加藤法之
[0]はじめに
日々の労働から開放される日曜日、普段より遅く目覚めることに心地よさを感じながら、時刻も確認しないうちになんとなくTVのスイッチを入れる...。と、画面いっぱいに、髭の濃い(当然胸毛も濃そうな)中年親父のどアップが、まんじりともせずにこちらを凝視している...。
ファイヤーストームとは、TV東京系で4月から始まった、同名の国際救助機関の活躍を描くアニメである。サンダーバードのゲーリーアンダーソンが関っており、CGバリバリのメカニックシーンというふれこみに、メカフェチ達には(少し)話題を呼んだのではなかろうか...。ろうか...と言ったのは、実際に見てみると、売りのCGは、TVアニメで使えるようになった程度の技術で今更なものだし、話はというと、救助隊のはずなのにやたらにドンパチがあるという、なんだか首を傾げる展開ばっかりで、とてものこと楽しみにしている人がいるとは思えない内容だからだ。
だが、そんなマイナスイメージがメーターを振り切っているような同番組の中でも一番インパクトのあるのは、キャラクターだろう。主人公(らしき人物)こそ女性なのだが(でも、どう贔屓目に見てもかわいくない)、その他は出る人出る人ことごとく野郎(厳密にはもう一人女性がいるのだが、なんかなぁって感じ)。で、それだけでもくらくらしているのに、中でも一際のむさくるしさで頂点に立つのが上述した髭の人、同隊の隊長というわけだ。そんなこんなだから実際、物好きからか偶然からか、間違ってこの番組を見てしまった者は、多かれ少なかれ筆者の蒙った、上述したような悲劇に見舞われたと思われる。筆者などは、あまりのことにチャンネルを持ったまま硬直してしまい、その後“デジキャラットにょ”のへなちょこな絵に和まされるまでは、指さえも動かせなかったくらいだった。
そもそも、いったい何処をどう間違えばあんな番組ができるのか?
冷静になった筆者が、やり場の無い怒りを抑えながらこのように自問したとしても無理はない。何かの間違いでワールドシリーズに出てしまった新庄の、自慢げに語っているさまを見ているときに感ずるような“ひとこと言ってやりたくなる納得いかなさ”がそこにはある。常に常に裏切られ続けてきたから、勝てば勝つほどになぜかファンの不安をあおる結果となってしまう阪神から発せられるような“どうしようもない不安定さ”がそこにはある。
[1] 上半期美少女事情
上半期アニメ美少女で目立ったところを挙げ...ようかと思ったのだが、正直、これだけアニメ番組が細分化してしまうと、これだと言えるほど(オタク達)万人に目立った美少女はいなかったというほか無い。が、敢えて言うなら、学園戦記ムリョウの那由多が掠るのではなかろうか。精一杯行動しているつもりだが、どうにもうまい結果を出せないで不機嫌になってしまうところが、いかにも中学生あたりには実在しそうな雰囲気を持っていて、なんともおかしい魅力がある。こういったリアリティの出し方は、ちょっと筆者には前例が思いつけないほど新鮮なものに映って好感がもてた。そう言えば、奇しくもカスミンのカスミなどにも生活感から来る実在感があるし、これは今の作品ではないがプリンプリン物語のプリンプリンにも、非常にバランスの取れた人格を見出せることは興味深いことだ。これらNHK美少女達に共通した実在感は、彼女達が自分達見る側と同様の実存的な悩みを抱えていることが画面にはっきり見えていることにあるといってよいだろう。こうした魅力は、近年跋扈していたいわゆる“あかほり型”一意的性格の人物像には期待すべくも無かったものなので、これまで十数年にわたって跳梁してきたその風潮を、製作者側がようやく反省かつ脱却しようとしている兆しなのだろうかと、筆者などは少しく期待しているのだが、どうだろうか。(上記論考中に20年前の作品であるプリンプリンが出てきたことは、そうした意味では偶然ではないかもしれない。)
実際、こうした“深い”人間の掘り下げによって魅力を出すというのは、かなり計算ずくでやらなければできるものではない。というのも、見る側がどんな生活をし、かつ、どういう人が周りにいるかを弁えた上でなければならないからだ。そこには綿密な打ち合わせと、確固とした論理的思考が感ぜられる。
そう。彼女達にあってファイヤーストームにかけらも無いのは、この、“見る者を基準として人物達を構築していく姿勢”であり、それを実質的になしうる論理的方法なのだ。思いついただけでしかない企画を漫然と放映するような作品に、それができるはずがない。
さて、瑣末なショックが動機であったとはいえ、このような事件を契機として、筆者は“受け手の萌えを引き出すための論理的方法を探る”学問を、学んでみたいと思うようになった。そしてそれが“ペド論理学”と呼ばれているものであること、そしてそれが、以下に示すような内容と、成立過程を持っていることなどを、知ったのである。
[2] ペド論理の黎明と第一次完成・アリスと(〃▽〃)テレっスの三段論法
毎日毎日放送されるアニメの数は膨大になっており、いっかな我々でも、もはやそれに逐一着いて行く努力は放棄して久しい。が、それでも性分として、「見なかったアニメのうちで傑作があったらどうしよう。来月のアニメージュあたりででかでかと特集されていたりしたら悔しいんだよな。」などと強迫観念に駆られてしまう。このため、ぴちぴちピッチみたいな痛いアニメを流し見するような悲劇に陥ることになっている人もいると思われる。
昔日のアニメファン、“アリスと(〃▽〃)テレっス”も、そんな一人だった。
彼の時代におけるアニメ作品は、今ほど数があったわけではない。だがそれでも、万能オタクであった彼にとって、いちいち放映全作品をチェックする暇などあるはずがない。よって彼はその困難に際し、以下の論法を適用することにしたのだ。
前提1: 来週から始まる新番組は、男の子向けである。
前提2: 男の子向けであれば、大きい男の子向けではない。
結論 : 来週から始まる番組は、見る必要がない。
すなわち彼は、予告、新聞、アニメ紙などで新番組の情報について二つの情報、すなわち前提1と前提2を満たすかどうかを調査し、そこから結論、その新番組を見るか見ないかを判定したのである。
我々専門家の間で“アリスの三段論法”と呼んでいる上記判定法、そのいささか乱暴と思われる論理展開から得られる結論が果たして妥当かどうかを、実例で試してみよう。ランダムに抽出した資料として挙げるのは“しましまとらのしまじろう”だ。しまじろうは、しまじろうが男の子であることから考えても、明らかに男の子向けであるから、前提1を満たす。そして同番組中のキャラクターの多くは、対象としている男の子の共感を呼ぶ必要のある男の子達だから、前提2も満たすことになる。するとどうだろう。結論としてこれは正しいのである。何故なら我々は確かに、「それなら見なくていいや。」と考えている自分に気づくからである。
こうした一意的な判定方法には、“深い”専門家からクレームがつくであろうことは承知している。すなわち「女の子キャラもいるじゃないか。」おまけに「しまじろうは南央美があててるんだぞ。」という反論である。だが、同番組中における女の子キャラは、ネコミミとかウサミミとかのレベルではなく、もろにネコやウサギなのである。それは確かに可愛らしいかもしれないが、それは我々の判断する“萌え”とは違うものであり、それを同一視できるひとは、最早“動物好き”というべきである(同一視出来てしまった人の自己反省を期待し、敢えてフェチとは言わない)。そして後者である。金田朋子があてているだけでボンバーマンのシロボンの人気が高いことを考えれば、この意見は説得力があるように見える。だが、これには逆に、「あんたたちはナデシコが始まる前にしまじろうに萌えてたのか?」と問うてみよう。南央美があてているのはオタクとしては萌えの一要素になることは間違いない。だが、それは金田朋子がシロボン以前にあずまんが大王の美浜ちよをあてていることと同様の意味で捉えなければならない。すなわち後者で問題にしている南央美は単独の南央美ではなく、演算子“ホシノルリ”を経たあとの南央美であり、両者は厳然と区別せねばならないのだ。アリスの三段論法はあくまでも新番組に対して適用されるものであり、情報の時系列が一番最初にある。すなわち、そこでの情報は非常に純粋無機質なものであることを考慮せねばならない。よって、ホシノルリ変換以前の彼女を目ざとく見つけていたつわもの以外にそんな批難言われたかないね、てなもんなのである。
しかしそもそも、そんな程度の判断はいつもやってるよと、高をくくる向きもあるかもしれない。だが、この判定方法の凄いところはまさに、我々受容側が行うそんな無意識の選択を抽出し、その思考が驚くほど単細胞なものであることを示した...いやいや、その思考を明確に論理化したところにある。言うなればこの判定方法は、寧ろ製作者側が判断の礎とすべきものなのである。何故ならこれを使うことによって、製作者側がオタク向けの新番組を検討する場合、ハイリスクを避ける企画を立てることが出来るからである。最近の番組の傾向として、「誰か止める奴がいなかったのか?」というようなものが、力石もかくやの信じられないフットワークで網の目をかいくぐり、放映にまで漕ぎ着けてしまうような奇妙な例が散見されるのだが、この論理を適用するだけで、その危険の多くは回避できるのである。(前記したファイヤーストームにおける失敗がここにあることは明白であろう。いかに大物が企画を流してきたとしても、卑しくもテレビ東京ともあろうものがこの論理を外してはいけないのである。)上記論理の、内容の詳細を検討しなくても企画段階で結論が下せることの重要性は、かかって送り手が肝に銘じておくべきことなのである。
アリスの三段論法で気をつけることは、例文にみる“男の子向け”という言葉の定義である。一見して判るように、この言葉は“前提1の述語”“前提2の主語”、そして“前提2の述語の一部”にあるのだが、前二者は同一の意味として、しかし後者は別の意味持つものとして区別しなければならない。前者は論法内における意味も重要で、媒名辞と呼ばれるこの部分が共通した意味を持っていないと、論法の正当性を損なうことになる。たとえば前提1が、
来週から始まる新番組は、大きい男の子向けである。
などとあった場合、結論の判断は大きく変更せざるを得ないのである。 “大きい男の子”というのは物理的に“背が高い”男の子ではなく、義務教育、さらには極端に高等教育も受けた者(更には社会人!)である可能性すらある、生物学的には成長後の人類と判断される者達のことであるので、そもそも意味論的に違うから、気をつけなければならない。(実生活で両者の違いがわからないような人間は普通いないから、何を言ってるんだこいつはという印象を受けるかもしれない。が、今のネット社会では発言している人間のひととなりが消失しているため、「あたし12歳」と自称している相手が、グラディウス2の話題を振ってくるようなら警戒しなければならないのだ。)
己の実用性から作成したアリスと(〃▽〃)テレっスの三段論法は、それ自体の完成度の高さから、ながきにわたり多くの者が判断のよすがにしてきた。しかし、彼の番組捨象論はもともとは番組の“質”を事前に判断することに重点を置いていたため、近年の我々が直面している、美少女に対する時に感ずる複合多義的な高揚感に対する価値判断、いわゆる“萌え”に対しての正確な判断は難しくなってきた。だから、彼をペド論理学黎明期の天才とする位置付けは揺るがないにせよ、各研究者の間では彼を追い越してより“萌え”に適した、いわゆる“論理学”を超えた“ロリ学”を完成させようと、躍起になったのである。
[3] 計算による論理の解明の試み・ライ“ぷに”ッツの夢
前述したように、近世に入って形成されてきた“萌え”の概念は、“番組”というマクロ的な枠ではなく、個別の美少女達にスポットを当てるミクロ的なものになってきたから、その判定はまさに各個撃破であり、その労力(と資金)たるや、(不況にあえぐ)社会人にすら酷なレベルに達していた。
計算法を考えたライ“ぷに”ッツが出てきたのは、まさにそんな時代だった。彼は萌えを感ずるのには一定の法則がある。それは判っているのだから、それを数理化することが出来るのではなかろかと考えた。すなわち、ロリ学をペド数学で基礎付けしようと試みたのである。
彼のアイデアは単純で、すなわちある美少女を数値化し、それをあらかじめ作った関数に入れることで、萌えを計算で求めることが出来る、というものだ。そんな彼の究極的なたくらみは(全ぷにの制覇、ではなく)全ロリの計算という壮大きわまるもので、ゆくゆくは美少女を己の前に立たせてふ〜むと首を傾げると、その萌えがチーンという音とともに判定されるという夢のようなことを考えていたらしい。こんな羨まし...こんな学問上画期的なシステムは是非実現化して欲しかったところだが、あまりに壮大な構想だったため、彼の計画は理念的なものに留まった。だが、彼の思想はその後のロリ学に脈々と受け継がれ、今でも恋愛シムレーションなどの基礎思想に受け継がれているのだから、我々はあながち彼を笑うことは出来ない。
ライ“ぷに”ッツの発想は、美少女の属性を丹念に調べ、そのもっとも基礎的な部分を抽出して“公理”化し、他の複雑な属性はその公理属性から構成して、あとは一定の規則にしたがって次第に定理を増やして美少女体系を構築してゆくというものだった。いうまでもなくこれはロリ数学にいうエキレイデスが『原論』で修めたペド幾何学における公理と定理の関係を踏まえたものと理解されよう。
これも例をあげてみてみようか。今目の前に、おジャ魔女どれみの“妹尾あいこ”ちゃんを思い浮かべて欲しい。 ...はっ! いかん、思わず妄想してしまった。ぶるる。(ああ...、読むのヤメナイデ。)まず彼女の属性をいくつか挙げてみると、“関西弁である”、“生活が苦しい”、“健気である”、“元気で快活である”、“スポーツ万能である”、“親が離婚している”、“たこ焼き作るのがうまい”、“面倒見がいい”などなどであろうか。これらは一見雑然としているのだが、たとえば“関西弁である”という属性には、“たこ焼き”と“面倒見がいい”などが付随する属性として出てくることが判るだろう。このようにして各属性間の関係付けを行うと、以下のようになる。
関西弁 − たこ焼き
− 面倒見
− 元気で快活 − スポーツ万能
健気 − 生活苦
− 親離婚
この関係を見たときに、一番左にある要素があいこにおける萌えの“本質”であり、ライ“ぷに”ッツによれば、これが“公理”であることになる。そしてたとえばたこ焼きは、関西弁の公理から導き出すことができる“定理”なのである。
この表の中で納得しにくいのは、スポーツ万能と関西弁の関係であろう。これは、上記表の関係が、右に行くほど人間を限定するための要素(キャラ固有の個性)であることに起因している。これは、逆転して言えば右に行くほどそのキャラに対する萌えの構成が複雑になっていることを示す。ここに、一般的にある定理は、公理または定理の複雑な論理操作の結果証明されるから、普通はある複雑な定理を説明するのに用いた定理の中味の公理にまで遡って説明することはしない。つまり、元気で快活の定理は、既にして関西弁公理から導出されているのなら、スポーツ万能の定理を証明するのに関西弁の公理までわざわざ戻ることは普通ないため、直感的に関西弁の公理が不自然に見えるのは致し方ないことなのである。
(ここで更なる反論があろう。ならば、あずまんが大王の春日歩(大阪)はどうなんだと。関西弁から導き出される定理にスポーツ万能があるなら、あのどんくささはどう説明するのだと。確かにもっともな意見だが、それは関西弁の公理を狭義に取り過ぎるが故の誤謬だといわねばならない。何故なら、関西弁公理から導き出される別の定理には、ボケの定理があるからで、ゆえに、大阪のどんくささはそこから証明される。すなわち、同じ関西弁の公理から導出されるにもかかわらず、あいこの萌えのツリー構造とは別系統なのである。)
さて、こうして得られた萌えツリーを、各階層ごとに判定していけば、ある美少女の萌えかどうかがわかることになる。つまり、美少女にあらかじめこの判定を付記しておけば、受容側は初見の美少女でも、一見して萌えが判るというのだ。
ライ“ぷに”ッツの夢がいかに凄いものであったか、少しは感じていただけただろうか。
[4] ロリを計算せよ・ブールマのロリ萌続詞
ライ“ぷに”ッツの壮大な精神を、実質的な技術的課題として捉え、その難問を見事に乗り越えた変態...学者が、ジャージ・ブールマだ。(名前はおっさんくさいので、苗字で呼ぶことに賛成してほしい。しかし、苗字にするくらいだから、小野敏弘と同じくらいブルマ好きなのだろう。)
ライ“ぷに”ッツはロリにおける各属性と属性を上述したように関連付けを試みたが、ブールマはその、属性と属性をつなぐ“接続詞”に目をつけ、それを体系化することで、文を確実に萌化できるとしたのだ。流石変態...天才!
彼の見出した強力な接続詞は四つあるが、まずは否定萌続詞“ないミャン”を見てみよう。これはロリ記号では“〜”と付記され、あらゆる文の最初に接続するだけで、全体を“萌化”する。例として、一般の文、
わたしは真面目な社会人だ
に、否定萌続詞を適用してみよう。記号的にはまず
〜(わたしは真面目な社会人だ)
となる。これを読むと、
わたしは真面目な社会人じゃないミャン
となる。どうだろうか、しゃちほこばったことを言っているのに、語尾に否定萌続詞を負荷するだけで、がぜんまぬけさが...萌え度が増したではないか。このように“ないミャン”には、強力に前文の持つ威厳を払拭する力があるので、“否定”萌続詞と呼ばれるのである。
“ないミャン”は、以降に示す他の接続詞と違い、単独で文に影響を与えられるという恐ろしい力を持つため、論文などにうっかり使うのは良くないミャン。 あれ?
次が連言または混成萌続詞と呼ばれる“かつ”を見てみよう。本接続詞は、その記号がネコ耳から連想された記号“∧”で表される。ネコ耳は女の子がかぶると萌え度が増す。このことからもわかるように、単文では萌え度が弱い文や、単文では正常な意味しかもたない堅気文どうしをくっつける役目をする接続詞なのだが、くっつけた後に萌え衝動を大きく喚起することができるというものだ。
P : 少女 Q : メガネ
とすると、これを混成萌続詞でつないで
P∧Q
とする。これで普通の少女は、いわゆる“メガネっ娘”にレベルアップする。力関係からすると、
P < P∧Q
となるのがわかるだろう。「俺メガネ萌えじゃないのさ。」などと強がっている向きには、こんな例はどうだろう。
R : ドジ
から、
P∧R
これでいわゆる“ドジっ娘”が構成された。近年、シスタープリンセスの花穂などの影響で評価が急速に高まりつつあるドジっ娘は、混成萌続詞の例としてはかなり強力なのではなかろうか。
ちなみに上記花穂がドジっ娘として確固たる地位を築いたことには、花穂の属性が
P∧R∧T∧O
であったことによる。Tにはチアガールという、ちょっと特殊な属性が入るのだが、チアガールがミニスカートを基調としていることに気づけば、
R∧T
成分が如何に強力な萌え力を引き出すかは言うまでもあるまい。
ちなみに、Oには“妹”が入りそうなものなのだが、そうではなく、呼びかけとしての“お兄ちゃま”を入れる。(“ちゃま”が良かったのか? という観点から、ではおぼっちゃまくんはどうなのか、という問題提起がなされているが、研究の待たれるところだ。)
三つ目の接続詞は選言萌続詞だ。記号は“∨”であらわされ、“または”と読む。
あざとい例でなんだが、(話はともかく)商業的には成功している藍より蒼しによる萌えは、
((幼馴染)∧(しとやか)∧(和服)) ∨ ((金髪)∧(博多弁))
∨ ((メガネ)∧(巨乳)∧(ドジ)∧(メイド)) ∨ ((秘書)∧(年上))
∨ ((年下)∧(なつく)∧(元気)) ∨ ((お嬢様)∧(高ビー))
という具合に書き出せる。∨で区切った各要素が個々のキャラクターであり、この文全体が同番組という位置付けになる。この長文の“萌え”の判定は、個々のキャラクター要素でなされる判定の総和でなされる。つまり、一つでも“萌え”判定がなされれば、全体の文が“萌え”になるのだ。需要者側は、この要素の一つが気に入らないとしても、それが全体を捨象する理由にはならない、というあたりが曲者なからくりだ。しかしこの番組も、よくもまぁこれだけ詰め込んだものだと半ば呆れ気味に感心する。
選言萌続詞が、確実に購入者を満足させねばならない商業主義的萌えに多く使われる接続詞であることは覚えておいて良いだろう。いわゆる商売として“あたり”を狙うには、古い例でなんだが、サターンゲームのルームメート・井上涼子のように、対象となる美少女が一人だと、“萌え”判定を出させるに慎重な作りを要求される(主人公とも一人以外すべて野郎。しかもその女性キャラも絶望的に可愛くない。ファイヤーストームが失敗してる原因の一つだ)。だから、出演者を複数にして∨でつなぐことで、全体の“萌え”を維持しようという論理が、わりと安易に導出されるのだ。ルームメートのように同じ屋根の下で美少女と暮らすという企画が持ち上がったら、いっそのこと女子寮の管理人にしてしまえという発想もありだな、などと選言論理的に筆者は考えたものだ(これは商業的発想をしたのであって、筆者がそうなりたいと妄想したわけではない...たぶん)が、実際にドリームキャストで発売されたミルキーシーズンというタイトルが同じ設定だったのには驚いたものだ。(これが当たったのかは筆者は知らない。)
こう考えてくればシスタープリンセスなどは、
お兄ちゃん ∨ お兄ちゃま ∨ お兄様 ∨ あにぃ ∨ おにいたま ∨ 兄上様
∨ にいさま ∨ アニキ ∨ 兄くん ∨ 兄君さま ∨ あにチャマチェキよ
∨ にぃや ∨(あんちゃん)
と書き表せるわけで、これだけ挙げればまぁほとんどの人にとって“萌え”は真なのである。
(選言萌続詞に関する恐ろしい例外は後述する。)
四つ目の接続詞は、含意萌続詞だ。記号は“⊃”であらわされ、“ならば”と読む。
含意という名からも察せられるように、ある属性に含まれている意味や、付随して期待されるであろう出来事を明確にする作用がある。
メガネ ⊃ 勉強家
お兄ちゃん ⊃ 頼る(頼られる)
類型的だが、前者が“含まれた意味”の例、後者が“出来事”の例である。ある属性を表現したときに、受け手がどういう展開を期待するかを考える上でなくてはならない分析をする文といえる。
ただ、上記例では含意するモノは比較的明確なのであるが、困るのがたとえば“バニー”、などの属性で、これの含意を“コスプレ”と見るか“制服”と見るかによって、受けての性格がまったく異なってしまうので注意しなければならない。“チャイナ服”や“エルフ耳”、“アンドロイド”といった属性と同じ集合に属すると解すれば“コスプレ”と見られるだろうが、うっかり“セーラー服”、“白衣”などと一緒にすることで“制服”の連想を抱かせてしまうと、途端に品位が下がってしまうので、気をつけなければならない。“萌え”にとって品位は大切な要素だからである。
ちなみに、含意萌続詞P⊃Qは〜(P∧〜Q)という具合に、否定萌続詞と混成萌続詞で書き直すことが可能である。だからたとえばブールマは
スク水 ⊃ 小学生 : スク水といったら小学生だ
を、
〜(スク水∧〜小学生) : スク水で小学生じゃないなら許さないミャン
と置き換えている。彼は変態だが、慧眼ではあろう。
(この置換は本当に可能なので、みんなで覚えよう。親切な筆者より)
[5] ロリータを書き尽くす・フレーゲとラッセルの述語属性表現
上述までに、アリスと(〃▽〃)テレっスは、番組全体を問題にする判定法を確立した。そして、ライ“ぷに”ッツがそれを美少女に当てはめる構想を打ち出し、ブールマによりその属性間の関係付けが記号化された。それらの業績によって確かに美少女の記述は深化されたが、例えば前述した (スク水 ⊃ 小学生)、すなわちP⊃Qという文は、敢えて属性だけを書いてあるが、Pという文の中味についてそれ以上踏み込めないことを意味する。つまり、Pの中味のスク水を誰が着ているかというのは判明しないのである 。
これをたいしたことじゃあないと思う者はオタクをやっている資格がない。何故なら、⊃により含意されたQすなわち小学生の中味すら確定しない現状の記述では、その小学生の具体的な内容が詳らかではないということであり、最悪それは男の子かもしれないのである!! (それでもいいというような人と、筆者は友達になりたくない!)
これに恐怖を感じた者が先達の中にもいたことに筆者はほとんど感動を禁じえない。この恐怖を克服するため、漠然とした属性に固有の行き先をつける記述法、述語による属性表現を確立したのが、緊縛好きといわれたゴットロープ・フレーゲと、小学生ずきのバートランドセル・ラッセルである。
フレーゲは元々緊縛好きであったから、ある属性を持つ少女をすべて一括りにカテゴリー化する“あかほり集合”という概念を考えていた。あかほり集合では例えば、
天然 : 神崎あかり,大空ひばり,愛野美奈子,うぐぅetc.
魔法 : ミンキーモモ,メグ,おジャ魔女チームetc.
などとなるわけだが、いっそのこと、各名詞を左記属性に付随する表現にしようとしたのである。すなわち天然をP、魔法をMとすると、
P(a) 、 M(a) または Pa 、 Ma
という具合にだ。aの部分に各少女の固有名詞が入ることは言うまでもない。じゃあ属性が複数の固有名詞を伴う場合の記述はどうなるのか、
ボケツッコミ(Q) : 大庭詠美a,猪名川悠b
Q(a,b)
とすればよく、この記述法を述語属性表現というのだ。
この記述法が便利なのはすぐにわかるだろう。任意の属性は前者のP,M,Qなどを、誰がその属性の体現者なのかを表現するのは()内の記号a,bにて表記すればよいからである。これによって事実上、Pなどと曖昧に記述されていた属性の中味が特定されることになり、トレカの箱買いなどをしなくてもよくなったのである。
この記述方法はラッセルにより更に発展し、()の部分の更なる一般化、すなわち()内少女xを∀と∃により範囲指定する方法を生むに至る。∀は“すべての”と読み、間違ってもターンエーではない。∃は“ある”と読み、前者は“全部ロリ子”、後者は“存在ロリ子”という。これによって、
(すべての)見習い魔女Pは、おジャ魔女Oである
∀x(Px⊃Ox)
(ある)お手伝いさんQは、星力Sを持つ(平成版は、お手伝いではない)
∃x(Qx∧Sx)
と記述できるようになったのだ。
更にラッセルはいきり立った。そもそもフレーゲの記述法P(x)は、属性そのものが()内に来ても有効である。転ぶ(ブルマ)、転ぶ(スカート)、転ぶ(ドジ)はいずれも属性を()内に持つが、いずれも“萌え”であり、真なのである。ところが、あくまでも“持ち主”にこだわるラッセルは、
「その記述法は究極、個別の少女ではなく、属性だけを萌えとして許容する“フェチ”を容認することになるではないか!」
と、フレーゲを糾弾した。個別の少女と属性を同等に見るこの記述からくるこうしたパラドクスにフレーゲは呻吟した(思わず、それでもいいじゃないか! と言ったとか言わないとか)が、これに対してラッセルは、厳密な個人の確定記述法を提案した。
∃x(Fx∧∀y(Fy⊃(x=y)))
これはすなわち、
次のような少女xがいる。すなわち、木村先生のクラスの生徒Fであり、
しかも、いかなる少女yも木村先生のクラスの生徒であればxと同一である。
となり、ここにxがかおりんだと確定されるのである。カワイソウ...。
ともあれ、このような経緯を経てロリの記述を完全になし得るロリ学は完成した。後はそうして表された少女を判定せねばならない。
ルードジっ姫・ヴィトゲンシュタインの出番である。
[6] 真理値表による萌えの判定とトートロリー・ヴィトゲンシュタインの業績
1.美少女は成立している萌えのすべてである。
1.21 美少女は萌えの限界を定める。
数字を頭に冠し、いかれた文が延々と続いているのが、ルードジっ姫・ヴィトゲンシュタイン(彼は貴族(プリンセスメーカーを地でいける身分)であるため、ドジっ“娘”ではなく、階級が上がった“姫”を冠することが出来る。だが彼は男である。)の表したロリ学書『ロリ考』だ。別名青色本とも呼ばれているが、必要以上のことを一切書かない簡潔な文体のその本は、ペド論理学界やペド哲学界に大きな衝撃を与えたのだが、イデオンやエヴァンゲリオンやすごいよマサルさんに宇宙の摂理を読み取ろうと頑張るようなもので、筆者は正直、「考えすぎだよあんた。」って言ってやりたくなる。特に上記 1.21 の続きに、
1.211 私は(1.2の)限界の中にいることを希望する。
なんてのがあると、どこまで本気なんだこいつ、と思えてくるため、実際、字面以上のことは読み取らない方が健康のためだと思う。
で、そんなヴィトゲンシュタインの『ロリ考』だが、その本の中で始めて使ったのが、下記に示す真理値表である。
P Q | 〜P P ∧ Q P ∨ Q P ⊃ Q | 〜(P∨Q)
M M | N M M M | N
M N | N N M N | N
N M | M N M M | N
N N | M N N M | M
Mは“萌え”、Nは“萎え”を表す。Pという属性とQという属性がそれぞれ左側に示すようなとき、それぞれの接続詞によってP,Qを関係付けた後に、萌え萎え関係がどのようになるかを表にしたもので、各MN間の対応関係が人目でわかるようにしたというのが特徴だ。(P,Qだけでなく、Rなど他の美少女を増やしても同様に計算できる。ただその場合、八通りの萌えを計算する必要があり、結構面倒くさい。)
例えばP∨Qを見てみよう。上からM,M,M,Nだから、すなわちあなたがPかQに提示した美少女の両方かもしくはどちらか一方に萌えを感じるのならば、番組全体を示すP∨Qは、必ず“萌え”になる、だから見るべし! という具合だ。
そしてこのように関連付けて表を右側に増やしていけば、上記例で一番右側に示すように、萌続詞が多種複雑化してゆく属性間の萌え萎え関係も、一目瞭然というわけである。ちなみにこの例〜(P∨Q)は、番組レベルのP∨Qの関係においてすらN、すなわちメインキャラの女性が二人とも“萎え”であることによって番組全体が“萎え”てしまったファイヤーストームみたいな番組を“萌え”に転ずるにはどうすればよいかを明快に示している。
それは番組に“〜”をつける。すなわち、「180度方針変更するしかないミャン!」ということだ。もっともだと、頷かれただろうか。(筆者は納得した。)
さて、ある美少女が萎えキャラなとき、その美少女自身が180度性格変換をして萌えキャラに変身したとしよう。しかも、両キャラが同番組内に共存する状態を想定しよう。このときの真理値表を作ってみると、
P 〜P | P∨〜P
M N | M
N M | M
となって、番組全体は常に“萌え”となる。
一般に、美少女達の状態に関わらず、萌接続詞群の変換処理結果が常にMとなるとき、つまり
P Q | (????)
M M | M
M N | M
N M | M
N M | M
のようなとき、右の萌え関数(????)は“トートロリー”と呼ばれる。(トートロリーは日本語に直訳すると“絶対に萌える”という感じになるのだが、筆者ならもっとエレガントに“みんな許す”ってする。)
これは番組企画者にとって夢のような状態ではなかろうか。(????)を満たす条件式を考えるだけで、“絶対に萌える”企画ができるのだから。
だが実際、そんなに都合良く行くのだろうか。これについては簡単な上記例P∨〜Pを考えることで代用しよう。同一キャラが180度性格が違い、しかも同じ番組に出ている。これはどういうことだろう。変身して大人になる魔法少女モノは、別人とは言わないまでも、容姿は著しく変わってしまうから、厳密には当てはまらない気がする。はて? そんな奇妙な具体例があるのだろうか。あるんだこれが。
ななか6/17 である。
この作品のMN判断は、読者に任せよう。
(ちなみに言えば、筆者の判断はMだ。はわわ。)
[7] 迷走するロリ学・非古典ロリ学
フレーゲとラッセルによって学問体系として完成されたロリ学は、続くヴィトゲンシュタインの真理値表によって、使いやすい道具立てとしても整えられ、あとは萌え一般に適用するだけで素晴らしい美少女達を輩出する隆盛時代が到来する筈だった。が、皮肉にも、先記したヴィトゲンシュタインの『ロリ考』自身がその夢を破ることになった。何故なら『ロリ考』の本来の内容は、根源追求型のロリ学の困難性、不可能性を証明するための書だったからだ。(同書における真理値表の位置付けは実は、萌えの実質美少女への適用の困難性を簡潔に提示するものだったのである。)そこではロリを学問的に極めようとして逆に商業主義にどっぷりと浸かり、ついには社会生活破綻に追い込まれるという、ロリ学者が常に陥ってしまう迷宮から脱するには、極めようとする姿勢そのものの無意味性を悟るしかないというパラドックスが提示されていたのである。
『ロリ考』に見るこうしたロリ学の将来への警鐘は、現代ロリ学界の動向を踏まえると、いかにも暗示的だ。萌えに対する疑問から生まれた多値ロリ学、萌を基準とした過激な価値体系を築こうとする病巣ロリ学が、主流ではないとはいえ、非古典ロリ学として旗揚げする力を見せ付けている現状を踏まえると、それはより意味をもって、我々に響いてくる。
ブロードバンドがかなり普及した現在では、過去の表現になってしまった人も多いかもしれないが、通信速度の遅い環境で他人のHPから絵をダウンロードするような場合には、データ展開の仕方によってモザイク絵から次第に詳細な絵になったり、上から徐々に描画されるということがあった。そうした際、我々受容側の絵の認識は、明らかとなった事物を個別に認識していくことで萌の期待感を増長させるというプロセスを取る。例えば、以下のように認識度が増していったとしよう。
ネコミミ → 肉球 → まぁるい尻尾 → 網タイツ → レオタード
これは従来の混成萌続詞∧で括る要素関係なわけで、諸要素の萌が明示されることで、その真理値Mは揺ぎ無いものになっているように見える。だがこの絵は、最後の最後で以下であることが判明したとする。
→ でも男
( ゚Д゚)
混成萌続詞の定義からすれば、一つでも萎えNの要素があった時に全体がNとなる判定結果は間違ったものではない。しかし、上記プロセスを取ったときに需要者側に与えるショックは、一般に言うNと同じ範疇に入れるのはあまりにも大雑把なカテゴリーではないだろうか。(ネットロリ学者がこのテーマについて最初に発表した学界には筆者も参加していたが、彼はそりゃあもう涙を流してその悲劇性を訴えていたものだ。)
というような経緯から、萌の価値を単純なMNではなく、その中間、もしくはそれを上回るという判断を真理計算の中に取り入れることを課題に生まれた分野を“多値ロリ学”という。
萌えと萎えの真理値はMとNだったが、これを数学的に1と0だと捉えれば、例えばこの中間0.5であるとか、逆に2や3という高いレベルを考えることで、ある美少女に対する萌評価がより厳密になる。というのが彼らの主張である。ヘタウマな人が描く絵などはこれまで判定が難しく、あえて言うなら“びみょー”という判定を下さざるを得なかったような場合があったし、潤んだ目のスク水少女など、決まったΣ(゚∀゚)時などに思わず出ていた超絶レベル“モエモエ”などを、この多値ロリ学は研究対象に出来るという触れ込みは、確かに彼らの息巻くように“意義”のあるものかもしれない。(モエモエのおそらく等値の表現として、近頃のネットではハァハァという表現も多用されるようだが、ロリ学の判定表現としてはいかにも下品である。)
しかし、各人各様でただでさえ違う好みを、どうやって数値化するのか。そしてそうやって算出された萌の積算数値は、常に一定したものであるのか(筆者はハニーフラッシュ時に見受けられるハニーの下着が現在の主流から外れていることから、「Nになっちゃった。」と嘆く友人に深酒を付き合わされたことがある)。そもそもそうした判断を厳密に分ける意味でのMN評価ではなかったのか。など、多値ロリ学の超える壁は多く、今後の主流となるにはかなりの困難があると思われる。
更に、多値ロリ学の思想を推し進め、過激化した萌として“18禁表現”を捉えようとしているのが病巣ロリ学である。
元々“萌え”は、美少女の儚げな愛おしさを愛でる“粋”な風情として徐々に文化形成されてきたものであった。だから需要者における態度も、世間様に顔向けできるギリギリのところで留まっていたのである。
病巣ロリ学はある意味このギリギリを“突破”した。彼らは過激な性表現に対し、「数値表現が大きくなった萌え」としてk,M,Gなどの接頭語をつけた表現を使い出したのである。すなわち、“キロモエ”、“メガモエ”などと称すれば、それは“萌え”の一種なんだという認識論的な転換をもたらしたのである。
これは今まで踏みとどまっていた諸氏をして、「リミッター解除!」という勢いの思考を生み出す結果となり、瞬く間に今のコミケを席巻した。結果としてその暴走ぶりは、今のコミケの現状が外圧ギリギリの状態にある一因となってしまったことは否めない。企業ブースで行われる声優イベントにブルマを被った一団が「ジークM!!」と掛け声する計画が発覚して当局から暗黙裡に抹殺されたようだが、彼らの研究方向が鞭、けり、ローソクなども判定対象にしようとしているところを見ると、彼らの言うMがマゾヒズムのことではないかという気すらしてくる。
いずれにせよ、今までになかった流れに現在ロリ学はカオス的に淀んでいる。実際に萌えを判定するときの困難が、体系化した学問との間に軋みを生じてきたこととそれは無関係ではない。ヴィトゲンシュタインの懸念は、非古典ロリ学者たちの焦燥となって現実化したとみれば、これはアイロニーな展開であろう。ロリ学は完成したことで、却って停滞と混迷を始めたからである。
[8]おわりに
ファイヤーストームの余りのつまらなさが、筆者をしてまたこんな膨大な稿を書かせてしまった。同番組が犯した失敗は正しく萌えを見切れなかったところにある。その詳細は本文中に断片的に記したから割愛するが、製作者側がこれ以上同じ失敗をしないためにも、しっかりとしたロリ学の適用が望まれるところであり、その一助に本稿が役立てれば幸いである。
だがそうは言っても、当分野にはまだまだ謎・明示化できないところが甚大であることを認めざるを得ない。それはそれほどまでにこの分野が汲めども尽きせぬものであるということを示していて筆者などはめまいがする思いだ。筆者と同じくめまいがしたヴィトゲンシュタインも、前述した『ロリ考』の最後で、ため息混じりにこう言っているほどだ。
「語り得ぬ萌えについては、沈黙しなければならない。」
...よだれ出ちゃうもんね。
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