藤野竜樹
今世紀を代表する哲学者の一人であるヴィトゲンシュタインが、他人の痛みは理解できないと諦めたことに代表されるように、痛みの客観化は、古今東西さまざまな哲学者の頭を悩ませてきた難問の最たるものだろう。
本稿はこうした歴史に真っ向から取り組み、ある過程を行うことによって、痛みが定量化できないかを問い掛けるものである。
量子力学には、複数状態がある確率で混在しており、観測することである状態に“決定される”という不可思議なことが起きる。たとえば、一個の原子が崩壊したかどうかは、観測すればわかるのだが、観測する前は、崩壊してない状態と崩壊した状態が同時に存在しているというのだ。ならば、この原子の崩壊をスイッチとして毒ガスが作動する部屋に猫を入れると、部屋を覗く前のネコは、生きてもいるし死んでもいるという状態になると言われている。俗にいうシュレディンガーのネコと呼ばれる状態がこれである。
筆者はこの“観測しないとわからない”という状態が、人間の身体感覚の、自分という身体の中で自己完結しているために、他人から“他人に推し量ることが出来ない”状態と類似していることに注目する。ずなわち、身体感覚、特に痛覚とは、シュレディンガーのネコのたとえに示されるような、複数の状態が混在した状態の、まさに当事者が感じる感覚なのだと捉えるのである。
となれば、痛みは量子力学に倣って、以下のように記述できるとは考えられないだろうか。
φ:定常状態(これまでの身体の状態)
ψ:変質した状態(普通じゃない状態)
のとき、
痛み=ln (ψ/φ) −(1)
lnを用いているのは、人間の感覚は対数的だからである。
この仮説が正しければ、φとψを求めることによって、当事者がどの位の痛みを感じているかが定量化されることになり、哲学の難問の一つに終止符を打つことができるのである。
そうしたとき、(1)式右辺の対数はこう呼ばれるだろう。
い対数
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