ペド経済学概論

加藤法之



[0]プロローグ
 筆者はこないだの冬、初めてコミケに売り手として参加した。勿論机上理論の売り手としてなのだが、くじ運が良かったせいか、入り口から来る人々を待ち構えるような位置に陣取ったことは好運だった。
 そこでの印象で筆者に一番衝撃だったのは、販売開始の合図と共に入り口からなだれ込んでくる人々の群れだった。決壊したダムから溢れ出る濁流の如き、血走った目の男達のいきおいは、商品を陳列している我々の前にぶつかってしぶきを上げ、あろうことか手にも取らずに過ぎ去ってゆく。まるで放水中の水道管の中で営業しているようなもので、絶えず高速で動く人の群れにうっかり手を出そうものなら、腕をもがれてしまうほどの気迫を感じたものだ。
 彼らは一体どこに行くのだろう。言うまでもなく、彼らが欲しいものを見つけに行くのだ。彼らはだから走る。それはただ、彼らの求める美少女がそこにあると信ずるから。


[1]概観 2002年上半期オタク事情
 本年前半期のオタク事情を顧みると、筆者はどうにも!?!?という具合に唸らざるを得ない。というのも、近頃の我々を取り巻く現状は必ずしも昂揚感で充たされているとは言えないからだ。
 確かに、“ちょびっツ”や“あずまんが大王”、“藍より青し”といった作品がアニメ誌を席巻し、どの作品もそれなりに堅実な作りをしていることは認めるところである。ちぃは可愛いと思うし、あずまんが大王の各キャラクターの“立たせ方”の上手さ(原作のほうね)については呻吟するほどだ。(あの作品で、結構多い登場人物の性格が見事に描き分けられていることは感心し過ぎることはないだろう。近年の作品が、服装と語尾で辛うじて人を判別させていることを考えるだけでもその技量の高さがわかる。しかもこのマンガ、それを4コマでやっているのである。)
 とはいえ、ちょびっツの青年誌におけるあの絵柄での展開上の限界は如何ともし難い(キャラクターの本質に超えちゃならない一線があるって言えば判るだろうか。少女漫画ではそれは当然の気品なのだが、青年誌でのそれは、売りとしてどうか、筆者には判断しかねる。)し、“あずまんが”にしても、原作者の才能は認めるにしても、個人である以上その容量が少ないから、プロモーター側の戦略は些か針小棒大なきらいがでている。“藍青”については、むにゃむにゃ。(筆者のここ数年の論を読んでみえたとしたら、あの作品をどう見ているかは、自ずと想像していただけよう。)
 ところで、「気の合わない面子の飲み会」って、出た事があるだろうか。筆者は結構他人には気を使うタイプなので、こんな状況で会話が途絶えたときを恐怖と感じてしまい、何はともあれ話題を見つけ出してウワーイと大騒ぎする。のであるが、一旦これがお開きになってしまうと、疲労感がそれこそコロニー落としの様な圧倒的質量をもって襲ってくるのだ。もともと騒いでいるときにも己のどこかが覚めていた分酔えないし、それでも無理に騒いだ行為が結局他の参加者の共感を結局得られなかったことへの反省が自己嫌悪をとなって追い討ちをかける。
 今年前半のオタク界の状況というのは、筆者にこうした飲み会を想起させる。この場合の“無理な騒ぎ手”は作り手側であることは言うまでもあるまい。どこかで聞いたような話題を振られて、愛想笑いはしても、「あぁその話ね。」と思ってしまう。一巡前の手でもう一度役満を上がられても、「何だまたその手かよ。」と、金を取られることを承知するにしても、何となしに腑に落ちないところがある、そんな感じ。昨年のような、散財に対する“一片の悔いなし”という、昇天時のラオウのような爽快感は、今年は無い気がする。
 店に行けばいくらでも商品は溢れていて、買おうと思えばいつでも手を出せるのに、レジに行くまでに躊躇の閃光が頭を駆け巡り、結局財布の紐をまた縛ってしまう。それは経済事情がそうさせるのではない。ましてや年齢が躊躇わせるものではない(躊躇わせろよ)。ありていに言えば、買おうと思っても、真に買いたいと思える商品がそこには無いのだ。お金を払うに値すると思える商品が、そこには陳列されていないのである。これは店が悪いとか好みが違うとかいう問題ではあるまい。そこにはもっと大局的に見るべきものが原因としてあるのではないだろうか。
 市場が上手く機能していないのではないか。ここに到って、筆者はこう考える。あたかも、いつまで経っても消費が上向かない一般景気と同じように、我々が身をおいているオタク市場も、下向きになっているのではないか。オタク景気にも波があって、いまそれは低迷しているのではなかろうか。生産者から消費者の間のどこかに支障が生じ、そこから生じる不和が、作られたものと求めるものとの現在のような乖離を生じさせているのではなかろうか。
 萌えを市場流通するプロセスを解析する。ペド経済学に筆者が傾倒したのは、そうした理由による。


[2]ペド経済学の基礎
 ペド経済学においては、一般の経済学に扱われているような資本主義社会における“財(モノ)”と“費用(カネ)”の動きについては、無視とは言はないが、主題として扱われるものではない。ペド経済学で扱われるのは、女子本主義社会における美少女(が中心となっている商品)と、彼女から発せられる魅力―専門用語で“萌え”と言い、以下この用語を使用する―の関係を扱っており、両者の変動がオタク界に及ぼす影響はどういうものなのか。どうすることが望ましいのかについて考えてゆくのが、その大きな役割である。
 ペド経済を考えてゆく上でもっとも基礎的なことは、美少女と萌えの流通過程をモデル化することにある。それは一般に“市場”と呼ばれ、そこでは美少女がさまざまな人々の手に行き渡り、受け取った人々はそれを見て“萌え”る、ことになる。ペド経済学はそうした市場を基盤とし、美少女がどう人々に渡り、どう萌えるかについて探究をし、自らの理論を積み上げてゆく。
 そこでまず、市場がどういったものかを読者にわかってもらうことが必要になるが、これについては非常に具体的な例が存在するので、それをまず紹介することにしよう。
 市場すなわち“マーケット”についてである。

[2−1]マーケットの機能 神の萌えざる手
 マーケット。その意味はずばり市場という意味なのだが、ペド経済学におけるマーケットはもう少し具体的な、ある催事をさす。それは自分で作った商品を売買する即売会のことであり、主催会場に集まって自作のマンガやグッズを売買するイベントのことである。各地で開催されているそれは年々盛んになり、しかも今も着々と参加人数の膨張を続けることで、代表格である年二回東京で行われるそれは、実に数十万人が集う我が国最大のイベントになっている。
 そこに人を惹きつけるものがあるからというのが、マーケットが拡大を続ける要因なのだが、その魅力は、ともすれば門外漢には疑問の中心となる。というのも、マーケット自体は、ただ単に、たくさんの人が商品を持ち寄って、たくさんの人がそれを買いに来るということが行われるだけだからであり、そうした行為を間接的に聞いたとしても、聞かされた者は話し手の些か興奮気味に語るその熱さは全く理解不能なのである。だからこういう疑問が生ずるのももっともだろう。何でわざわざそんな混むところに行くの?
 マーケットの魅力、それはマーケットの規模にある。その数が尋常でないレベルに達しているという事実が、そこに不思議な魅力を与えているのである。
 そこに集う人々が膨大な数に上り、しかもそこに出品されている商品が出品する人の数だけの多様さを持つために、客として参加する人々はただそこに集い、ただあても無くぶらぶらしたとしても、ほんの少し己の感受性の幅を広げるだけで、必ず自分の好みのアンテナに引っかかる何かを得る事ができる。
 更に出品する側にも魅力はある。一日だけ商売人になる疑似体験ができるという直接体験の魅力だけでなく、商品を作ることそのものの中に、もの作りの面白さを実体験することが出来る。だが作り手側にとっての最大の魅力は、自身の他者への情報の開示にある。自分の考えや自分の行動を形にし、それを購入してもらうことで、価値観を共有し、己の存在価値を見出せるからである。
 こうした売り手と買い手の双方の魅力を支えているものに、マーケットに参加することの容易さがあることは言うまでも無い。カタログ購入だけで買い手がイベントに参加出来るという気軽さは勿論、売り手も安価な参加費で売り場所を提供される。よってそこでは多大で多様な才能が、最小のリスクで開陳される。
 出会いの場の提供。マーケットの魅力を一言で言えばこういえるだろう。

 さて、少し本題から離れてしまったが、このマーケットがペド経済学に及ぼす効果を考えてみることにしよう。
 マーケットは魅力があるとともに残酷でもある。社会主義末期時代のソ連を思わせるほど長蛇の列が立つサークル(売り手)もある一方で、一日座っていても一冊も売れないという気の毒な売り手も存在するのだ。
 両者の違いは一体何処にあるのだろう。それは勿論、“美少女の魅力=萌え”があるかないかである。萌えが多いものほど行列ができ、少ないものはほとんど見向きもされない。しかしこの萌えがまた難しい。自分がいくら「よーしこれは萌える!」と思う出来に仕上がったとしても、必ずしもそれが売れるとは限らないからだ。たとえミニスカートの16歳をあしらった本を商品としていても、その首に花沢さんが乗っかっていたら、引き止められたお客はいうだろう。「どうしろっていうんだよ!」 つまるところそれが商品である以上、売れるためにはその美少女はあくまで他人にとって萌えるものでなければならないのだ。つまり萌えは、主観であると同時に客観の価値ももたねばならない。つまり、他人にとって何が萌えるかを常に意識し、しかも“自分が売る”商品としての美少女を際立たせねば、マーケットで行列を作ることは適わないのである。
 マーケットはこうして、売り手(供給者)に、常なる買い手(需要者)の好みの追及の姿勢を求めるのであり、だからこそ買い手は足を棒にした行動力と新たな萌えを求める好奇心があれば、己の好みに合う美少女を見出すことができるのである。
 供給者は自分の利己心の発揚のために、需要者は己の萌えの欲求を充たすために。両者はお互いのことを何も知らず、お互いがお互いの利を追求して行動するのに、結果としてマーケット終了後には背負ったリュックの中の大量の成果と共に、お互いの満足が家路を急ぐことができる。お互いがお互いの努力を暗黙に了解することで得られる“均衡”が、そこには確かに存在する。そしてその均衡部分に見出された“萌え”(リュックの中身。セーラー服とか垂れ目とか定吉さんとか(定吉さん!?)、萌えが具現化した要素が、そこには詰まっている。)こそ、その後半年間の客観として、つまり今後半年間美少女に付与されるべきステータスになりうるのである。
 マーケットが美少女と、その価値である萌えに及ぼす機能がこうして明らかになる。マーケットにはこのように、常に萌えが最先端を行くようにする自動的な調節機構と、どの美少女が良く売れるかを見せつけることで萌えの傾向を全国に拡散する機構の二つの機能をもっているのである。
 最大多数を最大限の萌えに導く。ペド経済学の黎明期の功労者であるマダム・スミス(でも男)は、マーケットのこうした役割を“神の萌えざる手”と表現し、どんなに自分好みの美少女がいてもあくまで冷静に採決を下す神のその姿勢に敬意を評したのである。
(が、スミスは神の、決して肩入れできないその立場に同情もしている。「気の毒に。」)

 マーケットの機能の偉大さがご理解いただけただろうか。上記したように、ある一つの場所における美少女と萌えの関係について考える立場(上気したむさ苦しい人たちを扱う)を、ミクロペド経済学と呼ぶ。(ミクロとは当然小さいという意味であるが、これはペド用語に言う“ちっちゃい”という意味ではない。こちらには“ぷに”とか“ろり”とか、別の用語を当てることが厳格に決まっている。だから、「ミクロ萌え〜。」という使い方は厳密には存在しないのであり、ミクロマンフェチだと思われる可能性があるので注意が必要だ。)
 ところが、例えばマーケット外で無軌道化することが望ましくないもの(常識を逸した性表現の氾濫)があったり、マーケットに参加できない人(幼少、もしくは老人、地域的隔絶を伴った人など)に萌えが滞りがちになる(子供をロリコンにしてどうすんだって意見はともかく)など、社会にとって萌えがマーケット以外の場所でも存在する以上、もっと包括的に大きな萌えの方向性を研究する立場も必要であり、具体的にはアニメ界全体で美少女と萌えがどう展開するのかを研究することが必要である。そしてこうした研究を総称して、これをマクロペド経済学と呼んでいる。(マクロとは当然大きいという意味であるが、これはペド用語にいう“巨乳”という意味ではない。そもそもペドと巨乳は相容れない存在であり、筆者は同要素の複合化があまり好みではないのだが...というのはともかくだ。だから、「マクロ萌え〜。」という使い方はペドにおいては許されざる行為であり、「そんなら対象年齢上げろよ。」と言われるので注意が必要だ。)
 次節ではそうした、マクロペド経済学の分野について概観しよう。

[2−2]マクロペド経済学 テレビの規制とチラリズム
 マクロペド経済学では、オタク界を取り巻く人々を機能的に三者に分けている。すなわち、「創造者(クリエーター)」「消費者(コンシューマー)」「スポンサー」である。
 「創造者」は、名前のとおり美少女を作る側の人。前述のマーケットの様に、一個人であることもあれば、アニメ製作会社の様な集団であることもある。世間への影響が大きいのは後者であることは言うまでも無い。「消費者」は、オタク的な傾向をもつ一般人総称と考えて差し支えない。パチンコ屋の幟に描いてあるヘタウマな美少女を見て「あ、これは○○のパクリじゃん。」と、電光石火の様に閃く人は“消費者”である。「スポンサー」には、広義にテレビ局なども含まれており、創造者と消費者の間を仲介する機能をもつ。この部分は萌えとは関係のない利害で動くことが基本で、そこに良心が入り込む余地も確かにあるが、基本的には経済効果がその行動原理であり、要するに美少女を金に変えようとする連中のことである。
 さて、マーケットの存在がその力を弱めてきたとはいえ、三者の力関係で最大権力を持つのが現在のところスポンサーにあることに異論は無かろう。スポンサーは、世間的に危険なことには極端に臆病になることから別名セイフ(安全弁)と呼ばれていることからも判るように、多く創造者と消費者にとって障害となることが多い。というのも、スポンサーは“世間=常識の目”を代表すると自負しているため、世間から不評を買うような行為、先ほど述べたような行過ぎた性表現とか、差別・悪徳描写についてはほとんど完全に閉め出しているからである。(このため欲求不満に陥った創造者と消費者はマーケットにおける表現を更に過激化させる傾向にある。)これに対抗できる創造者は、アニメ製作において大御所的な存在であり、実際ガンダムという実績を上げている富野監督くらいなものであり、規制の網の目をかいくぐって氏得意のシャワーシーンなどが出てくると、思わずイデオン音頭を踊ってしまいそうになる程である。
 かように創造者と消費者に評判の悪いスポンサーだが、彼らの規制が“萌え”に対して思わぬ貢献をしていることを忘れてはならない。それは、人間が本能的に好奇心を醸し出す、“秘匿の美”というものだ。
 理科室の骸骨標本を見てときめかないように(ときめく人はいるかもしれないが、少なくとも彼はオタクではなく別の病気と診断すべきだ。)、あまりに剥き出しの状態には、人間は生得的に興味を引かれないのである。現に江戸時代の下町女性は人前で平気でトップレスになった(江戸は暑かったから)と言うが、故に江戸期の男性は乳房に対する欲情は殆ど持たなかったのである。(「あんなものはガキが欲しがるもんでぃ。」という具合に。)だから、美少女の肌露出に対してある程度の規制をかけることは、寧ろ彼女の萌え係数を上昇させることに寄与するのである。
 社会全体の萌えの動きを見易くするために、ここに簡単な数学を考えてみよう。Yを美少女の萌え総量とし、Cはそれを消費者が消費する量、そしてIを萌えの一場面だとするが、もう一つaは後述する未知数とする。
 今、創造者側から見たとき、美少女がどの位の萌え力(Y)を持っているかを判断するには、マーケットの項で判断したように、消費者がその美少女を受け入れるであろう皮算用(C)と、更にその美少女の魅力を引き出すためにあつらえるシチュエーション(I)を付加したものになるから、
   Y=C+I      ―(i)
となる。次に、消費者側から見たとすると、自分達が消費する美少女の萌え量(C)は、供給されたすべての萌え量(Y)の財布が許す限りの許容範囲と言うことになる。すなわち、
   C=aY      ―(ii)
となる。ここで(i),(ii)式を解くと、
   Y=I/(1−a) ―(iii)
と導かれる。
 さて、aである。aは消費者の財布の緩め程度を表す変数だが、実はこの変数は上述した“秘匿の美”、すなわち、当の美少女の露出度の限界に依存しているのである。
 a:限界露出性向(秘匿係数)
 この秘匿係数は美少女の身体を隠す物が少ないほど大きくなって1に近づくため、1−aはどんどん小さくなり、すなわち(iii)式の解が果てしなく増大することがお判りいただけると思う。
 この式は元々は、循環する無限等比級数
 Y=I・{1+a+a^2+a^3+・・・+a^(n−1)+・・・} ―(iv)
を解いたものである。(iv)式は萌え量が創造者と消費者の間で果てしなくフィードバックされることで、ある回のあるシーンIのカリスマ(妄想)が果てしなく増大する様を表している。この式は要するに、シーンIは一回しか放送されていないにもかかわらず、後ろの方の項が無限に続く。すなわちネットでいつまでも大騒ぎしているさまが現れているのである。
 これは“乗数効果”と言われ、「美少女はただじゃあ脱がないよ。」ということを示す貴重な理論的根拠になっている。ここに、ペドマクロ経済学の真骨頂がある。
((iii)式で、ではaの秘匿係数が最大。つまりみーんな見えちゃったらどうなるんだと、皆さん思われるかもしれない。が、数学においては無限大の解を伴う特異点は扱わないのが普通であり、この点における効果は考えないのが一般なのである。が、一応筆者の意見を述べると、多分効果は無くなると思われる。のぼせてしまって画面どころではないからだ。)
(この辺の事情は、筆者の別の論文、“ペド文化人類学が異論”にも詳しく、そこではミンキーモモ変身におけるチラリズムが人類学的に見て如何に偉大かを論じてある。HPで参照されたい。)

 マクロペド経済学には他にも環境学、年齢学等、「何処の誰でも萌えられる」をモットーにした幅広い研究内容があるが、読者層を考えれば、このあたりの詳細は我が身に具体的に関わることではないので、退屈なだけだろうから割愛することにしよう。
 そうそう、余談としてちょっとだけ現状に目を転ずる。筆者も確かに、ゴールデンタイムのアニメ番組にいきなり素っ裸のね〜ちゃんが闊歩するような展開は論外と規制に異を唱えるつもりはないが(あれ、うる星やつらってそんな感じだったような気が...)、近年、上記チラリズムまでが規制の対象となっていることは筆者として残念と言うほか無い。昔日、先もあげた富野作品においてヒロインのシャワーシーンがあったりすると、それだけで翌日の学校は大騒ぎだったのだが、青春期のささやかなそれは今にして思えば寧ろ微笑ましいとすら思える。だいたいこの程度のことにやかましくしても、申し訳程度の腰布(ミニスカート)から醜悪な大根足を生やしている現実の高校生の貞操はほどんど崩壊に瀕しているわけで、本規制がどの程度若者の教育に影響があるか甚だ疑問である。(だから見せろってわけでもないのだが、少なくとも寛容に、目くじら立てるなと言いたい。)
 教育上の配慮と表現の自由との、結局のところそれは永遠の葛藤なのだろう。


[3]ペド経済学の歴史
 さて、以上でペド経済学を大きく概観してきたわけだが、これからはここまで見てきた同学問が、如何なる歴史で成り立ってきたかを見ていきたいと考えている。それは単にセピア色と化したアルバムを繙く作業ではなく、もっとダイナミックなものになるはずだ。何故ならそれは、今の萌えはどういった過程を経てきたか、どうしてこんなになってしまったのか(後悔?)に、積極的に目を転ずる行為であり、未来の美少女もそうした行為の延長線上にあることを認識させてくれるはずだからである。

[3−1]マダム・スミス 寛容主義者の意外な功罪
 ペド経済学の歴史を語る上でのトップバッターは、“神の萌えざる手”の項でも紹介したマダム・スミス(でも男)だ。
 彼が活躍した当時、世間ではいわゆるオタクの前段階であるマニアが幅を利かせていた時代だった。年単位で番組が続くことの多かった当時は、ミンキーモモなどはグッズの種類が膨大で、放映期間中に出たグッズは300種類を超えたのではなかろうか。そこでの彼らの行動は、当然主として集めることに向けられていたのだが、それを彼は、「手に入れてすぐタンスの中に隠してしまうのは、美少女の魅力を引き出しているとは言えない。」とし、マニアらを“重物主義”として批判した。確かに、マニアにおけるグッズの保有は、その人がそこに価値を見出しているからこそその人にとって甲斐のある行為となるのだが、アニメが終わったとき、人の噂も75日ではないが、あっさりと世間から忘れ去られていく気の毒なヒロインに固執するマニアは、萌えカスに息を送り込んで辛うじて命脈を保つさまに似て、ある種物悲しいものがある。そしてだからこそ重物主義は萌えの尺度とはなり得ないというスミスの主張には説得力があるのだ。
 更にスミスは、「美少女とその魅力・萌えとは、旬であること、つまり巷間に常に話題としてのぼっていることが重要であり、それがひいてはペド界の隆盛をもたらすことになる。」と定義しなおすことで、美少女と萌えの本質が“常に誰かをのぼせさせていること”にあることを明らかにしたのである。アニメも最終回からせいぜい一ヶ月程度しか思い入れが続かなくなった近年ならいざ知らず、当時からこうした考えを抱いていたのは流石と言える。
 そしてこのような論拠の後に、実際に旬であることを確かめる手段として上述したマーケット擁護論と“神の萌えざる手”説が出てくるのである。マーケットの主要な機能は重複するので割愛するが、彼にみるこのようなマーケットに対する絶大な信頼と、そこでの振る舞いに対する“自由放任”主義は、後の世の過激な表現主義者達にとっては大いなる理論的バックボーンとして祭り上げられたきらいがある。(「何を描こうが勝手だろう。」というような屁理屈の。)だが彼はこうした主張の前に、マーケットで振舞う人々がかくあるべしというマナーをまとめた“道徳論”なるものも著しているのであり、決して不道徳が跋扈してもていいと言ったわけではないことは覚えておいて良いだろう。
 寧ろ彼の功績は、萌えに伴う後ろめたさを払拭したことにあると筆者は考えている。すなわち、マニアが己の収集品をこそっと買いに行く(「いやー妹に頼まれちゃってさぁ」「娘が好きでねぇ」といった言い訳をレジのお姉ちゃんに見透かされていることがわかっていても尚してしまったりする。)傾向を持っていたのに対し、萌えの追究に伴う購買行為全般について、「あなたが萌えることが美少女の魅力を引き出すことになる。」と彼が炊きつけることで、こうした行為に何処となしについてまわっていた後ろめたさを払拭したことが、彼が後世に与えたもっとも大きな影響と思われるのである。
 いい歳をしたお兄ちゃんが少女漫画を買う傾向はこうして正当化されたのであり、それはお兄ちゃんがおじさんになっても、未だ心のどこかで自分を支えてくれるのだ。
 マダム・スミス(でも男)の罪業は深い。

[3−2]○ッスとリカよ! オタクの将来は暗いよ!
「クリエーターが美少女を創生するのは数ヶ月に一度の算術的な速度だが、消費者がどんどん新しい刺激を求める速度は幾何級数的なそれであるため、やがて並み居るオタクが美少女を食い尽くす日が来るッス。」
 セーラームーンの伝道師という穏健な立場だったにもかかわらず、○ッス(まるっす)が“オタク人口増加論”の中で記した上記過激発言は、あたかもぴたテンにおける美紗が天使であるにもかかわらずトラブルメーカーであることを思わせるッス。(あれ?)実際彼の上記発言により、スミスの指摘以来ペド界に漂っていた「みんなで亜美ちゃんを応援しよう。」といったぬるま湯のごとき雰囲気は、一転して緊張を伴うものとなってしまったッス。特にマーケットでは時同じくして“限定版”なる悪弊が登場したから、これ以降常に、「いつか買えなくなる日がくるかもしれない。今日がその日かもしれない。」という懸念が消費者の頭に妄想の様にうごめくようになってしまい、前日泊とか場内加速装置とかの非道徳行為を呼ぶことになってしまったッス。(ッス禁止。男が書いてもタランスにしかみえん。)
 オタクの未来を憂いている暗さの程度では、同時代の理論家(あたし)リカよ!も負けていない。彼(やはり男なのだ)もまた消費者が享受できる美少女がやがて消え去るであろう説を唱えているからだ。というのも、「美少女の魅力が上がればオタクは喜ぶかもしれないが、新たにオタク化する者が増えるので、結局個々のオタクに振りまかれる美少女のお目こぼしは限りなく少なくなってしまう。」と彼は述べており、本来お客である消費者としてのオタクが、最終的には美少女に隷属化されるであろう未来を予言したのだ。更にこにて続けて、「同じ創造者に連続で美少女を描かせると、やがて収穫逓減が起きる。」と述べた彼の意見も鋭い。実際、命を削って美少女を細部まで描き込むような人や、四こまマンガの才能を持った人などに、仕事を入れすぎると廃人になってしまうことは良く知られているため、こうした事実の精緻な理論化は世間を驚かせた。
 リカよ!の業績は今では、「テレビアニメは東南アジアで、劇場版は日本で製作するように住み分ければ、両仕事とも日本で抱えた時の過剰スケジュールで紙芝居のようなアニメが乱立する事態は避けられる」といういわゆる「比較優位の原則」が、何が何でも国産を求める贅沢だが狭隘な人々を一蹴したとして、非常に有名である。(それにしても、国境を越えてまでのロリ創造というのは、筆者個人は複雑な思いがしている。数百円の投資で得られる美少女フィギュアは確かにとても精妙に出来ているのだが、製造を請け負う異国人は日本人全体がこうなんだと理解するだろうからだ。しかし実際そうかもしれないと、ふと思うほどに、日本は病んでいる。)
 ところで、同時代だけに両者は良く論争していた。○ッスはペド市場の永続的存続策として、年齢の上がる毎に消費可能資本の増加する円熟オタク達の保護法を擁護したが、これに対して、リカよ!は、「それは健全な市場の育成には繋がらない」と、つぶらな瞳を潤ませて自由化を唱えたのである。二人の論争は延々と続いたが、結局自由化呪文の詠唱を終えたリカよ!のドラグスレイブにより保護法自体が破壊されたので終結を見ている。(リカよ!はしかし、幼児だけをターゲットにしていた筈の己の商品化戦略に、いつの間にやらOLリカちゃんなどという代物を付け加えるなど、ちゃっかりした所も持っていた。)

 スミス、○ッス、リカよ!(いずれも男)と続く彼らの時代は、展開されるマーケットの規模も小さかったことから、売る側の個人雑誌発行部数も少なかった。このため、行列が無かったかわりに、目を付けておいて戻ってきたときには無くなっているということが頻発したようだ。彼らがそうした現状から、“マーケットは直感が重要”とする考え方に価値をおくようになったのは無理からぬことだ。表紙を見ただけで一目ぼれ的に即買いする彼らを別名“新コテン派”と呼ぶのはこうした理由による。
(有名なオタクの座右の銘、「買って後悔せよ!」は、この頃生まれたといわれる。)

[3−3]カール・オマルクス  響子さん党宣言
「一つの怪物がビッグサイトをうろついている。−響子さん主義の怪物が。」
 不気味な宣言で始まるカール・オマルクスの“響子さん党宣言”。ここに言う響子さんは、円熟オタクならピンと来るであろう“めぞん一刻”のヒロイン名であるが、だからと言って“響子さん党”が“響子さん萌え”の人の集まりのことだったとしたら、また引いては“未亡人萌え”の人の集まりだったとしたら、それが後世の社会に与える影響は極々微量なものとなっていたろう。が、彼の主張した“響子さん主義”は、いつの間にか紛れもなく美少女界の一大潮流になり、今なおその傾向は強まっている。では、響子さん主義とは一体、如何なるものなのだろうか。

 そもそもオマルクスの最大の主著“女子本論”は、女子本主義の崇拝者である新コテン派を酷く批難し、己の理想を語り尽くしている一見身勝手な本である。そこでは理想状態の女子本主義をモデルとして、美少女とオタク(妄想者)の関係が検証されており、美少女の萌えの発生原因が、「美少女がオタク共の生気を搾取することで生ずる」こと、美少女の萌えは“妄想力”であることが明らかにされている。ここでは妄想者は救いようの無いほど社会的地位を貶められる存在として定義され、「妄想力は美少女の魅力としてどんどん吸い取られ、妄想者はますます世間ずれを起こすことになる。」とまぁ言われ放題だ。
 同著ではこのように、オタクは全く良いとこなしにけちょんけちょんに書かれているのだが、ここで展開されている“妄想価値説”の本質は、美少女をプロモートする連中が、今のオタク達をして単なる美少女傾倒集団であることを許さず、あまつさえ彼らの財布を悉く緩めさせる様に仕向ける、すなわち妄想力が一つの商品となるような社会システムの中に否応なしに彼らを巻き込んでいることを喝破している点にある。
 そしてオマルクスはここで、“こうした意図的な彼らの被る現状を当然として儲けるなんてけしからん。”という論調に変わり、そうした視点から、現システムを擁護していた新コテン派を批難するのである。そうして彼は言う。「現地位にオタクがいつまで甘んじているかな? ふっふっふ。」確かに言われてみればそのとおり。いい金づるだと思っていたオタクはますます長じて、中には社会的地位を向上させる人も出てきた。気が付いたら自分達の会社の筆頭株主になってたなんてことが起きないとも限らない...。(コメットさんのラブリーバトンを振り振り街頭宣伝に立たされるなんてことさせられるかも...。喜ぶなよ。)
 しかし、オタクのあくまでも被虐的な性質を見抜いているオマルクスは別の可能性をオタクたちに付与する。「彼らはそのやり場の無い情けなさを、当の美少女に同情してもらうことで癒そうとするのだ。」と。そしてこのオタクのいかにも情けない状態が、上述した“響子さん主義”の本質なのである。

 響子さん主義とは、めぞん一刻の主人公・五代が浪人脱出をかけて三流大学を受けに行く際、響子から言われる「がんばってくださいね。」なる言葉を元々の語源としており、アニメのヒロインに癒されなければ自己を保てないような情けないオタク達が増えること、また、それを当てこんだいかにも“従順”を売りとした美少女キャラクターが市場に闊歩する状態を指す。
 かつての美少女は独立した魅力ある人格を備えていたが故にそこには光るものがあったのだが、今もてはやされている多くの美少女にはいつの間にか“媚び”の属性が不可欠になったことを読者は気づいておられるだろうか。ペド界全体は言うに及ばず、マーケットを歩いて机上に溢れる表紙の絵柄で媚びを売っていないものを探すほうが今は難しい。
 社会主義はとっくに崩壊したが、響子さん主義という怪物は、ますます我々の精神を侵食しているのである。

[3−4]ソースカン・ヴェブレン 暇人の理論
 先に、僻地の人、幼少,老人など、美少女市場から疎外されている人たちについて考察し、彼らへの美少女の促進を考えるペド経済学があることを少しだけ提示したが、このような別派の一つに、“属性学派”がいる。彼らは美少女の魅力には外性、すなわちメイドとかメガネっ子とかから来るものもあることを強調する一派で、新コテン派が推奨する様に個々の美少女に絶対量としての普遍的な萌えの魅力があるわけではなく、彼女に付与された属性が変わることによって、その魅力が大きく変化すると考えるのである。また、「どんな属性が多大な萌えに変換するかはあくまでもその時の社会や文化に依存しており、だからこそ美少女の萌えはその社会状況ごとに分析する必要がある。」と、各個撃破指向を唱える一派でもあるが、この属性学派の創始者といわれているのが、ソースカン・ヴェブレンである。
 彼の主著、“暇人の理論”ではまず、ペド関連グッズの収集には二つの種類があることを紹介している。一つは、ある美少女の関連グッズを集めるタイプ。これはミンキーモモやセーラームーングッズなどの収集がいい例である。(読者の中には亜美ちゃんの同人誌の一冊くらい、部屋のどこかにあるのではなかろうか。)そして今一つは、美少女が描かれる媒介物(メディア)を特定して、それを数集めるタイプである。トレカ、テレカ、ポスターなどで、美少女が描かれているものを集めるという無節操な収集だ。ヴェブレンは、「新コテン派の一途さは、こいつらの浮気性を説明し得ない。」として、彼らに対して独自の考察を進めた。彼は、こうした浮気者には経済的には恵まれた、いい歳をしたおっさんオタクで、しかも暇な人間に多いことを明らかにしたほか、彼らの行動を、「暇人はあるメディアをたくさん持っていることを自慢し、自分がこれだけ収集に時間をかけられる(まぬけな)んだぞと威張るスネ夫のようなところがある。」と分析した。そして、彼らが費やすエネルギーを考えれば、彼らが美少女の魅力の伝播に対して演ずる役割は決して無視できるものではないと説いた。(要するに“彼らを当てこんだグッズ展開をしないと、儲け損ねまっせ”と言ってる。)
 そして、ここにみる“メディアを特化する萌え”についてのヴェブレンの方法論を、美少女自身の構成要素の枠にまで広げ、「メイドさん萌え〜」なんて抜かしてる連中について研究していく一派が属性学派となったのである。
 確かに、響子さん主義とは別の意味で、トレカなどのグッズはマーケットに溢れているから、これに焦点を当てた研究が重要であることは間違いないし、ペドの傾向から見ても、属性学派のいうメイドさんとかメガネっ子とかいう“属性”は、もはや一大潮流となって溢れているから、これに焦点をあてる属性学派の影響が侮り難いものであることは容易に判断いただけよう。
(彼らのすることはありていに言えば、“フェチ”研究なのだが、彼ら自身はそういわれることを嫌がっている。)

[3−5]ジョン・メイド・ケインズ  大不興と恋愛シムレーション
 さて、オマルクスが響子さん主義を唱えたのも、ヴェブレンら属性学派が興ったのも、元を考えればマーケットに彼らの研究対象が存在したことによる。“媚び”や“属性”といったこれらの対象は、記号と化している分“萌え易い”ため、マーケットでの勢力が増大したのも無理からぬことなのであるが、これは半面、萌えについての印象が短絡的なものになりやすいという欠点を持つ。この短絡傾向は、美少女を直接欲望にリンクさせる方向性があるため、その危険性の大きさは常に指摘されていたにもかかわらず、マーケットは自己の心情である“自由放任”の命ずるままに、彼らの増長を見過ごしていたのである。
 これは明らかな失策であった。何故ならこうした短絡傾向は留まることなく加速したからであり、その表現が過激性を増し、とうとう下品なレベルにまで達して飽和したときに限界に達したからである。
 眼前に展開されるあられもない女性の図柄を前に、消費者が美少女の本質に目覚めて一斉にこれらの似非美少女から引いてしまう現象がある日起きたのだ。昨日まで崇められていた美少女が没落し、市場は大混乱に陥った。しかしそれはある意味当然のことだった。美少女はある一線を超えた瞬間に、清楚・上品を内包する“美少女”の定義からは外れてしまうからである。そして美少女で無くなった女性に、萌えを感ずる消費者はいない。(いたとしたら、その彼はもうペドオタクではありえない。)彼らは眼前の“女性のようなもの”に失望したのだ。
  “不興”
が起こったのである。

 不興は、信頼関係の崩壊であるだけに、この改善は難しい。というのも、一度そうした傾向が顕わになると、いままでそうしてきた創造者はサービスが足りないかと勘違いし、より表現を過激にすることでますます信頼を失うようになり、よしんばある創造者が、内容が悪かったことに気が付いて、改めて正常な美少女を再び出したとしても、また同じ傾向の女性を出しているとしか消費者は判断しないからである。
 しかも、更に不興が恐ろしいのは、それが周囲を巻き込んでスパイラル状に深化することである。何故なら、元々十把一絡げにみなされることが多かった、マイナーだが健全なクリエーター達もこの騒動の巻き添えを食ってしまうからである。
 己が必死に創出したどんな美少女も、品の無い作品と判断されて、結局消費者は目をくれない。マーケットは売るものが並ぶのに買う人がいない。買いたいと思う人がいるのに買えない(魅力ある美少女を見つける目が死んでしまうから)という負の循環連鎖は留まることを知らず悪化する。美少女を描いた本は価値を付けられないままただの紙切れと化し、マーケットは機能を失い、街には失望者が溢れかえる...。
 この事態に対し、新コテン派論者達は無力だった。彼らの理論では、元々消費者が自由に美少女を崇める状態を前提とするために、崇拝している以上“失望”は論理的にあり得ないと考えていた(聖の法則)から、現実に美少女に失望する人々が世間を席巻していたとしても、彼らを何とかする知恵は、これまでのペド経済学者にはなかったのである。

 危機に瀕したこの状況を打破するには、とにもかくにも美少女に品格と信頼を取り戻すしかない。この事実を理論的に提示し、更に創造者、消費者に納得させるように世論を説得したのが、ジョン・メイドズキ・ケインズである。
 「あからさまでなく、もう少し過程を大事にした方が良い。」これが、ケインズが世論に語りかけたメッセージであり、その理論の要旨でもあった。「美少女に萌えるためには、対象となる美少女に傾注すべき品位と風格が必要であるが、それを一枚絵で見せることには限界がある。それは美少女の情報をこつこつと積み重ねていくことで為し得ることである。」と続ける彼の理論は明快で説得力があった。
 ところが意外にも、これに対するマーケットの反応は当初、冷ややかなものだった。それどころか、「とんでもないことを言い出す奴が現れた。」と当時のマーケットは騒然となったのである。これはケインズの言う「あからさまを辞めろ」という部分を、表現の自由を規制するものだと受け取られたためである。不興がこの段階に及んですら、マーケットは政治的判断が先行していたのである。
 だがこの反応に対してもケインズは冷静だった。何故なら彼には、彼の理論の中核部分、美少女を知る過程を最大限に生かす作品が、切り札として残されていたからであり、そしてその彼の切り札こそ、かの有名なゲーム“ときめきメモリアル”だったのである。
 美少女と三年間を過ごすことで擬似恋愛を育むこのゲームは、正に彼の理論を体現したようなゲームであるが、自ら1200年通った(やり込んだ)と言われるケインズの狙いは的中し、同ゲームは大ヒットを記録した。そしてこの後に雨後のタケノコの如く続いたいわゆる恋愛シムレーションの分野が、オタクが本来持っているプラトニックな部分を大いに刺激することに成功したことにより、消費者の美少女不興もようやく癒え、果てしない不興もようやく沈静化したのである。

 ケインズの功績は、女子本主義の本来持っている危険性、すなわちいかにマーケットといえど己に合う美少女を見つけられない人、すなわち“非自発的失望者”の存在を、理論的に見出したことにある。そしてここからがケインズの巧妙なところなのだが、「彼らのそうした不満を取り除くには、一意的に創造者から付与される美少女像では限界があり、彼ら自身に創造をさせるコンテンツを用意すればよい。」と考えたのである。このコンテンツにあたるのが、先述したときメモであることは言うまでもない。(新コテン派にとって「そんな者はいないんだ。」と嘯くだけで何もできなかったことと比較すると、彼の偉大さがわかるだろう。彼の凄さは創造者から授与する美少女ではなく、受容者が創造する美少女を考えたこと、つまり逆転の発想をしたことにある。)

 萌えは、その美少女と共有する時間が多いほど大きくなる。彼の開いた新境地は、美少女の可能性をまた一つ広げた。彼の功績に対し賞賛を送ることは当然だろう。ミルクで乾杯!

[3−6]その後の動向 反動と正統の揺らぎの中で
 恋愛シムレーションを核とした需要喚起型のケインズの方法論は、その後のペド界の主流となったが、一方に触れればもう一方に触れたくなるのは人情。ときメモのヒロインが、いくら仲良くなっても手も握らせてくれない完璧なるプラトニックな展開は、いきおい“男の子の部分”に不満を募らせることになってゆき、そうした需要に応えるゲームやマーケット展開も見られるようになった。それが家庭用ゲーム機にまで侵食して再びの危機に陥る可能性が懸念されるときもあったが、現在はそれに対して再度の揺り戻しが起こっている段階であり、マーケットは概ねバランスが取れていると考えて良さそうである。
 ケインズ派もこの間指をくわえて見ていた訳ではなく、ケインズ理論の弱点とされた静学的止め絵(ありていに言えばヘタウマな絵を)まずときメモ2において払拭し、より現実に近づけるために動学化を推し進めたときメモ3を出したのだ。新ケインズ派といわれる彼ら一派はこうして活発に活動を続けているが、アニメ絵に馴れた消費者には3のポリゴン美少女はまだまだ数年先を行ってしまっている感があり、技術力の高さに感嘆しているだけに、やや不均衡動学と化してしまった今後の活動に期待するものである。
 マーケットにおける創造者と消費者の歴史、規制と自由の対立は今後も注目すべき点であり、未来の美少女が何処に行こうとしているのかは誰にも判らない。


[4]エピローグ
 さて、長々と(ほんと長々と)ごたくを並べてきたわけだが、こうしてペド経済学の理論を見てきた今では、今年上期のオタク市場がどういう状況だったのか、読者にも容易に判断がつくのではなかろうか。美少女が溢れているのにどこかとっつくことができない。それは売り手が新たな美少女の魅力を見出しえないうちに躍起になっている美少女を量産する。需要に合わない美少女の供給過剰。これが現状を一言で表す言葉である。
 ケインズ時代であればこういう時にはあらためて恋愛シムレーションを打ち出す政策が適当だったのだが、同分野を乱発しすぎた結果、ゲーム内で展開される美少女自体がカテゴライズされてしまい、細かすぎる設定とあいまって消費者の想像を限定してしまっている。
 こうした現状は実は、ペド経済学にとっても想定していなかった事態であり、それに対する処方箋は存在しないと言うのが正直なところである。だが響子さん主義を掲げてオマルクスが出たように、不興の打破にケインズが出たように、新たなペド経済理論が現状に対して打ち出される可能性がなくなったわけではない。ある著名なペド経済学者が残した言葉が今も尚、ペド学者達の心に息づいている限り、それは間違いないことである。

  贅沢は言わない。欲しいのは美少女だけだ。






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