金満家・ぞうさん

藤野竜樹



『ぞうさん』
            作詞 まどみちお  作曲 団伊玖磨

ぞうさん ぞうさん お鼻が長いのね
そうよ 母さんも 長いのよ

ぞうさん ぞうさん 誰が好きなの
そうよ 母さんが 好きなのよ

                昭和28年6月NHK

 童謡『ぞうさん』は、象の持つのんびりした印象と、歌詞の優しげな印象が上手くマッチして、短いながらも名曲として日本人の心に親しまれている。だが、我々が何の疑問も感じずに歌っているこの歌は、本来全然違った意味を持ち合わせているのではなかろうか。というのも、日本人は歌詞をイメージで捉えがちで、たとえば卒業式の『仰げば尊し』の中の一節“いまこそわかれめ”を“別れ目”つまり分岐点だと解釈している人が多いのと同様な、曖昧な印象で歌を固定化するといったことをしがちだ。本稿では『ぞうさん』の歌詞をファンダメンタリズム的に解釈することで、本来同歌詞が有するであろう本質と、我々の持つ普段の印象はどれほど違い、どれほど誤解しているのかを明らかにしてみたい。(上記“め”は、“こそ〜め”というつながり、いわゆる係り結びの法則によっており、“今こそ分岐点だ”ではなく“今かぎりでお別れなんですね”というくらいの意味である。)

 さて、一般にこの歌から感ぜられる印象をまず押えておこう。この歌がもっとも口ずさまれる状況は、母が子に歌い聴かせている状況であると思われるが、その場合、この状況に関わる両者、つまりその母も子も歌詞から次のような諸事象をイメージしていると思われる。すなわち、
 一番
  (1-1)ぞうさんの親子がいる。
  (1-2)子象の鼻は長い。
  (1-3)母象の鼻も長い。
 二番
  (2-1)小象が好きなのは誰?
  (2-2)小象は母象が好きである。
といったところだ。だいたい当たらずとも遠からずといったところだろう。
 だが、この見方は実は正しくない。少なくとも、曲解されていると言わねばならない。では、正しい解釈とはどういうものなのか。まず、状況を考えよう。この歌が会話形式の歌であることは論を待たないが、では誰の会話なのだろう。
 イ. : 母と子の会話
 ロ. : 母象と子象の会話
 ハ. : 子と子象の会話
が候補として挙げられるが、ロ.であれば、“ぞうさん”という呼びかけは、自分の母親に「人間さん!」と呼びかけるようなもので、不自然だ。ハ.は一見納得してしまうのだが、一番の歌詞で、聞き手である“子”に、子象の母“親象”の鼻が長いことを教えているところがポイントだ。というのも、二番には“そうよ”と、子象が母象を好きなことを(聞き手-子-も考えているように)当然だと自己主張していると解釈せねばならないセリフがあるからだ。もし一番の“そうよ”が、会話を構成している子と子象双方が初めてお互いの考えの確認をしあっているという意味合いで発せられた“そうよ”だとすると、二番の歌詞が、『“子”が“母象”のことを知っている』という内容であることに矛盾する。一番と二番の時系列が、逆転してしまうからである。
 やはりここは、イ.であると判断せざるを得ない。
 しかしその場合、またしても“そうよ”の部分が問題になる。母子の会話であると考える場合、子が子象を見て親象の姿を演繹的に思い浮かべることを想定して、“そうよ”と同意すると解釈できる一番はまだいい。だが二番はどうか。“子”は、子象が誰を好きなのかが判らないから問うているのだが、それに対する“そうよ”は答えになっていない。少なくとも“子”はそれだけでは判らない。
 ここで“そうよ”と母が言うからには、“子”が『子象が母象を好きだと考えている』ことを確信していなければならない。確かにそれは連想できる範囲だと言うかもしれないが、そもそももし“子”がそう思っていたのなら、敢えて質問しないだろう。だから母が子の思いを断定した上で“そうよ”と言ったと考えるのは無理が生ずるのである。

 ここで我々一般の印象とは大きく逸脱する解釈をすることになる。以上の考え方を踏まえてくると、どうにも“そうよ母さんも長いのよ”の部分は、母象ではなく、話している“母”の鼻が長いと捉えるほかないからである。

   鼻の長い人間の母

 この場合、一番の“そうよ”は、子が母の顔を見慣れているから、そのことへの当然の確認ととることができ、決して不自然ではない。二番の“そうよ”も、母の好みを子が知った上での同意表明としての反応と考えることが出来る。(この場合、対話相手はイ.でもハ.でも良いことになる。)


 鼻の長い母という不思議な存在を我々は見出した。二番からの解釈はまた後述にもあるのだが、この驚くべき新事実の謎を明確にするほどに童謡『ぞうさん』は長い歌ではない。だから、ここでこの存在を現実の事象から見ることで、にわかに現われたこの謎に迫っていきたい。(それはファンダメンタリズムなのか?と言われそうだが、一字一句書いてあることだけを解釈すると言っても、例えばキリストという言葉はその言葉の奥にある広がりを心得ていなければ単なる四文字の組み合わせ、ホヘネオ、スエロフといったランダム要素と変わりがない。現実における意味のバックアップは字義解釈に矛盾が生じない範囲では正当な行為なのである。)
 鼻が長いと聞いて我々が思い浮かべるのは次の三者だ。
 a.天狗
 b.ピノキオ
 c.ユダヤ系に見られる鷲鼻
 象の耳は天狗の団扇を連想させるという点では天狗説も面白いのだが、日本産の天狗が象を見たことがあるとするのは不自然なので、残念ながらa.は没だ。ではb.のピノキオだとすると、鼻が伸びている状態で言っていることは全部ウソなので、“かあさんもながい”と言っている前提と矛盾することになり、これも没。となると、消去法でc.のユダヤ人ということになる。

 ここで先述したように、二番の解釈に戻ろう。二番では子は“誰が好きなの”と聞いている。従来の解釈ではそれに対する応えである“そうよかあさんがすきなのよ”は、(2-2)のように漠然と思われていたが、“かあさん”という存在が鼻の長い人間だと特定された今とあってはこの応えは、
   鼻の長い母さんが好きなのは“ぞうさん”である
と解釈すべきである。ただ、この歌が、本来の意として母がユダヤ人である事実を提示しようとする内容を秘めているとすると、これだけ短い歌詞に一番と二番で重複した内容を盛りこむとは考え難い。つまり、二番の“ぞうさん”は“象さん”ではないと考えるべきなのである。

   増産

 お金儲けに巧みで、常にホワイトカラーを占めているユダヤ人だからこそ、より多く儲けることができる“増産”が好きだったとしても、それはまったく不自然ではない。二番のぞうさんはかく解釈されることで、童謡全体における影の意味を纏め上げているのである。

 字義に忠実に解釈することで、童謡『ぞうさん』には、我々が思ってもみなかったような本来的な意味が隠されていることが明らかになった。それは本来ロスチャイルド家のようなユダヤ系にて代々成功している家系で、後継者である息子に事業を始めるときに何をよりどころにしていけばよいかを教えている場面を歌った歌なのであった。そして穿って言うならこの歌は、古くは仏教伝来時からとまで言われるユダヤによる日本への思想的影響戦略が、遂に我々一般の家庭にまで浸透してきたことを示す証左だったのである。

 こんな秘密を暴いたのはこれまでに誰もいないだろう。そう考えると筆者も鼻が高くなるのを禁じえないのである。





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