バナナの涙

藤野竜樹



 外を歩いていると、時々すっ転んでいる人を見かけることがある。大体路面が濡れているとか凍っているとかが原因なのだが、たまたまそうした転び方のうちでも見事なまでに宙に浮かんだ後地面に落下するという芸達者なさまを見たりすると、筆者はこう思ってしまう。
 あ、バナナの皮だ。
 こうした経験は程度の差はあれ、みなさんも多かれ少なかれ持っておられるだろう。かく、“バナナの皮”→“転ぶ”という概念は定番になっている。バナナは南方原産であるため、こうした概念が一般に定着したのは比較的最近であると推測できるのだが、それにもかかわらず現在、我々の脳裏にはこれが明確に刻まれているというのは驚くべきことである。本稿はそんなバナナの皮の持つ滑るという性質を深く考察し、その発展可能性について述べたものである。

 実際、バナナの皮で滑らないものなどないといえるのではないか。歩いたり走ったりする人は勿論、車だろうがバイクだろうが、およそ地に足をつけて移動を行うものはすべからくバナナの皮で見事な転倒をするし、あのダルマさんだって転ばすことができるのだ。こんな無敵ともいえるバナナの皮の恐るべき能力をもっとも認めているのは受験生達だろう。間違ってもその餌食になることは避けたい彼らは、夜中まで勉強をする手軽な栄養補給としてバナナを食べたとしても、絶対に手の届く...ではなく脚の届くところには置かないなど、細心の注意とともに扱っているからだ。転ぶといえば、一般に知られていないだけで、日本史の影の部分でもバナナの皮は暗躍しており、江戸時代前期の九州では、村人の耶蘇教からの転教を促すため、わざわざ南蛮から輸入したバナナの皮を村中に撒いたことがウグイス・フロイスの『ヤポン布教記』にある。嫌がる村人に無理やりバナナを踏ませようとする残酷な挿絵が添付されており、思想転向すらもたらす恐るべき滑る効果が当時から知られていたことが判る。歴史的なことにもう一つ言及しよう。フランスはアルタミラにある洞窟には、壱万年前ともいわれる壁画が存在する。そこに描かれた牛は前足を大きく前に、後ろ足も大きく後方に出しており、生命の躍動感を表現した絵としてつとに有名であるが、近年この絵の下のほうにある黄色い物体が実はバナナなのではないかという説が驚きとともに学会を揺るがしており、もしそうであればあの牛は実は滑って転んでいる真っ最中だったわけで、バナナの皮の効果が有史以来ということにもなる。


 そもそも物理学的に滑るとは、横方向の力が対象に作用することである。
 図1は力が地面に伝わる関係を示したもので、太線の矢印が下を向いている(a)の状態は、我々が気をつけをして立っている時に相当する。地面に体重全部Fがまっすぐ突き刺さっている状態であり、この場合は横方向の力は発生せず、滑るということはありえない。だがちょっとでも動こうとすると、(b)の状態になる。これは体重が地面に斜めにかかっていることを示しており、校長の長い無駄話に貧血気味になったときや、一般に歩いているときを現している。この場合、力Fは垂直方向の成分であるFvと水平方向の成分であるFhにベクトル分解されると考えることができる。ここに、滑る原因である横方向の力Fhが発生する(これは我々の身体の転覆を謀る反対勢力だと思えばいい。現に左を向いている)。これに対抗するのはFvであり(保守勢力だ。地に足がついている)、踏ん張ることで対抗勢力μ・Fvを旗揚げする。(当然右向きだ。軍歌が得意だ。)
 日常生活のほとんどの場所では|Fh|<|μ・Fv|であり、だからこそ我々は立っていられるのだが、摩擦係数と呼ばれるμが小さい場所では|Fh|>|μ・Fv|となり、このとき、踏ん張りが負ける。滑りやすいというのはだから、(静止)摩擦係数μがとても小さいということである。
 だからバナナの皮のμ値を求めれば良いか。というとそうでもない。不思議なことにバナナの皮に代表される転倒現象は、上記のような“滑る”一般の物理現象とは少し別物であると、我々は考えているからだ。
 というのも、我々の転倒のイメージを定着させるのに効のあった漫画・アニメなどにおいてバナナの皮が原因となる転倒現象を確認すると、頭は立っている場合より低くなっているものの、下半身は明らかにそれまで歩いていた部位よりも高い位置にある(図2(a))。だからこの力を上述のように図示すると、奇妙なことに図2(b)のように、力の向きの中に上向きを示す成分が入っているとしか考えられないのだ。


 転倒現象の認識に見るこの不可思議な物理現象は、転倒という行為が単に物が倒れるという行為ではなく、被転倒物体が主として人であることに関係があると判断されるので、転倒学会ではここに転倒現象専門の判定数値を提案している。これはいろいろな物体を人が踏んだときにどれだけの人が転倒するかを顕す数値で、“及滑(きゅうかつ)指数”と呼ぶ。
 表1がいろいろな物体の及滑指数を表したものである。1が一番転倒しやすい数値であることを示すが、一見してバナナの皮が非常に高い数値であることが読み取れる。この0.97は、100人のうち97人は転倒することを示すものであり、驚くべき高率と言わねばなるまい。

表1 いろいろな及滑指数(法務省調べ’02青春白書より)
被験体 及滑指数 備考 フローリングの床 0.03 ドジッ娘なんかが転ぶ 植物油 0.2 最近はお歳暮でも人気なく、良く滑る。 潤滑油 0.25 -40℃でも大丈夫 氷 0.3 ハイヒールだと0.5 B球 0.6 悪戯の定番 バーカウンター 0.6 酒類が良く滑る。取れないと恥ずかしい。 算盤 0.65 商家では殴られるので注意。 親父ギャグ 0.85 左記は平均値。最大は0.997! バナナの皮 0.97 !!
 だがここに、筆者はあらためて読者に問いかけを行う。皆さんはこれまでの生涯において、誰かがバナナの皮で転ぶ所を見たことがあるだろうか。
 筆者が本研究を始めた動機も実はそこにある。“バナナの皮で滑る”という命題は、観念として我々の実生活に深く根付いてはいるものの、しかしそれをしっかり見たものはいない。一体本当にそれは事実なのか。“重いものの方が速く落ちる”という、ガリレオが打破した中世期の迷信のように、それは実験してみることで打ち消されるようなものではないのか。
 こうして実施された転倒実験は、猛暑のようやく治まりかけた10月初旬、玄界灘を望む那古野市立競技場で行われた。それによると、確かに転倒はしたものの、我々が日常たまに目にする転倒と、さほど違うようには思えず、いわんや物理現象を凌駕するような動きを秘蔵しているようにはとても見えなかったのである。しかしその実験後、驚くべきことが明らかとなった。腰をさすりながら立ち上がる被験者に転倒時の様子を聞いた問診したときのことである。彼は転倒している瞬間の被現実な感覚を称しこう言った。「天使を見た。」

 どうも転倒している瞬間、彼は走馬灯のようなものを見ていたらしい。筆者もその昔階段から落ちたことがあるので、これがそうした現象の一つだということは判る。とはいえこうした場合は身体保護のために頭の回転が数倍早くなるのが普通で、彼の「ふわりと身体が投げ出されたときのなんとも言えない恍惚感」という表現はここに当てはまらないようにみえる。だがここに、彼の感想のうちもう一つを挙げる事は有意義だろう。
 これは彼が助走の後、いよいよバナナの皮に足を載せるとなったときに浮かんだもので、「あ、俺は今から転ぶんだ。」というものだ。今回の転倒実験をするに際し、実は他のいろいろなもので転倒を試みたのだが、わざと転ぶという意図的な操作を減らすため、被験者は転倒を防げるならそれでも良いことになっていた。被験者も痛い思いはしたくないから、意気込みとしては当然慎重になるはずで、事実他の物質による実験ではほぼその気構えでいたのだが、ことバナナの皮の段になるときだけ、上述の思いが脳裏をよぎったという。
 いろいろ調べていくと、彼がバナナの皮を前にして浮かんだ感情は、卒業式の前日に感ずるような、必ず起こる事に対する覚悟のようなものであるらしい。これから自分はあの有名なバナナの皮で滑る。これまで連綿と続いてきた伝統の転倒儀式を、自分も行えるのだという、一種イニシエーションを行うときに感ずるような覚悟的な感情。それは、避けられない事実を受容する運命論的な感情とでも言えようか。そんな感情を、バナナの皮を前にしたときだけ彼は感じたらしいのだ。転倒して宙に漂泊する間、儀式参加による満足と自己充足による恍惚感を、だからこそ彼は感じ取ることができたのだろう。天使を見たとはそういうことだと思われる。
 バナナの皮にみる及滑係数の無敵なまでに高率な秘密は、どうもこの辺にあったようだ。


 こうしたバナナの皮の持つ特殊な能力の応用例を二三解説しよう。
 まずはキリシタンに絡んで前述している“思想転向効果”だ。これは主に政治心理学の分野で注目されている研究である。これは現実にも、野党から立候補、当選しておきながら、掌を返すように与党に鞍替えする候補者の思想転向に応用されていると考えられる。確固たる信念を持って政治家を志したものが、卑しくも将来的な地位や、あろうことか金品をちらつかされた程度でこうしたことを行うことに対して我々はこれまで呆れてものも言えなかったが、そんな国民に対して不遜な行動もこう考えると少しは納得がいく。事実先日発売された写真週刊誌には、黒尽くめの男に両脇を抱えられ、何かの上に載せられる某政治家のスナップがすっぱ抜かれていたから、下に敷き詰めたそれがもしもバナナの皮だったとしたら、一大スキャンダルになるであろうというのが我々研究者の一致した見方だ。
 政治心理学の注目するのはこうした悪用とも言えるような使い方ばかりではない。バナナの皮の及滑効果そのものに注目して、軋轢が炎を上げそうなほど深刻化している国家間摩擦の潤滑材として使用する試みが出ているのだ。JAPだなんだと国連において不必要なまでに日本をののしる某国に対し、これまでは同大使の椅子の上にブーブークッションを敷くくらいしか手がなかったのだが、この“バナナの皮を敷く”作戦はそんな心理的報復以上のかなり大きな戦果が挙げられるのではないだろうかと期待されている。
(及滑指数だけでいうなら、表1に示す通り、実は親父ギャグの最大値のほうがバナナの皮の数値よりも高い。だが、これを政治的に利用するのは非常にリスクを伴うことが指摘され、使用は却下されてしまった。親父ギャグには確かに相手を滑らせる効果が絶大にあるものの、これは相手を凍りつかせる効果と裏腹のものであるからだ。これ以上両国間の関係を冷してどうするんだという意見は、確かにもっともである。)
 最後に、いささか物騒な話を。原子力も最初は核兵器として利用された。かく、平和利用より武器としての使用の方が簡便であることは悲しい現実であるが、バナナの皮の転倒効果をそのまま武器として用いるという話がある。とにかく踏んだらほぼ確実に転倒するこの危険物を、もし、混雑した場所で使ったらどうなるか。朝のラッシュ時に新宿駅などで大量にばら撒かれたらと思うと、まったく背筋の凍る思いがする。恐るべきことに、某原理主義団体からは、自衛隊派兵に関してこの手の脅迫が出されたというニュースが巷間に囁かれており、この無差別テロ行為が行われないよう、日本外交はくれぐれも慎重にして欲しいと願うばかりだ。
 バナナは多少腐っている方が美味しいくらいだが、政治の腐敗は願い下げたいものである。





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