さうす@いんくる
日本は、八百万(やおよろず)の神の支配する国である。
もちろん、数年前、当時の総理大臣がうかつにも発言したように、天皇を中心とするのかどうか、という点については、正直言って定かではない。それに、政治思想問題を問うのは、この論の趣旨ではない。だから、それは読者の意識から棚上げしてほしい。
だが、少なくとも、神社という組織の元で執り行われる初詣・地鎮祭・上棟式・初節句・七五三などなど、現代の日本にあっても、神道の儀式は色濃く根付いている。
この科学文明の時代、もし仮に、こういった行為にはなんら効果が無い、と圧倒的多数が信じているのならば、早晩廃れてもおかしくないはずだが、そうはならない。廃れるどころか、いにしえの昔より脈々と伝えられている。神社という存在は、信心の多寡にかかわらず、地元住民から等しく一定の敬意を払われているではないか。
日本人の多くは自らを無宗教だと思っているかもしれないが、身に覚えは無いだろうか? 新車購入といってはお払いをし、出産といってはお守りを買い、入試や虎の優勝祈願といっては絵馬を奉納する。また「八百万の神様が疲れを癒しに来るお湯屋」油屋は2つの意味でまさに大繁盛だった。神の国なのだ。
この、八十万(やそよろず)とも千万(ちよろず)とも呼ばれる、神道の「八百万の神」という概念だが、有名な歴史書、本居宣長の著「古事記伝」三之巻に曰く、
「さて凡(すべ)て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしへのみふみども)に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其(そ)を祀(まつ)れる社に坐(おは)ス御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云ハず、鳥獣(とりけもの)木草のたぐひ海山など、其余(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならず、すぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云なり。」
つまるところ、カミ=神とは、神道の代表的な神々を中心とし、人や動植物など森羅万象、あらゆるモノや概念「世の常ではない優れたること、かしこいもの」であり、それぞれに神が宿るという自然物崇拝・アニミズムであると言えるだろう。
それは、物を大事にし自然災害を畏れ、春夏秋冬の廻りを歓び恵みに感謝の気持ちを持つ、そのことに通じるのではないか? 征服的思想でも、禁欲的・排他的な文化でもない。現代社会はさまざまな問題を抱えているにせよ、こうした宗教を背景に日本文化が成り立っていることを、一日本人として誇りに思うのである。
さて、論題に「宝くじ」と入っているのに、一向にそのことに触れない事を気にする諸兄も多かろう。そんな少々せっかちな読者は、宝くじが当たらないことにつねづね忸怩たる思いがあるのかもしれないが、決してあわてないでほしい。かくいう筆者もそうなのだから。
ここまでで神様の説明をしてきたのはなぜか? 日本において『当せん金附証票法』を根拠として発行されている宝くじも、森羅万象の一部であり人間の営みの一つとして含まれることは、前述した説明から疑いの無いことだろう。つまるところ、宝くじにも神が存在するのである。
となれば、宝くじがなかなか当たらなかったのは「宝くじの神」をなおざりにしてきたからであり、心を改め信じて敬い奉れば、当選確率UPもあるいは期待できよう、というものだろうか?
ところが、話はそんなに単純ではないのだ。
一口に宝くじと言っても範囲が広いので、大多数の興味の的であろう、年3回発行のジャンボ宝くじに的を絞る。毎回異なるので具体的な数字は挙げないが、どの回においてもかなりの枚数が発行されており、それを毎回たくさんの「宝くじ人口」が入手し、当選の知らせを待ち歓喜に沸き失望にくれる。
まずは、当たりくじになる運命をもつ紙片を手に入れなければならない。「買わない宝くじは当たらない」からだ。つまり、「(宝くじの)紙の神」がおわすのである。
では、抽象概念である妙齢の麗人「宝くじの神」と、紙片をつかさどる若く魅力的な「紙の神」が何らかの形で協議して、当選者を決めているのかもしれない。となれば、さらに心を改め、この2つの神を信じて敬い奉ればよいのだろうか? いや、まだ気がついていない要素があるようだ。
宝くじには、かならず「厳正なる抽選」が存在する。それはジャンボ宝くじでは、番号を書いた円形の的を桁数分用意し、それを回転させながら弓で射的し、当たった矢の位置によって番号を決定するという、常識的範囲では疑いようの無い方法で行う。しかしながら、弓と矢の気まぐれで、どんな番号になるのかは簡単に変化してしまうのである。
そうとなれば、「宝くじの神」と「紙の神」と、おそらく双子と思われる美人、一途で凛とした風格の「弓の神」、および、相手の懐に飛び込む勇気とやさしさを持った「矢の神」の4者会談で、だれの持っていったくじを「当たりくじ」にするのか、アレコレと相談しているのであろう。
よしわかった。いま一度心を改め、この4人の神を信じて敬い奉ろう……おっといけない、大事な要素があるではないか。
それはなにか? 先ほど登場したもう一つの要素、「的の神」である。あの的が回らなければ抽選は行えないし、回転の速度が適切でなければ狙うことができないし、的が矢を弾き飛ばしてしまうような硬さであれば、当選者は決められない。彼女の役割は重要であり、明らかだ。
ではこれではっきりしただろう。「宝くじの神」と「紙の神」と「弓の神」と「矢の神」、そして感情の起伏に富んだ「的の神」の5人が輪になって、どんな番号を「当たり」に決定するか、口角泡を飛ばして話し合っているにちがいない。
ふたたび心を改め、この5人の神の織り成す妙技に感謝し、信じて敬い奉るのが人の道であり、神の道というものであろう。さあ、身を清め神社にお参りに行こうではないか。
……おっといけない。まだある要素をうっかり見落とすところだった。まかりまちがって神の怒りを買おうものなら、どんなバチが当たるか分かったものではない。ダメな奴と烙印を押され、宝くじが一生当たらないことに決まったりすれば、たとえどれだけ買っても必ず紙資源の無駄となる。たったの数万円で買えていた、夢や希望さえ無くなってしまうのだ。
本題に戻ろう。その要素とは、ほかでもない。的の横に立って、矢が当たるごとにその的を止める役。毎回異なる格好をしている女性である。そう、「キャンペーンガールの神」だ。
彼女が的を止めることで、番号の読み取りが可能となる。役割は明らかだ。「宝くじの神」と「紙の神」と「弓の神」と「矢の神」と「的の神」、さらに、誰に対しても笑顔を向ける心の広さを持つ「キャンペーンガールの神」の6人が、宝くじの当選にかかわっているのだ。信じよう。あらゆる神はあなたのそばにいるのだから。
まだ、何か忘れていないだろうか? 慎重に進めないと、怒りを買って宝くじが「多空くじ」になってもらっても困る。えーと、あった。会場に高らかに響き渡る声。多くの観衆を一喜一憂させる力を持った「アナウンサーの神」。まるで昭和30年代の伝説的アナウンサー(故人)あたりが本当に勤めていそうな位置だが、このアナウンス抜きで、宝くじ抽選会は語れないのではないか?
これで結論としてもいいだろう。宝くじには、「宝くじの神」「紙の神」「弓の神」「矢の神」「的の神」「キャンペーンガールの神」「アナウンサーの神」の7柱が密接に係わっている。裏を返すと、どの要素が欠けても、宝くじは成り立たないのだ。
神道を信じるのに、信者になる必要は無いし、必ずしも神主や巫女である必要も無い。多くの日本人同様、ときおり神社にお参りし、自然のありがたみを享受する際、いささかの謙虚さを持ち合わせていること。それが大切なのだから。
その際、この7人の神により多くの感謝をささげても、バチは当たるまい。日本の神々はおおむね寛容なのだ。さあ、宝くじを買い、神社に行こう。
……それにしても、なんか動機が不純じゃないか? 気のせいか。
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