藤野竜樹
片親に会えなくなる理由に離婚がトップになるような昨今では耳にする機会が少なくなったかもしれないが、昔は両親のどちらかが不幸にも若くして死んでしまったような場合、残された子供に一方の親はこう言った。
「あの人はお星様になったんだよ。」
一般にこういう言い回しは、死というものに免疫がない幼い子供に、愛する人がいなくなったことを間接的に納得させる比喩とみなされている。たしかに実際には、生き物が死ぬと物質としての身体は腐敗もしくは燃やされて灰になるのだから、そこに直接の因果関係はない。しかし、いつも身近に見られる存在として夜空に代理存在を見出したことは、悲しいが詩的に美しい心情だといえる。
だがそれは、本当に間違いに過ぎないのだろうか。無垢な子供の寂しさを癒すためとはいえ、それは口から出任せの一時凌ぎに過ぎないのだろうか。筆者はこの、何時ともしれない昔から言われてきたであろうこの小さな嘘が、嘘ではないとしたらどうなるだろうとの考えが浮かんで久しい(正確には30分ほど前からだ)。本稿はそこで、人間が星になるとはどういうことなのか、についてつらつらと考察してみる。
人が星になるということは、単純に考えれば人一人が死ぬごとに宇宙に浮かぶ天体が増えることになる。更に、指でさし示しつつ“あの星がパパ(ママ、おじいちゃん、おばあちゃん、...、ガヴァドンetc.)なのよ”うんぬんとよくやっていることを踏まえれば、まず1:1であることが想定される。これは夜空に見つけられることが当然要求されるから、その辺に浮かぶ単なる石っころではなく、“恒星”ということになる。
ところがこれが難問となる。そもそも現在空に輝く星は概ね数十億年は光りつづけている星であり、とっても若い星でも数百万年の年齢なのだ。ということは、今死んじゃった○○さんがそうした星に当てはめられることは不適切だということになってしまうのである。これは前提がおかしいからだ、やっぱり人が星になるなんて非現実だ、なんて言うのは凡人の思考、机上理論はここで負けはしない。
人が死んだら恒星になる。だが、恒星の寿命は長い。
この両者を結ぶには確かに前提まで遡る必要があるが、なにも全否定する必要などない。そもそも前提中の誤りはズバリ“1:1である”と解釈したことにある。ならばそこを修正すればよい。すなわち、複数の人間が同じ星を指し示してもよいと考えるのだ。
となればむしろ我々は、解釈のほうを変更したほうが良いのではないか。というのも我々はこれまで“人が星になる”という場合、人の魂(のようなもの)が星として輝く、ようなイメージで捉えていたのだが、そうではなく、星に魂(のようなもの)が“移動する”と考えるということである。そもそも天国のイメージは天上にあるのだという認識が我々の間にはあるのだから、天に召されることが=星に移動すると考えるのは、むしろ人類が持つ根源的なイメージに近くなるのではなかろうか。
人は死ぬと星になる。これは人が死ぬと別の星に移住することだ。
この結論にしかし、筆者は疑問が生じる。死ぬと星に移住するのなら、地球で側に残っている存在(魂)はいまい。それなら、例えば幽霊みたいに地球に残っている人なんていないではないか。だから“星への移住”は、死後残る魂という発想が出来てから行われるようになったと考えるのが自然だ。しかも、星への移住提案は死者のものではなく、常に生き残った側の人間が発している。ということはひょっとすると、死者が死んだ後行く場所というのは、“生き残った側が決めている”のではなかろうか。
そうだとしたらえらいことである。というのも、恒星というのは太陽と同じように核反応で輝いているのだから、その表面温度は数百万度なのである。だから、そんな場所に移住することになったら、死者はそれこそ死んでしまうではないか!
よってここに、“○○は星になったのよ”という場合の、正式な方法というものが想定できる。
それはこうだ。まず生き残った側の人間は、自分が指し示す恒星が、地球型惑星をその系内に有しているかどうかを調べなければならない。これは現時点の天文観測によって、惑星を持つ恒星系の候補が十ほど見つかっているから、まずは安心だ。次にそれが判明したら、生き残った人はその星を現在精査し得る最高精度、コンマ千ミリ秒の単位まで正確に指し示せるよう、練習しなければならない。これは結構難しいかもしれないが、これをなすことで初めて本当に死者は星まで生き、そこで我々を空から見守ってくれるのだ。
でもそんなこと、現実に可能なのだろうかとの疑問はあろう。だが筆者はここに、それは努力と根性で成し遂げられるのだと断言しよう。何故ならこの方法には、目的こそ違えども、先例、先駆者がいるからである。その父は息子の方を抱いて、今は亡きお母さんの星を指してこう呼んだのである。
「飛雄馬よ。あれが巨人の星だ!」
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