トラのバターに関する考察

穂滝薫理




1.チビクロサンボとその家族

『チビクロサンボ』は、大人なら誰でも知っている優れた児童文学である。
 念のためデータ的なことを記しておくと、作者はイギリス人のヘレン・バナマン。オリジナル作品では、絵も彼女が描いている。初めて出版されたのは、1899年イギリスにおいて。原題は『THE STORY OF LITTLE BLACK SAMBO』。当時イギリスの植民地だったインドで暮らしていたバナマンが、子どもたちに話して聞かせたものを友人の勧めで本にしたとのこと。この話には4匹のトラが登場するが、トラの生息地はインドおよび東南アジア、中国東北部、シベリアである。以上のことから考えて物語の舞台はインドだろう。そして、トラはインドに生息するベンガルトラである。
 1988年から90年ごろにかけて、チビクロサンボが黒人差別という文脈の中で問題になった。そもそも“サンボ”というのが、黒人の蔑称であるということだった。しかし、物語の舞台を考えると、サンボ君はインド人である可能性が高い。ところがバナマンの描いたオリジナルの挿絵を見ると、どうもアフリカ系黒人を想定していたようにも見える。ひょっとすると、バナマンの中で、インド人とアフリカ系黒人の混同が起こっていたのかもしれないし、当時インドのバナマン邸ではアフリカ系黒人を使用人として雇っていて、サンボのモデルにしたのかもしれない。とは言うものの、普通に市場やジャングルへ出かけたり、家でホットケーキを食べたりしている姿を見ると、やはり現地の住人であるインド人であると考えるほうが自然だ。

 さて、オリジナルの作品に当たってみると我々の勘違いが明らかになる。おそらく我々の誰もが、サンボの家庭は貧しいと考えていたハズだが、実は結構裕福である。
 サンボの父親であるジャンボなどは、アメリカの黒人ジャズバンドのメンバーが着ているような実におしゃれな服装をしている。黄色いシャツにグリーンのストライプの上着、白地に赤いストライプの入ったズボン。帽子をかぶり、傘をさし、口にはパイプをくわえている。貧乏くささは微塵も感じられない。ただし、裸足だが、これは経済的理由というよりも習慣からくるものであろう。今でもインドでは裸足で生活している人々は多い。
 サンボの赤い服と青いズボンを作ってくれたのが、母親のマンボである。挿絵では結構しっかりした作りのように見えるから、マンボの手縫いではなく、たぶん彼女はミシンを持っている。生地もしっかりしており、汚れやほころびなども見られない。
 ジャンボは市場へ出かけて、緑の傘とソールの部分が真っ赤な紫のくつを買い与えている。はでな原色の組み合わせは、熱帯地方では比較的普通に見られるものだから、日本人の感覚でセンスを問うものではない。むしろ雨でもないのに傘を持って外出するというサンボの行動にイギリス的ブルジョア感覚を感じる。サンボ一家が着ているのが、インドの民族服でなく洋服であることから考えると、ジャンボはイギリス人と取引をしている商人か、よほど裕福なイギリス人に雇われているものと見える。話の中にイギリス人は登場しないから、本当のところはわからないが。
 そんな家庭だからこそ、のちにジャンボがトラのバターを持ち帰ったとき、惜しげも無く大量の小麦を使い250枚以上ものホットケーキを焼くことができたのである。


バナマンが描いた、オリジナルのちびくろサンボ

2.トラのバターと牛乳のバター

 さて、サンボの機知と勇気はこの際おくとして、ここでは4匹のトラがバターになる瞬間について考えてみたい。
 サンボから服や傘を奪い取ったトラ達は、誰が一番ジャングルでイカすかでけんかを始め、やしの木の周りでお互いのしっぽを噛み合う。お互いに相手を食ってやろうとしてぐるぐる回りだし、どんどん速くなって、ついには足が見えなくなってしまう。それでも回り続け、とうとう溶けてバターになってしまうのである。原作には、「このようなバターのことをインドでは“ギー”と呼ぶ:“ghi,”as it is called in India」とあるから、トラのバターはインドではしばしば見られる光景なのだろう。
 ここで、牛乳を原料としたバターができる過程を見てみよう。バターというのは、牛乳の中の脂肪分だけを取り出し固めたものである。残りは水分とたんぱく質などの非脂肪分である。この非脂肪分は、いわゆる“脱脂粉乳”になる。バターを作るには脂肪分を取り出すだけではダメで、それだけだとたんなるクリームになる。その中の脂肪分の糸をほぐし、お互いに絡み合わせるため、激しく撹拌してやる必要がある。と言っても泡立ててはいけない。泡立てるとホイップクリームになってしまうからだ。バターを作る際には、必ずしも最初に脂肪を分離しておく必要はない。効率は悪いが牛乳を直接撹拌してもOKなのだ。牛乳を激しく撹拌すると、固形分と液体分に別れる。この固形分はすでにバターである。これを取り出せばよいのだ。効率を上げようと思ったら、遠心分離機のようなものにかければよい。
 知らない人にとっては驚きだが、バターは家庭でも作ることができる。牛乳をふた付きの容器に入れ、手で持って激しく振ればよいだけである。あとからバターを取り出しやすいよう、広口で、片手で持てるくらいの大きさが良いだろう。8cmくらいの高さのコップ状のプラスチック容器があれば最適だ。あたためてはダメだそうだから、あらかじめ冷やしておき、手早く作業をることが大切だ。手で容器を包みこまないよう、指で上下の端を持ち激しく振る。10分から15分ほどひたすら振っていると、ある瞬間にふっと手ごたえが軽くなる。静かにして見ると、容器の下のほうに白いカタマリができているという具合だ。100mlの牛乳からはおよそ5g程度のバターができるそうだ。普通は、保存と味を調整するために少量の食塩を加える。市販されている“無塩バター”というのは、この塩が入っていないものだ。以前にバターを作る機械が市販されていたことがあるが、このようにバターは特殊な薬品も必要なく、簡単にできてしまうものなのである。ついでながら、自分で作ったバターをパンに塗って食べると、市販品以上にうまい。たぶん心理的なものに過ぎないのだろうが、一度ためしてみることをお勧めする。ついでに言っておくと、牛乳だけからつくるのは結構大変なので、牛乳の半分くらいのクリームを混ぜるといいらしい。

 バターを作るためには素材を撹拌して分離すればよいことがわかった。チビクロサンボの話に戻ると、トラはまさしく木の周りで激しく撹拌され、そして回転による遠心分離が行なわれていたことがわかる。原作にはただたんに「溶けた:melted」とし書かれていないが、実は、まさにバターを作るための工程があったのである。この場合の素材は、牛乳ではなくトラである。言葉の定義上、“バター”は「牛乳から分離した脂肪を固めたもの(新選国語辞典:小学館)」だから、バナマンは慎重を期して、これを「ギーと呼ばれる」と書いていたのである。
 牛乳の例では、約5%がバターになった。これがトラにも当てはまるとして、では残りの成分はどこへ行ってしまったのだろうか? まず水分だが、インドのような熱帯のこと、これはすぐに蒸発してしまったと考えられる。次に非脂肪分だが、ギーは遠心分離にかけられているので、より軽い非脂肪分は、やしの木のギーより内側にたまっていたはずである。残念ながらジャンボは気が付かなかったようだ。あるいは脱脂粉乳にややそのイメージがあるように、ギーを取ったあとの“残りかす”と考えて見向きもしなかったか。このいわば“脱脂粉虎”は脂肪分ゼロなだけに、ちょっと太りぎみの妻のマンボのダイエット食品として使えたであろうに。

3.パンケーキを作るのに必要なバターの量

 さて、原作によると、マンボは、このギーのほかに小麦粉と砂糖と卵を使い、大皿に盛り上げるほどたくさんのホットケーキを焼いた。原作ではパンケーキとなっているが、一般にホットケーキとパンケーキの違いはベーキングパウダー(ふくらし粉)を入れるかどうか(あるいは入れる量が多いか少ないか)だけのようである。だからこの場合は、見た目も実際の満腹感から言ってもホットケーキという言葉から連想されるほど大量ではない。しかしそれにしても相当な量には違いなく、夕食として食べた数は、マンボが27枚、ジャンボが55枚、そしてサンボは169枚である。恐ろしい胃袋だが、ここでは食べた枚数ではなく、マンボが作ったパンケーキの量を問題にしたい。
 最初に述べたように、サンボ家は裕福だから、材料の問題はない。子どもであるサンボが169枚も食べたことを考えるとこのパンケーキは1枚の大きさがそれほど大きくなかったのであろう。そこで、マンボが焼いたパンケーキの直径を10cmとしてみる。ちょうどマクドナルドの朝メニューに出てくるくらいの大きさだ。この晩マンボが焼いたパンケーキを家族3人で食べきったとすれば、マンボは251枚のパンケーキを焼いたことになる。ジャンボが取ってきたギーは、使い切ってしまったのであろうか。いったいどれだけの量のギー(バター)があれば、これほど大量のパンケーキが焼けるものなのだろうか。

 文献によって、表記や量にばらつきがあるので、平均的なところをとってみた。
  ホットケーキ4人分の材料
  小麦粉120g
  ベーキングパウダー 小さじ1
  卵 1個
  牛乳 100ml
  砂糖 大さじ2
  バター 70g
このうち、マンボはベーキングパウダーと牛乳を使用していない。牛乳の代わりには水を使用したのだろう。どんな基準で“4人分”となっているのか不明だが、仮に直径15cmのホットケーキが4枚焼ける量と仮定する。そのあたりが無理のない仮定であろう。ホットケーキの厚みはベーキングパウダーの働きによるから、とりあえず厚みを無視すると、
  ホットケーキの半径=7.5cm
  パンケーキの半径=5cm
なので、
それぞれの面積から
  7.5×7.5×3.14×4=5×5×3.14×n
  n=9
となり、上記の材料で、サンボが食べたパンケーキを9枚焼けることがわかる。
したがって、251枚のパンケーキを焼くには、
  小麦粉 3336g
  卵 28個
  砂糖 大さじ55
  バター 1946g
が必要である。言うまでもないが、ここで問題なのはバターである。マンボは、ギーを材料に加えるだけでなく、焼くときにフライパンに入れる油としても惜しげもなくギーを使っているから、おそらくギーの総使用量は3kgほどになったであろう。
 すなわちジャンボが取ってきたギーの量は3kgである。


バナマンが描いた、オリジナルの母マンボと、トラのバター“ギー”

4.サンボ一家の秘密

 と結論付けたかったのであるが、残念ながらバター3kgは、想像していたものよりかなり少量であった。原作では、ジャンボは大きな真鍮のつぼ(the great big brass pot)いっぱいにギーを持ち帰ったことになっているから、3kgぽっちのハズはない。したがって、持ち帰ったギーは使いきれずに保存してあるようだ。
 告白すると、ここで使用されたギーの量をもとにトラの体重を推定しようとしたのだが、上記のように、いかんせん料理に使われたギーの量が少なすぎる。やむを得ないので、平均的なトラの体重をもとに、ジャンボが持ち帰ったギーの量を推定してみよう。
 平均的な大人のオスのベンガルトラの体重は180kg〜250kgとのことなので、中間をとって215kgとする。牛乳の場合は5%ぐらいがバターになるが、トラの場合はどうなのだろうか? 残念ながら資料は見つけられなかったが、人間の場合でも脂肪は十数%だから、トラの脂肪もそれくらいとみなすことができそうだ。仮にトラの脂肪分を15%とみなし、そのすべてがギーになったとすれば、1頭のトラからは215kg×15%=32.25kgのギーができる。ジャンボが持ち帰ったのは4頭分だから、129kgである。結構な量である。パンケーキなら、1万1092枚も焼ける。129kgというと、普通の人に持ち運べるような量ではない。だが、原作の絵を見るとそのくらい入りそうなつぼを持ったジャンボが描かれている。ジャンボは力持ちだったのだ。
 ここで重要な疑問に思い当たった。
 そもそも、ジャンボは、なぜそんなつぼなど持ち歩いていたのだろう?
 原作をよく見ると、このつぼには“TIGER GHI”と書かれているではないか! ようやくわかった、このギーは売りものだ。そう、ジャンボはジャングルでギーを取ってきてイギリス人に売る、ギー商人だったのだ。そして、商売はそれなりに軌道に乗ってもいる。自分の子供にちょっとした靴でも買い与えてジャングルを歩かせ、その後ろから付いていけば100kg以上のギーが取れるのだから。
 だから、サンボの一家は裕福なのである。



バナマンが描いた、オリジナルの父ジャンボ。大きなつぼを抱えている。

挿絵出典
THE STORY OF LITTLE BLACK SAMBO , 1993
HELEN BANNERMAN
REINHAEDT BOOKS LONDON



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