藤野竜樹
その日、欧州某所において、王子と少女の国を挙げての結婚式が執り行われた。王子は将来の善政を期待されており、生来の明るい性格に国民の人気も高い。新婦は民間から見いだされた娘だが、その美しさたるや参列者たちのため息を誘うほどだ。式は雲ひとつ無い快晴の中、一日中盛大に行われ、彼ら二人を祝福しないものはいなかったという。
しかし、ことほど左様に素晴らしい結婚式だったにもかかわらず、筆者の胸はなんとなしに引っかかるもののせいで、落ち着かないでいた。と言うのも、筆者はこの結婚式の主役の一人である新婦となった少女のことが気になるからだ。とは言えそれは、彼女の美しさに見惚れたからではなく、ましてや羨望が変質した嫉妬などでもない。そういった感情的なことではなく、筆者は彼女の結婚に到るまでの行動に対して、ある疑惑を抱いているのだ。
並み居るライバルを押し退けて、見事一回のチャンスで王子の心を射止めてしまった不思議な少女、シンデレラの行動に対してである。
継母に虐められた少女が舞踏会に、華美なドレスを身につけてかぼちゃの馬車で乗り付け、王子とのダンスで楽しい時間を過ごすが、12時の鐘が鳴り終わると解けてしまう魔法のため、慌ててガラスの靴を置いて来てしまう。そして、その靴の履ける女性を捜すことで再会する王子と少女の物語。赤ずきんや白雪姫と並んでグリム三大童話の一つであるシンデレラ(岩波文庫版では“灰かぶり”と表記)の話を知らない人はあるまい。ガラスの靴やかぼちゃの馬車など、その言葉を耳にしただけでこの童話をイメージできるのは、我々の日常に如何にこの童話が浸透しているかを物語っている。
が、筆者はこの物語を耳にするにつけ、一つの疑問をずっと持ちつづけていたものだ。というのも、上述の様にシンデレラはおばあさんの魔法によって華美な衣装を纏うことが出来たのであるが、それは12時で消える魔法だったはずである。にもかかわらず、彼女の履いていたガラスの靴だけが、12時を過ぎてもその形を留め続け、周知のとおり王子が彼女を探り当てる際の確たる証拠として機能したのである。
シンデレラの履いていたガラスの靴の魔法が解けなかったのは何故か
ということで、この本論最初の疑問をこれから解明する。それは展開するうち意外な疑問を呼び、更には彼女の持つ謎の真相に迫ることになるのだ。
去年暮れの映画公開をピークとして盛り上がったのが、イギリスの児童文学ハリーポッターシリーズだ。魔法学校に通う主人公が、箒に乗って空を飛んだり杖を振って様々な魔法を使ったりするのは実に夢のあるシーンであり、流石魔法の伝統の長いイギリスの生み出した作品だと感心させられる。さてこのシリーズ、大人気だったものだから、例によって柳下のどぜうをねらった類似本や解説本が跋扈したが、その中の一つにもかかわらず割と面白かった天沼春樹氏著の魔法解説本に、魔法の箒の乗り方についての項があった。これによると、さる魔法の飛行薬は軟膏であり、様々に奇妙な材料を混ぜ込んで作るらしいのだが、面白いのはこれが実際にイギリスでは伝承されていた知識に基づいており、しかもその記述をドイツの大学の研究グループがわざわざホントに作って、その上試してみたというのである。それによると、驚いたことにその軟膏を塗布された被験者は、実際に飛んだ! とは残念ながらならなかったのだが、それでも実験の後に被験者に聞いてみると、薬が効いている間は実際に飛んでいるような気分になったというのだ。つまりその検証実験で明かされた空飛ぶ魔法の実際とは、物理的に飛ぶというよりは、軟膏の材料に使われた麻薬に類する効果のある材料(その中には、ケシの汁なんてのもある)の力により「頭で飛ぶ」ということらしいのだ。なぁんだと思うか、科学的解明になるほどと思うかされただろうか。いずれにせよ、民間療法として効果のあることも多かったであろう村の魔術師が、中世の魔女狩りなど徐々に胡散臭い眼で見られていく過程で、そうした知識は常識という位置から転落していったのだろう。彼女らの境遇に一抹の同情を馳せるも一興か。
さて、かような視点をもってシンデレラの魔法をもう一度振り返ってみよう。ハリーの話をはじめたのも、これにより、シンデレラの話における魔法がどういう性質のものであったかの推測が付くからだ。というのも、本件シンデレラに現れる魔法使いのおばあさんがシンデレラに施した魔法も、この飛行魔法と同じく、精神的な幻覚作用を応用した魔法だったのではなかろうかと思われる。もちろんその場合、おばあさんがシンデレラ一人の頭に幻覚を見せたと解釈してしまうと、実際にかぼちゃの馬車や他ならぬシンデレラの綺麗な衣装を宮廷舞踏会に参加した多くの人々が眼にしていることが説明できない。しかしこれは本案にとって致命的欠陥ではない。何故ならこの場合、シンデレラにかけた魔法と同じ効果を持つ魔法を、シンデレラの周りにいる全ての人に対して施せばよいからである。だが、そんなことは可能だろうか。
筆者は、シンデレラにかけた魔法は、芳香によって媒介されるのではないかと考えている。それもこの芳香は、他ならぬシンデレラ自体から発せられたのではないか。つまり、シンデレラが身に付けた衣装が香りの発生源ではないかと考えているのだ。というのも、そもそも今では芳香というとプアゾンなどの香水が真っ先に思い出されるのであるが、それは昔のことゆえ、この場合はお香のようなものだろうと思われる。と言っても実際にシンデレラが線香に火をつけながら踊っているわけではない(うちの田舎では腰に蚊取り線香をつけて畑仕事をしたが)から、畢竟それは衣装から発せられていたのだろうと思われるのだ。魔法のおばあさんはシンデレラの衣装に薫醸するなどして予め魔法の元になる物質の臭いを染み込ませ、それが芳香を放っている間は魔法が周囲に影響を及ぼすと考えるとどうだろう。強い効力を発する芳香はそれだけ効果も短時間と考えられるから、これにより、魔法が12時までという短時間の制約があったことも説明できるのだ。
ただここで当然でてくる反論は、芳香を染み付かせた筈のシンデレラの衣装は12時で消えてしまったではないかというものであろう。だがそれ故にこそ筆者は断定したい。芳香を発していた魔法の元はシンデレラが履いていたガラスの靴であると。ガラスの靴が、12時を過ぎるどころか、王子が市中にシンデレラ捜査を展開している間も消滅しなかった唯一のアイテムであることは、当日シンデレラにかけた魔法の中核がこの靴にあると考えると、唯一実体として残ったものであることに必然性があるのである。(実際そうなると、これが本当にガラスで出来た靴である必要もない。何故ならこの靴は短期間芳香を発しやすい物質であることの方が重要なのだから、その材質としては質内に空洞の多い木材であることが望ましいと思えるからだ。シンデレラの周囲全てに影響を及ぼした程の芳香を発した物体だとしたら、周囲への影響がなくなった後も自分をカモフラージュする程度の香は継続して発していたと考えても不思議ではない。)
シンデレラのガラスの靴が、12時を過ぎても魔法の解けなかったわけはこうして解明された。だがここに、それ故にこそ湧いてくる新たな疑問がある。すなわち、
シンデレラは何故ガラスの靴を置いてきたのか
というものだ。
周知の通り、舞踏会での王子との楽しいひと時を過ごしたシンデレラは、12時を目前にして早々に立ち去る。この時、あまりに慌てたために階段で、誤ってガラスの靴が脱げてしまう。そして、彼女はちょっとだけ靴を顧みるものの、意を決してそのまま走り去ってしまう、ということになっている。だがこのシーン、よく考えてみるとおかしなことに気づく。
ガラスの靴がシンデレラの足から外れてしまうことにより階段に置いていかれたことは、その後王子がシンデレラを捜しに行く際の手がかりになるため、この物語中かなり重要な部分であることは衆目の意見をまたないが、これは同様に重要な部分である“靴がピタリ合っている者を捜す”という部分と矛盾するように思われるのだ。何故なら、靴がピタリと合っているのならば、それはそもそも簡単に脱げないからである。
かように相矛盾する両者だが、王子の目の前でガラスの靴が彼女の足にピタリとフィットしたことは、他の登場人物たちが納得した展開なのだから正しいとみなせるだろう。となればこの場合おかしいのは前者だ。つまり、シンデレラがガラスの靴を置いて来たのは、“意図的に”階段に残してきたのではないかと考えられるのである。
シンデレラは何故“意図的に”ガラスの靴を置いてきたのか
単純な疑問はこうして、これまでより一層分深みのある謎に変わるのである。
さて先述したように、12時を過ぎても魔法が解けなかったガラスの靴は、いわば魔法の元であるため、魔法使いにとって重要なアイテムであることは言うまでもない。この事実をシンデレラも認識しているはずである。すなわち、物語には触れられていないが普通に考えれば、シンデレラが舞踏会から帰った後、おばあさんが大事なアイテムの返却を彼女に迫る筈なのだ。とすれば、それが念頭に無かったはずの無い彼女が、例え時間が無かったとは言え敢えてその“借り物”を置いてきたということに、そこはかとない彼女の“意図”を感ぜずにはいられないのだ。そしてこれも周知のとおり、彼女はガラスの靴をおばあさんに返していない。それどころか筆者の記憶する限り、そもそもおばあさんは、シンデレラに魔法の衣装を与えて以降、物語に再び出てこないのである。
思い出してみよう。学芸会でシンデレラを演ったとしても、たとえ継母の連れ子Bはいなくても魔法使いのおばあさんがいなくては話にならない。そんな重要な役割を演じている彼女の出番は、そう考えてみると魔法を与える場面だけなのである。
ガラスの靴を意図的に置いてきたこと
片方のガラスの靴を返却しなかったこと
そして新たに加えられた疑問、
おばあさんの失踪
童話・シンデレラから導出される疑問は畢竟、この三点に集約される。そしてここに提出された謎は、深い淵を為す疑惑となって、正に本論の核になるのだ。
おばあさん失踪の鍵を握るのは、シンデレラではないか
これが、本論の題名である“シンデレラ疑惑”の内容である。それは、シンデレラはおばあさんの存在を何らかの方法でこの話の中から消し去ったのだというものである。この疑惑の動機は単純そのものだ、玉の輿(死語だねこれも)という、昔々からよくある動機だ。
日々継母や連れ子から非人道的扱いを受けている彼女にとって、一発大勝負をかけて舞踏会に出かけようとするのは至極当然であり、更におばあさんの不思議な魔法をそのために利用しようとしたとしても不思議はないだろう。だが、ともかくもこれほど大掛かりな魔法である。おばあさんも普通のお願いの仕方でそうそう許諾するとも思われない。とすれば、おばあさんの説得には、“一夜の楽しみしかないから”というような悲劇的な話を展開して同情をかうことも行ったのではなかろうか。
そしてその時点では、シンデレラのその“一夜の”なる願いも彼女の真実から出たものだったかもしれない。だが、いざ実際に舞踏会に出かけてみると、豈はからんや、王子は真っ先に自分の手をとり、その後もずっと自分とばかり踊ってくれたのだ。嗚呼、夢の一瞬。それは明らかに、貧民同然の現在の生活にさよならを告げる、将来の自分の幸福を彼女の脳裏に浮かばせたはずである。だが残酷にも、魔法は12時で消え、彼女は否応なしに去らねばならないという現実が彼女には待っている。
また明日からは再び自分にはあの虐待の日々が始まる...。シンデレラの中に、後日の展開までも見越した上で靴を落としていこうという考えが閃いたのは、この時だったのではなかろうか。そして実際、彼女は巧妙に振る舞い、靴を残して去ることに成功した...。
その深夜、人のいない暗い田舎道まで来たとき、舞踏会の前には想像も出来なかった素晴らしい出来事と、将来に対する布石を打った自らの機転に、彼女は思わず微笑んだのではなかろうか。だが、そうして夢見心地で帰途につくシンデレラの前におばあさんが現れ、靴の返却を要求されたとき、自分の機転を利かせた完璧な計画にも致命的な欠陥があることに気づいてしまった。
その時、彼女はどう行動したか...。
ガラスの靴がピタリと合ってからのシンデレラの行く末は、正に彼女の計算通りだったと言えるだろう。あれよあれよという間に婚礼まで漕ぎ着け、はじめに述べたような結婚式を済ませたからである。そしてそれだからこそ、上記のような推論の元に浮かび上がる疑惑を持ってしまった筆者は思うのだ。晴れやかな空の下、幸福そうに笑う彼女の真意はどこにあったのかと。
だが、そうした疑念を晴らすべき真実は、シンデレラだけに、限りなく灰色にくすんでいるのである。
野暮を承知の追記
これを執筆するために岩波のグリム童話を読んで吃驚仰天した。原作のシンデレラにはそもそも魔法使いのおばあさんなんて出てこないのである。シンデレラはハシバミの木と鳩に頼んで様々な困難を乗り越えるのであり、それは言わば樹の妖精使い、鳥使いなわけで、シンデレラ自体が魔法使いの素養を持っている様な記述なのだ。衣装は12時で消えるわけではなく、シンデレラが脱いだ後、鳥がどこかに返しに行くという設定である。核である靴のエピソードは流石にあるものの、ガラスではなく金で出来ており、しかも置いてくるのではなく、王子が仕掛けたゴキブリホイホイみたいなトリモチを踏んで取れてしまったというのが真相なのだ。(舞踏会は三日間あり、会終了後のシンデレラは風の様に消えてしまうため、何とかしたいという王子の作戦だったのだ。)
ということで、もう一つのシンデレラであるフランスの童話作家、シャルル・ペロー版を読んでみると、こちらが実は我々の知っているものに近い。違うのは、魔法使いのおばあさんは彼女の名付け親の妖精であることと、やはり舞踏会は数日行われるということだった。
面白いのは、グリム版では靴が城に残されることに必然性があり、ペロー版では名付け親(にしても“灰かぶり”なんて名前つけるかね普通。ペロー版ではシャンドリヨンって言うんだけど。)という縁のある存在であることで、彼女がシンデレラに同情することに必然性があることだ。我々の知っているシンデレラにはその辺の設定が欠落しているため、本論のようなつっこみの余地が生まれるのだ。
してみると偶然にせよ、この関係には非常に面白いものがある。
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