フリーターさん募集

さうす



 先日、筆者の居住地近くにある、とある繁華街を歩いていたときのことである。とある喫茶店の店頭に『フリーターさん募集』という広告が貼ってあるのを見かけて、首を傾げてしまった。

 いわゆる飲食店の求人が、街路へ向けて店頭に貼られていること自体には、まったく不自然な点がない。別に給金が労働基準法を著しく下回っていたわけでもないし、逆に今すぐ現職を放棄して、履歴書を書きなぐり飛びつきたくなるほど高待遇だったわけでもない。就業時間が法外だったわけでも、DTPが下手くそだったとか目を引くイラストが描かれていたとかいうわけでもない。職場環境や店長がことさら魅力的だったとか、そういう話でもない。となればいったい、この広告の何が私の目を引いたのか、読者は怪訝に思われるかもしれない。

 私が唐突に、しかし机上理論論者として直感的に疑問に思ったのはただ一点。
「しかし、なぜ『アルバイト募集』ではないのか?」ということだ。

 貼られていた広告で唯一特異だったのは『フリーターさん募集』という表現である。いわゆる「フリーター」とは、語義的にフリーアルバイターの事であるのは自明だ。だが、しかし、よく考えてみてほしい。すでに専属のアルバイターとなっている人間は、「フリー」ではない。
 そしてもちろん、専属ではない……つまり兼業のアルバイターだとしても、そういう人間は「フリー」ではない。
 すでに就業している時点で「フリー」ではない。これは、「フリー」ソフトウェアが体現するように、フリーというのは無料、つまり収入なしという意味ではなく、「束縛されない」という意味なのだから。

 では、この広告は「就業していない人」を募集しているのであろうか。もちろん、会社員のバイトなどは発覚したときに急に辞められたりして面倒だし、学生もテストや就職でいなくなってしまう。どうせ雇うのであれば、しがらみが少なく安定して長期に働ける人員が当然望ましいに違いない。

 しかし、よく考えてみてほしい。「就業していない人」というのは、病人や禁治産者でもない限り、そのほとんどは「家事手伝い」に分類される「ニート」か「プー」であって、彼らは「フリー」でこそあるが、そもそも「アルバイター」ではない。

 つまり、『フリーターさん募集』というのは、そもそも形容矛盾ではないか?
 普通に「アルバイト募集」と書けば済んだものを、わざわざ「フリー」かつ(AND)「アルバイター」という限定した対象を募集しようとしているのである。

 なぜ、こんな素朴な疑問を持たれ、筆者に机上理論のネタにされてしまうような広告をあえて打ったのであろうか? 推測ではあるが、たぶん、この店主にはこういう裏事情があるのだろう。おそらく、この店の店主は過去に「フリー」ではない「アルバイター」に苦労させられた経験があるに違いない。
 時間を守らないとか、勝手に休むとか、その理由はいろいろ考えられるが、自店の「アルバイター」ではない「フリー」な人にたとえ苦労させされたのだとしても、そんな人とはもともと雇用契約関係を結んでいないのであるから、この求人広告の表現に影響を与えたとは考えにくい。やはり、「アルバイト募集」という広告で雇い入れた「フリー」ではない「アルバイター」の過去にしでかした問題が、彼をして『フリーターさん募集』という表現に走らせたのだ。

 店長という立場からすれば、上記のような理由で「アルバイト募集」という表現では説明が不十分だったのではないか? 彼が言いたいことを正確に要約すると「しがらみのない人募集」ぐらいにでもなるのだろうが、さすがにこんな婉曲な日本語では、ゆとり教育のこのご時世に意図が伝わらないと考えたのだろう。
 とはいえ、「ニート募集」などと書いたのではあまりにミもフタもないし、それ以前に仕事の役に立ちそうもない。といって「家事手伝いさん募集」では嫁さん募集みたいに読めてしまうし、「プーさん募集」では万が一クマが殺到してきた際に募集を断りきれなくなってしまう。
 だからこそ、行き着いたのが『フリーターさん募集』なのだ。

 しかし、少々考えすぎた彼の見通しは甘かったようだ。上記の通り、「対象と
なる層じたいが存在しない」事は明白である。それが仇となったのだろう、次にその店の前を通りがかった頃には、その求人広告は早々に外されてしまっていた。まあ、ろくに集まらなかったことは想像に難くない。間違っても殺到などしないだろう。

 ……それにしても、最近あの店でみかけるようになったあの娘、広告の貼られた後からこの店に勤務しているようだが、いったい、彼女は本当に求人条件どおりの「『フリー』で『アルバイター』な存在」だったのだろうか?
 よもや、この論では取り扱いきれない特殊な事例なのかもしれない。もうちょっと研究してみたいものだ。





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