代表チームは“サムライ”と呼ばれていた。実はそう呼ばれているのはサッカーの代表チームが初めてではない。ナカタやナカムラは以前からそう呼ばれていたし、野球のイチローやF1レーサーのサトウタクマも前からマスコミはサムライと呼んでいる。
しかし彼らは、サムライと呼ぶにはふさわしくないのではないか? というか、私はナカタもイチローもタクマもサムライにたとえるのに値しないと思う。
一般的に、何かをほかの何かにたとえるとき、前者と後者の間には共通点がなければならない。たとえば、
ブッシュはサルだ
と言った場合、ブッシュとサルは、顔や知能に共通点が見られるワケである。
また、たとえるもの(後者)は、特徴がはっきりしており、誰にでも納得できるものでなくてはならない。できれば誰もが自然に思い浮かべられる特徴であることが望ましい。たとえば、
彼女はひまわりのような人だ
と言われて思い浮かべるひまわりは、茎がまっすぐで花が大きく太陽のほうを向く夏の花だ。そこから元気とか明るいという性格をイメージし、それがここでいう彼女の印象になる。間違っても“植物だ”ということではない。それはひまわりを表わす要素のひとつではあるかもしれないが特徴ではないからだ。同様にして“タネがハムスターのエサになる”とか“茎に毛がはえている”とかでもない。誰もが自然に思い浮かべるものではないし、そもそも彼女との共通点が見出せないからだ。ひょっとしたら彼女は毛深い人なのかもしれないが、それだったらたとえるべきはひまわりではなく、クマとかオランウータンとかになるハズだ。
では、ナカタやイチローやタクマとサムライとの共通点はなにか? となるとこれが特に無いのである。すぐに気が付くことは、ナカタとイチローとタクマは皆、海外で活躍するスポーツ選手であるということだ。ところがサムライは海外で活躍してもいないし、スポーツ選手でもない。あえて言うなら、どちらも日本人の男であるということぐらいだろうか。だが、日本人であることも男であることも、ひまわりが植物であるのと同様、サムライを表わす一要素ではあっても特徴ではない。日本人の男であることが言いたいなら、別に聖徳太子や歌舞伎役者と呼んだってよかったハズだ。
通常われわれがサムライと聞いて自然に思い浮かべる特徴と言えば、“刀を持っている”、“ちょんまげがある”、“死を恐れない”ぐらいなものだ。やはりナカタやイチローやタクマとの共通点は無い。
以上を見れば明らかなように、サッカー日本代表はもちろん、ナカタもイチローもタクマもサムライと呼ぶのはふさわしくないのである。
ところで、われわれがすぐ思い浮かべるイメージ上のサムライはともかくとして、現実に存在したサムライであれば共通点が見つかるかもしれないと思い調べてみた。簡単にまとめると、江戸時代のサムライは、幕府または各藩に仕え、代わりに米の俸給を得ていた。これは現代で言えばサラリーマンと同じである。そして上下関係が厳しく、上にへつらい下に横暴なのも現代と同じである。また、ほとんどのサムライは貧乏で俸給だけでは足りずに内職をするものが多かった。さらに200年以上も続く平和な社会の中で堕落していた。つまり、現実のサムライは結構なさけない存在だった。
サムライは堕落した貧乏サラリーマン……。この現実の姿をもってしても、ナカタやイチローやタクマにふさわしくないことは明らかだ。というか、そんなサムライにたとえられたら、ナカタたちのほうが迷惑だろう。むしろ、私こそサムライと呼ばれてしかるべきである。
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