花咲爺の一神教

カロ藤法之



 花咲じいさんと言えば、本邦の昔話の中でも桃太郎、浦島太郎、かぐや姫、猿蟹合戦などと肩を並べる有名な話だ。その名前を聞くだけで、♪裏の畑でポチが鳴く、といった名調子や、ここほれワンワンというポチの科白を思い出す方も多いだろう。しかし、かように世に周知されていてみんな判りきったと思っている本昔話であるが、筆者などは以前からこの話に接する度にあれ?と引っかかる場面があり、それも一つや二つではなかったりする少数派の一人である。よって本稿ではこの際思い切ってそうした疑問に焦点を当て、それを机上理論的手法で読み解いていこうと考えている。

 さて、花咲爺(以下、個人名を指す場合は“花咲じいさん”、題名を表す時には“花咲爺”表記を用いる)の筋の中で、筆者が感じている疑問は六つある。それは3つのグループに類別されて、次のようにまとめられる。

1.じいさんの行動の奇特性について
 1-1. ポチが鳴いたから畑を掘る
 1-2. 生えて来た木で臼を作る
 1-3. 灰を枯れ木に撒く
2.ポチについて
 2-1. 重要キャラポチが前半であっさり死ぬ
 2-2. なぜ“ポチ”なのか
3.餅から小判が出る

 1.のじいさんの奇行は、一見どうして? と首を傾げる方もおられるかもしれない。また、筆者がヒネクレているから、正直者の行動がわからないんだという意地悪な見方をされる方もいるかもしれない。だが、以下に補足項として挙げた三つの理由を詳述することでそうした誤解は解けよう。2.のポチに関わる謎おける2-1.は、昔話では割とあるとはいえ、物語を聞かされたときに、え!と思う人は結構いるのではなかろうか。2-2.は、日本中どこの花咲爺でも名前がポチであることから生じた謎だ。3.の宝の出方の疑問は、普通に科学的な視点を持っていれば生ずる疑問だろう。
 以下、1.に含まれる三つの謎が何故謎なのかという根拠を示そう。そうしてじいさんが奇特であることを納得してもらえれば、その奇特性がとある行動に類似することが連想でき、それはそれ以降の疑問を見事に氷解してくれるからである。

 花咲じいさんがよくよく考えると変な人だと思うのは、上記したように三箇所ある。その最初のシーンは意外にも花咲爺中いちばん有名な、畑で宝を掘り出す場面、いわゆる“ここほれワンワン”のシーンだ。一般には気にされないかもしれないが、筆者にはまさにこの“ポチが鳴いた場所で掘った”ことが引っかかる。というのも、例えば犬がある場所に固執している場合、ワンワン吠える動作のほかにも、しきりに臭いを嗅ぐとか、前足で実力行使して掘り出すといった行為も行う。なのだが、実際飼ってみると頷いてもらえると思うのだが、犬というのは普通そうした動作をそりゃもう日に数え切れないほど行う。だから、もしポチがある日遠くでワンワン鳴いていて、しかもそこの土を掘り返していたとしても、普通の飼い主ならば「やー。またやっとるのぉ。」程度に思うのが関の山なのである。更にこの場合であれば、だいたいその場所は裏の畑であって、そこは他ならぬじいさん自身がいつも掘り返している場所なのである(他人の所有地なら、そもそも連れ戻さなきゃいけない)。となればますます、そこには普段犬が興味を示すつまらないもの以上の何かがあるとは考えないだろう。
 そう考えてみると、つまるところじいさんが、
  掘り返してみようかな
なんて思い付くことがそもそも不自然なのだ。だから1-1.が出てくる。これは、従来彼を定義立てていた“正直”という属性では括りきれないものなのだ。(余談だが、犬が土を掘り返す動作には、例えば夏にその掘った部分にある冷たい土を目当てとして行うこともある。知人のロシア産種の犬は生まれを体現するように暑がりだったから、しょっちゅうそれをやってたらしい。)
 さて、正直じいさんってちょっと変わってる? と、彼が挙動不審であることを示す二つ目の実例を見出すのは、物語の第二章にあたる臼のエピソードだ。いやなにも臼で餅を搗こうとしたことにいちゃもんを付けようと言うわけではない。そうではなくてその前、つまり1-2.の、死んだポチの埋葬地から生えて来た木を斬って臼を作ったというくだり。そこに疑問を呈したいのである。
 まずこの、生えて来た木の種類であるが、ネタ元とした富山県版花咲爺では柳となっている。ところが、これがまた筆者の頭を混乱させる。皆さんも柳くらいは見たことがあると思うのだが、一木造にする臼の材料として柳のように細い幹にしか成長しない木を使おうと思うだろうか? 柳なら柳行李だろ普通って具合に筆者などは思考するのだが...。でもまぁこれはたまたま底本としたサンプルが誤って伝えたのかもしれないから百歩譲って、生えてきたのは一木作りが可能となるような太い幹に成長する欅(けやき)あたりだったとしよう。だがそうだとしてももっとわからない。じいさんは、愛犬だったポチの生まれ変わりである木を切り倒そうとするのである。交通事故で息子を亡くしたから、息子が可愛がっていた鳥を大事に育てているんだとか、先立った旦那が大切にしていた錦鯉を愛しく思っているなどと言う話は巷間によく聞く話だが、例えば同鳥を剥製にしたとか、コイを愛しく思って生け作りにしたなどという逆転した話は少なくとも日本人の発想には無いものだ。
 で、こうなってくると物語最終章における“撒き灰”(1-3.)もやっぱり変、てことになる。当然だ。灰を有効利用するには畑の畝に肥料として散布するにかぎるということは、卑しくもお百姓さんであるじいさんが知らないはずがないではないか。いわんや風に散逸してしまう怖れのある枯れ木への散布においておや。というところだ。

 こうして見れば、じいさんが変な行動を取る人だということは既に万人に納得してもらえよう。じいさんは物語中、やることなすこと行動が吉と出て幸福になってゆくが、それは誰にもできることではない。花咲爺における幸福とは実は、
  普通の人間には思いもつかないことをふと思いつき、行動する
からこそやってくる幸福なのだ。

 ところでこの“思いつき”とそれに続く確信的な“行動”には、構造的に似た話がある。アブラハムの奇跡である。
 旧約聖書では多くの預言者の伝記を残しているが、預言者アブラハムは、神の敬虔なしもべである事を示す証として、息子のイスマイルまで神の支持どおりに生贄として捧げようとすることで神の恩寵を得る。このエピソードにおける、“頑迷なまでに天啓に忠実で直線的な行動”は、ここまで見てきた花咲爺における正直じいさんと重なるのである。となれば、

 仮説:じいさんのほとんど100%良い方向に転がる“思いつき”とは、“天啓”ではないか。

 これは花咲じいさん預言者説を導くに無理のない仮説だ。ここで一旦預言者というキーワードが出てくると、また別の視点からも類似項がでる。
(1)理不尽とすら思える不幸な出来事の畳み掛け
 これは、たて続けに隣の欲張りじいさんから不幸を背負わされつづける展開に相当する。それは、あたかも2クールの間虐められつづけたハウス版小公女セーラを髣髴とさせる...じゃなくって、同じく旧約の預言者ヨブが、病気になったり家族が死んだりと、神への信仰を試される目的でなされる数々の試練を髣髴とさせるのだ。
(2)啓示を実行した結果としての“審判”
 キリスト教による審判は言うまでもなく“最後の審判”だろう。そうした、神を信じていれば救われる(逆にいうと、どんなにいいことをしていても“神”を信じなければすくわれない)という展開は、果たせるかな、花咲爺においては物語最後における、殿様から褒美を貰う行為こそ、それに該当するものと考えられるのである。

 1.を吟味することで浮かび上がった仮説から導かれる『花咲じいさんは何者かに“啓示”を与えられた』説を堅固なものにするために、同説を踏まえて、2.におけるポチの存在を読み解いていこう。
 じいさんの命名したポチという名が、これも“啓示”だったとすると、そこにも何か隠された意味があると思われる。だからこそ後世の人は変名しなかったのだ。何故ならそれはそれ以外の名前に転換してしまうと、物語の骨子にある何かを変えかねない行為であることを、語り手が無意識にせよ理解していたから、と仮定するのだ。ならば“ポチ”とは何なのか。筆者はこれを“畝地”、すなわち畑の別名だったと考えている。畝地・畝(田畑のうね)だとするこの見方は、元々“犬は畑からの収穫の象徴である”とする民俗学の説とも矛盾するものではない。(ついでに言えば、京都弁でぽちとは心づけ(祝儀)のことだ。ここからも、ポチと命名したことが畑の宝を敷衍するカギだったことがわかると言うものだ。)
 何者かがじいさんに福を与えようとしてそれを畑に置いた。だから畑を示す“ポチ”という名前をじいさんの下に遣わした。その名前を持つ存在こそ“犬”だったのであり、つまり解釈としては何故“犬のポチが”ではなく“福が畑にあるから”使者の名がポチだったという、逆転発想をしなければならなかったのである。
 そうなれば、2-1.はもう謎ではなくなる。じいさんに福を与える方法が畑ではなく臼や灰になる後半では、犬の存在意義は無くなっているからである。
(ちょっと余談。幼い頃に聞いたときは何も感じなかったが、今は、“お宝”によって幸福になるという展開が、狭義な幸福と言う意味で安っぽいなぁと思えてしまう。自分の畑から“瓦やガラクタ”を掘り出したり、臼を置いた台所から“貝殻をザックザク”掘り出してしまう隣のじいさんは、実は先時代の遺跡や貝塚などを掘り当てているのであり、本邦考古学の立場から見るなら、彼の方が余程“ゴッドハンド”を持っている貴重な存在であるとみなせるのである。)


 さて、ようやく3.の疑問、すなわち“臼から宝がザックザックなんてあるのかね”に移ろう。
 そもそも、いつも耕している畑から大判小判がザックザク出てくること自体不可思議なのであるが、まぁそこは例えば、盗賊が夜のうちに自分の戦利品を埋めておき、ほとぼりが冷めたらまた掘り起こすつもりだった、とかこじつけ物語を考えることは出来そうだ。税務署の目を逃れるためにゴミ捨て場に“一時保管”しておいた大金が偶然見つかってしまうなどということは現代でもそんなに珍しい話ではない。
 いかん話がそれた。とまぁ、畑から宝の前半エピソードやラストの殿様ご褒美エピソードはまだ納得できるのだが、臼から宝というのはどう考えても不自然だ。餅の製造過程のどの工程を見ても、大判小判が間違ってにせよ混入したら判りそうなもんだからだ。
 そこで筆者は視点を素直に戻して、まさに“餅を搗いた”ときに宝が出来たと考えることにした。つまりポチを埋めた場所から生えて来た木で作った臼を、“宝製造機”だったと解釈するのである。
 ここでひとつだけ解釈の幅を広げさせてもらおう。餅を搗いた時に出てきたのは童謡によれば、“大判小判”だったのであるが、これは一般のおとぎ話で多く採用されている“宝”だとし、更にこれを“宝石”だと読み替えることをお許しいただきたいのだ。というのも、科学的に考えて、原料として臼の中に入れる“米”から、大判小判を構成する金Auや銀Agを作り出すのはいくらなんでも無理がある。せめて米を構成するたんぱく質組成中でもっとも比率の高い元素である炭素Cから出来る宝を考えたいのである。すなわち、ダイヤモンドだ。
 というわけで、筆者が考えている“ダイヤモンド製造臼”とは図のようなものだ。周囲の壁(ブラケット)と、それを両側から蓋をするダイヤモンドで構成されている。これは実は現在、地球の内部構造、それも内核や外核の構造を調べるために用いる超高圧発生装置(ダイヤモンド・アンビル装置)で数十万気圧と2000℃に及ぶ内部状態を作ることができる。それがどのくらい高温高圧なのかと言うと、中に入れた岩石があまりの高圧のために組織構造がより高密の物質に相転位してしまうほどのもんのすごい圧力なのである。つまり、この装置に米を入れると、中で組成中の炭素は自らの構成物質中もっとも密度の高いダイヤモンドとなるのである。
 周囲のブラケットが臼と呼ぶに相応しい格好をしていることから、じいさんが啓示により発明したこの道具をとなりのじいさんが臼と勘違いしたと考えるのは自然だ。もっとも、木がそんな内圧に耐えられるかどうかが甚だ疑問だが、残念ながら筆者にはそれを実験する時間と予算がない。とても悔しい。
 この装置の存在を納得してもらうのに解決せねばならぬ論点は二つある。一つは“装置の両側の蓋として使われるダイヤモンドをどこで調達したか”についてだが、これは簡単。ポチが示した宝の中にあったのだ。しかしもう一つの条件が難しい。この装置は上記した高温高圧を、両側のダイヤモンドからレーザー光線を同時に照射することで生成するのだ。ということは、“じいさんはレーザー光線照射装置を持っている”ことになる。
 一見無茶苦茶に思えるこの難問はしかし、本稿前半部とリンクして劇的に解決する。

 整理してみよう。これまで判った花咲じいさんの知られざる秘密には、
i. じいさんは何者かから啓示を受けられる
ii.じいさんはレーザー光線照射装置を持っている
の二つが大骨としてある。こんな存在について、我々は実は既に良く知っているのだ。すなわち、
   Jobial(愉快な) Enchanter(魔法使い) DI(ぢぢい...。)
 花咲じいさんこそ、JEDIマスターだったのである。

 彼が正統なJEDIマスターであったとすれば、数々の啓示をその心中に受けていたことも頷ける。彼の映画におけるルークスカイウォーカーも、ことあるごとに“フォースを使え”って妄想が...啓示が脳裏をよぎっている。さらにJEDIならば、じいさんがライトセイバーを継承していたのはまったく自然であり、それをもって上記装置のレーザー照射装置部分を構成することは十分にありうることなのである。だいたい某映画シリーズでも、JEDIマスターとして一番風格があったのは、じいさんであるアレックギネスだったではないか。(ついでに言えば、JEDIは信念の無い者には容易に幻覚を見せることができるので、灰を撒くと花が咲くというのは一種の幻覚操作の演出だったのではとの推測もできる。)

 花咲爺の謎に迫った本稿は、スターウォーズを取り込むことで驚きの結末を迎えた。しかし思い返してみると、元々同映画には、こんな風に昔話の研究に引き込まれて使われるべき素地が元々内包されていることが分かる。というのも、同映画の冒頭にはこうあるからである。

  A long time ago, far faraway…  (むかしむかし あるところに)





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