木賃ふくよし(芸名)
結局の所、人類は遺伝子以外の部分で進化する事により、人として成り立ってきた。
遺伝子の進化速度を考えれば、文明の発達速度は比較にならないほど速い。
即ち、文明は、遺伝子の代役となったのだ。
文字や言葉は、遺伝子に替わる遺伝機能を持ち、人類は遺伝子以外の方法で記録媒体を作り出し、自己複製を果たすようになったのだ。
人形や墓がまさに遺伝子に替わる自己複製であり、文学や絵画もまた、自己複製であると言える。
生物の主目的がドーキンスの唱える自己複製であるならば、人類はようやく、遺伝子という呪縛を逃れて自己複製を果たそうとしているのだ。
ならば、「おたく」は遺伝子を乗り越えた形として、自己複製を可能にしたか?
答はイエスだ。
前述のように、おたくは増え続けているのだから。
おたくをひとつの新しい生物と捉えるなら、おたくはまさに、生殖以外の方法で繁殖を開始した、人類の進化形態だと言える。
おたくの浸食は日本のみならず、ジャパニメーションとして、世界に飛び火している。
貧困や戦争の時代では絶対的に生存し得なかった「おたく」という存在は、争いという蛮行を捨てつつある人類の、当然の変化なのかも知れない。
だとするならば、人類は「おたく」に駆逐されるのか?
答はノーだ。
その真理は植物にある。
繰り返すが、ドーキンスの法則に従うならば、遺伝子は自己の複製のみを目的として生きる。
本来は、昆虫をその色で誘い込み、花粉を雄しべから雌しべに付着させるべく咲く花。
だがこれが、偶然にも、人間の眼に美しかった。
ここで、人間に気に入られた草花は、考え方を変えたのだ。
昆虫にとって美しい色ではなく、人間にとってより美しい姿形になろうと。
これにより、植物は自己を美しくする事により、人間の手で繁殖してもらう方法を身につけた。
ここまで書けばわかるだろうか。
植物は、人間に寄生したのだ。
「進化」という言葉の対義語は「退化」である。しかし、生物学的に「退化」なる言葉は存在しないらしい。
退化は即ち、「退化的進化」であり、不必要な部分を衰えさせる事で取り除いていく進化なのである。
進化のベクトルは一方向ではない。進化が一方にのみ向けられるとするならば、この地球上に存在する生物は1000種に満たないだろう。
つまり、人類は、生物としての「非おたく」と、人間としての「おたく」の2形態に「進化」しつつあるのだ。
「非おたく」は「おたく」に作品を提供する事で経済を潤わせ、「おたく」は経済を潤わせる代償として、満たされるべき作品の提供を促し、「おたく」を増殖させる。そして、「おたく」の増加で「非おたく」の生活は潤い・・・という繰り返しだ。
かつて人類が、王族と奴隷に別れて秩序が保っていたように、現在は宿主と寄生虫の立場に別れての共生生活が始まったのではないだろうか。
案ずる事はない。寄生虫が宿主を食い破る例は多くない。宿主の死とともに、寄生虫もまた、死んでしまうからだ。
「おたく」は「おたく」だけで生きられない。そして、「非おたく」もまた、「おたく」を利用して生活を保つ・・・。
どちらが強いとも、どちらが優れているとも言えない。お互いの存在がお互いと支え合っていくのだから。
果たして、あなたはどちらの進化形態を選ぶのだろうか。
ちなみに、
こういう論文を書いている時点で、とても誤解されがちなのだが、筆者は「非おたく」であると明言しておきます。
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