加藤法之
「いらっしゃいませご主人様ぁ。」
なんていう甘ったるい言い方をされるのが最近の流行らしいが、筆者にはどうにも“ご主人様”という響きは、ある特定の中年親父声に呼びかけられる言葉というイメージが強くてなんとも妙な気分になる。そんな風に言うと、なんでわざわざ親父声なんかを...と、読者諸兄からは同情されてしまうだろうことには苦笑せざるを得ないが、少なくとも筆者の中でその呼びかけは、金のためには普段毛嫌いしているオタクにさえご主人呼ばわりしてもいいと割り切った上で出されている女の子の声よりもよほど好印象を持っている。その声は、奇矯な運命によって自分の主人になった人に対して発せられる仕方なさと情けなさが包含されているのだが、そんな声がなんとも親しみ深く、懐かしさを感じさせるというのは、これはもうその声の主が持つ魅力によるところが大きいからと言う他ない。何故って、
アラビン・ドビン・ハゲチャビン
ふざけたこの呪文を彼が唱えるとき、それは彼が御主人の夢と希望を叶えてくれる瞬間であるからだ。そしてそんな魔法使いである彼が自分に仕えてくれるようになる条件とは、上記したようにお金を積む関係などではない。それは子どもにも簡単にできる合図、ただその壷の近くにいて、くしゃみをすればよいのだ。ハクションと。
くしゃみ一つで呼ばれたからは
それが私のご主人様よ
ハクション大魔王の子どもにとっての魅力を伝えるために少々前置きが長くなってしまった。が、とにかく奇抜な格好をした変なおじさんである彼が子どもたちの人気者だったのは間違いなく、理由も上記した主題歌のはじめのフレーズに端的に示されているとおりだ。
ただ、長じて再びあのマンガについて思いをめぐらすとき、筆者の心に生ずるのは、彼が現れる理由として“くしゃみ”を選んでいることがどの程度正当性があるのだろうとい疑問である。それは単に子どもにとって身近だからという送り手側の事情という大人な一言でしか理由付けできないのだろうか。
以下では筆者なりの、そうでもないんだという考察を記述してみた。
ハクション大魔王のような魔法使いが壷から出てきて壷の主人に仕えるというシチュエーションは、もちろん千夜一夜物語のアラジンと魔法のランプが翻案である。まずこのアラジンランプと特徴を比較してみよう。
繰り返しになるが、まずはランプと壷のどちらも魔法を使う存在が中に入っているという点が共通している。そしてこの両者−アラジン側=魔神,ハクション側=魔王−ともに出てきてから人のためにその力を行使しなければならないという点も同じだ。これは人間界への奉仕がなんらか彼らにとって魔法だか何かを維持するために不可欠な行動であることを予想させる。
ただ、主人への仕え方については明らかな相違点がある。アラジン側は主人の願いをかなえるということ以外ほとんど自我すら持たないような存在として描写されているのに対し、ハクション側は先述もしたように明白なパーソナリティーをもち、場合によっては嫌そう、面倒くさそうに命令を実行するのである。
(ここで言う自我の有無については、アラジンの魔神の由来がどこにあるかを考える際の一助となるかもしれない。魔神と聞いて人格を想定すれば、何でもできると豪語する胡散臭い手品師が伝説の端緒かと思うところだが、人格が無いのだとなればこの起源が自然現象であるとも考えられそうだからだ。が、まぁこういうまじめな考察は机上理論向きではない。)
アラジン側のランプの魔神はランプの精と称されることも多いのだが、こうした呼ばれ方をされる場合、魔神は多く煙の状態で現れたあと上半身までは顕在化させるのだが、下半身はまだ煙のまま−あたかも日本の幽霊のように足がない状態−で描かれることが多い。これは魔神がランプと一体の存在であることを示しているのであり、言わば道具的存在と考えることができそうだ。
ハクション側の事情はこれとは明らかに異なる。なぜならかの魔王は常に全身を表してそのときの主人と対面するし、そもそも彼にとって壷は彼の住むところでしかないからだ。というのも、劇中のある話には、ほとんど主人になることが多かったカンちゃんが壷の中に吸い込まれるエピソードがある。そこでは壷の中は街、いやほとんど国といってもいいくらい広い場所であり、魔王やアクビ娘だけでなく、国として機能しうるほどの住人がいたのである。(魔王よりも偉い長老などもいて、ウロ覚えだが、魔王はその長老会議から外界に派遣されているというような設定だったように思う。)だから当然彼は壷とイコールの存在ではないし、ましてや単なる道具ではない。
こう考えてくると、両者が主人に対して奉仕するときの動機はずいぶんと異なるものであると考えられる。なんとなれば、道具として生み出された可能性が強いアラジン側の魔神は道具の本能、すなわち“使ってもらうこと”がすべてとなる。これに対しハクション大魔王は上記したような長老会議の結果だからである。彼のカンちゃんに接する態度が常に渋々という感じだったのは詮無いことであったろう。では長老会議は何故そんなことを決定しなければならないかとなるが、おそらくこの魔法の国を維持する魔法力を得るには、人間の誰かに奉仕することで得られる何らかの報酬が必要なのだと思われる。
いささかこの部分の考察が長くなってしまったが、両者とも共通するのは、ランプもしくは壷単体で外界との繋がりを経って永久に過ごすことはできないということだろう。(番組の最終回では魔法界は100年の眠りにつくという形で魔王およびアクビは壷に帰っていくというエピソードになっていた。国家を維持する魔法力は上記したような外界からの供給だけでは足りず、年月を経て溜めていくことも必要なのだろう。)
で、ようやく次の考察に入る。前節で述べたように、アラジンのランプや魔王の壷はそれぞれの理由から、人間界との関係を長期間断つことはできない。となると、彼らが呼び出される方法とは、そうした条件に対応したものじゃないとまずいということになる。というわけで、ようやくくしゃみを視界に入れた議論の準備ができたことになるわけだ。
彼ら魔法使いはどのような方法で呼びだせばよいのか。鍵を使うとか、呪文を唱えるなどもあるが、例えばアラジンの魔神はランプをこする(みがく)と、それを合図として現れ、こすった者を主として定める。これは呼び出しの方法としてどうなのか。
例えば、鍵なんかにする場合は総じて不利だ。相手がなくなってしまえばそれまでだからで、自分の身の回りにある鍵すら無くすことがしばしばなのが人間ってものだ。何百年の単位で人類との関係を保っていかなければならない以上、そんな不安定なものに運命を託すのは得策ではない。同様にして、合言葉も不適格であると言える。記憶していなければならないようなものでは、記憶した人が伝承に失敗したらそれまでということになってしまう。
こするというコンタクトの仕方は、そう考えてくると賢い方法であることがわかる。こするという行為は人間に普通に見られる動作だし、そもそもランプが汚れていれば普通の人間ならきれいに拭くだろうからだ。これなら、まったくランダムな人間が主になる可能性はあるが、少なくとも人間との接点は切れることはないから、使ってもらうことが存在意義の魔神にとっては都合の良い方法といえるだろう。ただ、大事な道具だから、宝物庫にしまわれてしまうということもありえる事を考えると、必ずしもこする方法は最善のものというわけでもない。
で、ハクション大魔王である。くしゃみで主を決定するという魔王の方法は、これまで見てきたことを踏まえると、必ずしも馬鹿馬鹿しいばかりな方法とも言えないと感じていただけているのではなかろうか。くしゃみのような生理現象を主の決定法にするのであれば、忘却されることもないし無くすこともない。よしんば宝物庫にしまわれちゃったとしても、くしゃみの検知範囲を広げておけば良いわけで、つまりランプをこするというI/Fよりも便利であるとすら考えられるではないか。
ただ、これには反論もあろう。くしゃみなんかをスイッチにすれば、壷の周囲の人が風邪を引いたときに酷い目にあうだろうというもので、これはもっともであり、番組でも実際そういうエピソードはあった。(だいたい犬に呼び出される話もあるくらいだ。)
これは非常に説得力があるのだが、もう一度番組を思い出してみよう。詳細は忘れちゃったが、そもそもはじめにカンちゃんの家に魔王の壷があったということは、その時点で人間たちは壷の効用と使い方を知らなかったはずだ(知ってたら一般少年の元にまで渉るはずがない)から、それまで壷はくしゃみに反応しなかったことになる。だから、くしゃみへの反応といっても、何でもかんでもに対して起こしているわけではないことは察せられるではないか。理由としてはこれまでの考え方を踏まえれば、例えば100年の眠りの期間には魔力を溜めなければならないからくしゃみを外界でされても反応しないというように考えられ、これはあの感動の最終回を思い起こすだけで十二分に納得いただけると思う。(最終回のあらすじ。壷が100年の眠りにつくことになった。今度くしゃみやあくびをしたら二度と会えなくなってしまうことに反発するカンちゃんは、くしゃみもあくびもしない誓いを立てるが、生理現象には勝てず、うとうとっしてあくびを、鼻がむずむずしてくしゃみをしてしまう。魔王とあくびは涙を流しながら壷の国に帰っていった。)
では、なんでカンちゃんのくしゃみに反応したのだろうということになるが、おそらくくしゃみの質が影響しているのではなかろうかと考えている。というのも、一口にくしゃみといっても、“くしゅん”から“ぶわっくしょいこん畜生”まで種類はとても多いし、本格的に「はっくしょん」と発声する人を寡聞にして筆者は知らない。そもそもくしゃみの口語表記だってむかし(能など)は「くっさめ」と言っているのである。元々どれが正しいかなどというものはなく、ただみな己の生理機能に従って発しているのがくしゃみというものなのだ。であるから、例えばとてもたくさんの人からくしゃみの仕方をサンプリングしてそれをカテゴライズし、その正規分布の端っこにいる人が持つくしゃみの仕方を目覚めの合図としておく。これなら、その人物が現存する確率と、さらにその人物が壷のくしゃみ反応半径内でくしゃみをする確率はかなり小さなものになる。つまり、くしゃみなどという誰にでもできてしまう生理現象を基にしても、たっぷり100年眠りにつけるほどの希少性を持たせることは可能なのである。
(どのようにそんなものを正規化するのかという反論はあるかもしれない。一例だけ挙げると、くしゃみの時間を計るという手がある。)
当初の印象にあったであろう馬鹿馬鹿しさはここにはもうない。生理現象を利用した合図は、その利用が可能であれば彼らにとってはほとんど最善とも言えるほど都合の良い方法なのである。これと同様に考えれば、あくびちゃんを呼び出すときのあくびにしても、それほど奇異なものではないことが了解されよう。
では転じて、この他どんな生理現象を選択することが可能であったかを検討しよう。面白いから、番組名の体裁で書き下してみることで最後としよう。
空腹大魔王 :お腹がなるのね
しゃっくり大魔王 :いくらなんでも表出・消失のタイミングが短すぎ
歯軋り大魔王 :主人が寝てるときに現れてもしょうがない
貧乏ゆすり大魔王 :直せ
げっぷ大魔王 :下品
どうにもくしゃみほど適当な頻度かつバラエティのあるものは見当たらない。そもそも頻度が高いもしくは任意で行えるものであるのは問題だ。かと言って病気のように、いつから懸かったかの特定が難しいものは、頻度が低いとは言え不向きであることは言うまでもないだろう。このことからもくしゃみを選択した魔王らの見識が優れたものであることがわかるというものだ。
ただ実を言えば、頻度的にはくしゃみより的確なのではないかと思われるものもあった。
こむらがえり大魔王
である。これは生理現象でありながらくしゃみより頻度が低いから、希少性という意味では結構優れていると思う。ただ、泳いでいるときに呼び出しがかかることが多いだろうから、魔王は同じお願いに飽きてしまうかもしれない。なぜなら、脚がつってばしゃばしゃと水面でもがくご主人様と魔王のやり取りは、決まって以下のようになるからである。
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン。ご主人様私に何かお願いしたいことはごじゃいませんか。」
「そんなこと言ってる暇があったら助けて。」
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