加藤法之
その場所に着いたとき、彼は驚きを隠せずにいたという。モニターから微笑みかける少女に手を引かれ、何処からか流れてくる可憐な歌声に耳を傾ける。ところ狭しと並べられた同人誌に目を奪われ、華やかに着こなすコスプレ店員の後を追う...。オタクにたいする風当たりが強いその時代にあって、ビーグル号による航海の艱難辛苦は如何ばかりであったか。そしてそうした世間の荒波を乗り越えた彼、チャーミング・ダーウィンにとって、多種多様の美少女たちが存在をアピールする場所、アキハバラパゴス諸島にたどり着いたときの衝撃は、現在の我々には想像もできないほど大きかったろう。
彼は同島で日がな一日歩き回り、国家から支給された予算をはるかにオーバーしてグッズを買い漁ったという。その凄まじい量はといえば、乗ってきた乗り物に詰め込んで押し込んで、しまいにはエアバッグが開く空間さえ抱き枕に占有されたほどだったといわれる。だがそれは凡人たる我々が同じようにして財布を空にする時の虚無的な行為とは違い、ペド学会にとって偉大な貢献をすることになる、ある革新的なアイデアを醸造するに役立った。
美少女進化論。ダーウィンが世間に与えた衝撃は、ここから始まったのである。
来ると思ってすらいなかった21世紀も最初の年がちゃんと過ぎてしまった。来てしまえばそこで筆者はやっぱりオタクだったわけで、それはそれでとてもビックリすることではあったのだが、ともあれお陰でこうして今回も今年のアニメの傾向を振り返ることが出来、してみるとほんとにろくでもないことだ。
さて、そんな筆者の網にかかった下半期の美少女事情といえば、前回も指摘したコメットさん(前回触れているので今回解説は割愛)、フルーツバスケットの本田透、そして、コミックスなので知らない人も多いかもしれないが、チャンピオン連載の「ななか6/17」という作品の“きりさとななか(ひらがな表記)”が挙げられる。
ほとんどの少女漫画雑誌が代表選手をアニメ化している戦国時代の中、花とゆめが送り出しているのがフルーツバスケットだ。BSなどへの作品供給でしばらく地上波にご無沙汰だった大地丙太郎氏が監督をしているだけあって、人間をやさしく見つめる視点は突出している。本田透という薄幸ながらも前向きに生きるヒロインという構図は、これまでの作品なら周りからの更なる逆境がこれでもかと言う具合にたたみかける展開になるはずなのだが、この作品はそうではなく、周りをヒロインがまず癒し、次第に回りもヒロインを癒すように変わっていくという物語が新鮮だ。
考えてしまうのは、確かに今、かつての小公女セーラのような、半年以上にわたっていびられ続ける作品をもし作ったとして、現実にそういう子供たちがいる事実の前には辛すぎると思われることだ。してみれば、“人を癒すことで変えていく、支えられることで変わっていく”というこの作品のテーマは、OP中の、生まれ変わりは無理だが、自分を変えていくことなら出来るという歌詞に代表されるように、現実に対するメッセージとしてどれだけ切実な響きを帯びているかが判ろうというものだ。
ところで、筆者は常々、作品が世間に及ぼす影響力の限界を考えている。というのも例えば、宮崎氏は子供達に自然の素晴らしさを教えるために、白髪になってまでとなりのトトロを作ったが、現実の子供達は外にも出ず、となりのトトロを何回も見ているという残酷な現実がある。これはもう、今の閉塞した社会に一方向メディアとしての作品を出すことそのものに限界があるのではないかと筆者は考えているのだ。だがフルーツバスケットの凄いところは、あの宮崎作品をしてそれなのだから、最早絶望的とニヒリズムに陥りそうなのだが、そこに果敢に挑んでいると思える制作姿勢が見えるところであり、筆者はその勇気に敬服を禁じえないのだ。(余談だが、筆者もそうした現実を虚無的に分析するためだけに考えているのではなく、だからこそ双方向メディアとしての机上理論にそうした現実に挑める可能性があるのではないかと考えているのである。ギャグ文の中では説得力無いけど。)
ななか6/17は、同級生の主人公と喧嘩した17歳のななかが、精神退行を起こして6歳の精神に戻ってしまうというもので、6歳児の心の七華(ななか)が起こす奇天烈な行動に周りが振舞わされるという展開だ。この作品は細部にわたるプロットの巧さが絶妙で、だからこそそこでのヒロインの振る舞いが説得力を持って読者に伝わり、愛らしさもより深まるのだ。(「はやや」とかの口癖からも愛らしさが伝わってくるのは言うまでもない。とは言えこれもマンガ中のアニメ、まじかるドミ子のそれを真似ているという設定になっており、10回は読み込まないと見逃すほどの深みがある内容である。今回藤野竜樹氏が引用しているのは伊達ではない。)
このマンガの構図が優れているのは、早く大人になりたいと思うことで精神的に早熟して回りと齟齬を来たしたヒロインが、そう決心する最初期の年齢まで精神退行するという、一見してとても深刻な病気を、ヒロインの“人生のやり直し”ととらえることで娯楽作品に転換していることであり、更に、身体が6歳になっているわけではないという点は徒にファンタジーとしてごまかさない現実性を持たせているわけで、これほど巧妙な作品を作る作者の力量にほとほと感心する。
両者に奇しくも共通しているのは、今ある現実に対して目をそらさない点、自分が回りにまずアクションを起こすことで周りとともに自分も変わっていくという点で、しかもそれによって作品が今という時代に確かに説得力ある光を放っている点だろう。
そして奇しくも、筆者がこれから語る美少女進化論も、それがキーワードなのである。
ダーウィンは持ち帰った膨大なグッズ...資料をもとに萌えて...熱心に研究を重ねた。彼は既に、彼自身がアキハバラパゴスで受けた衝撃の分析を終えており、そしてその原因の主要部分に美少女がいるとまでは突き止めていたのだが、ある考えが彼をしてそれ以上説を進めることを躊躇させていた。というのも、当時の社会はTV放送を中心に動いていたから、美少女は半年もしくは一年の周期で何度も絶滅しており、今の少女は今の社会が終わらない限り普遍のものだという考え方が主流だったのである。(なつかしのアニメ大集合とか銘打った特番は、そうした時代がずっと続いていたことを示していた。そういえば今は全然やらなくなった。)サザエさんが高視聴率を占めていた当時では、少女といえばワカメや花沢さんを思い浮かべるような状況で、敬虔な禁欲主義が蔓延るのも当然といえば当然であったろう。だが彼は見てしまった。彼の地での目の醒めるような美少女と、彼女らの生き生きと社会とともにあるあり方を。
彼がアキハバラパゴスで感じた印象は彼の地での新陳代謝の早さであり、にもかかわらず的確に彼の心を(財布を)射止める点であった。それは明らかに、半年や一年といった長期にわたる美少女の永続説とは矛盾を生じていたため、彼はこう結論せざるを得なかった。「美少女は進化している。」と。そしてそれを発表したのが、かの“美少女の起源”だったのである。
実を言えばこの結論自体は、当時既に研究者の間で囁かれ出していたことだった。というのも、BSによる電波は日本でない場所にも届いたし、港に行けば海賊版のアニメが続々と運ばれてきたから、お兄さまと涙が止まらなかった次の日にはダーリンが電撃を喰らったりしていたのである。ただ、これらは別のメディアから流れてくるものであり、時系列が同時かどうかまで確証が得られなかったのである。
ダーウィンが世間を驚愕させたのは、美少女進化を(いい歳して)声高に叫んだこともあるが、寧ろ次の主張にある。『美少女の中で突然変異により環境に適応しているものが少しずつキャラグッズを増し、そうでないものは店から排除される。』今では“自然淘汰”という言葉で呼ばれるこの主張によって、それまでは夢想の域を出なかった美少女進化は根拠付けを与えられたことになり、それが真実であるという認識を世間に抱かせたのである。
この反響は大きく、特に無駄遣いをされると困る禁欲主義PTAに嫌悪された。童顔少女が巨乳を持ったイラストが描かれ、「行き着く先はこんなだぞ」と揶揄されたが、ほんとにそうなったから笑えない。
ダーウィンの理論は批判の対象になったが、それは“適応”という語が漠然としたものであり、しかもどういう仕組みで美少女が変わるのかについては触れていなかったから、特にゲーマーズの商品企画部からの文句が大きかったようだ。
が、これについては別の視点からの研究をまず紹介しなければならない。
当時、人の集まるところで年二回開かれる市、“不思議市”というのがあったのだが、そこで美少女の人形を売っていた造形氏がいた。名を、モェンデルという。彼は売れっ子で、彼の作った美少女は瞬く間に売り切れたというが、それは彼が売れる“コツ”を実験によって見いだしていたからだ。
彼は同じ型でも、それに着せる服(メインコスチュームだけでなく、白衣とかSFっぽいのとか、特殊なところではガンダム装甲とか)、つけるアクセサリー(メガネや猫耳,しっぽなど)、ポーズなどによって売れ行きが違うことを見いだしており、逆にどれかが多少悪くても露出度が高い服を着せればよく売れるなどの法則があることをみつけていた。彼はその、「最終的な売れ行きには総合的なインパクトがモノをいい、一部の欠点は寧ろアンバランスという特徴を持っているということで許容されてしまう。」という経験則を、“優性の法則”として提唱した。(日本語で言えば、“あばたもエクボ”ってやつだ。)(>_<)
それは個々の美少女ではなく、もう少し還元した形質が別の美少女として成立し得ることを理論づけた、早い話オタク(多くの場合異性)が選ぶ本質的好み、“異選子”の存在を世に知らしめた最初の人物であった。
ダーウィンの欠点は美少女の進化が継承される仕組みがわからないことだったが、それをモェンデルの異選形質は補填することができる。更に異選形質が世間の要求に適応するよう変質する。変質の仕組みが突然変異である。二つの説の統合にさして時間がかからなかったのはいうまでもあるまい。そして、ダーウィンの主張が漠然としていたのに対して、モェンデルのそれは“ある”か“ない”かという明確なものだったので、両者を統合した後の数理美少女学が発展している。
その中では、喧嘩っ早いことで知られるブッチャーと、妙な言い回しで相手を煙に巻くファイヤウォール・ライトが有名だ。
ブッチャーは美少女の進化では連続的な変化が重要だと主張し、己の数式では好みによる自然選択を優先させた。これは現在では自然選択の第一法則と呼ばれ、美少女のスカートの丈がここ十数年で徐々に短くなるなど、連続変異量の変化を記述するのに適している。正にそのスカートに言及した“適応度は生活空間の縦方向の限界に達したとき、ストップする”という、妙に説得力のある言葉が有名である。
ライトはこれに対して進化を三段階、すなわち、1.ある番組内,2.ある分野、3.全美少女集団に分け、進化はこれらが混交しておきる断続的な変化が重要だと主張してブッチャーと対立した。彼は美少女の髪の色に注目し、はじめミンキーモモで突然変異的に出現した桃色の髪が、人気が出ることで認知されるさまを1.の番組内小変化、それに気を良くしたキャラデザインの芦田豊雄が、自分の所属する団体内の同番組、バイファムに拡張して薄ピンク色や緑色の髪色を広げていくさまを2.の同分野進化、そして、やがてもうアニメなんだからどんな髪だっていいやって具合になっていくのを3.の全美少女集団進化だと捉えている。(まじめに考えると、ピンクや水色はいくらなんでも変だとは思うが。現実に染色髪が蔓延るのとどちらが先立ったか、今となってはなんともいえない。紫髪が最初はおばさんのアクセントだった記憶はあるのだけど。)
ブッチャーとライトの、連続と不連続技が飛び交うバトルは、全日本プロレスのメインイベントとして放送されるほどの盛況ぶりだったという。
ダーウィンから続く美少女進化の概念はこうしてゴールデンタイムで放送されるまでに(?)成長したが、モェンデルが導き出した異選子なる部分が美少女のどの部分にあるのかはまだ突き止められていなかった。それまでの進化論はこのために、実際にそぐわぬシムレーション(早い話し、出来の悪い美少女ゲームのことだ)と揶揄される停滞を余儀なくされていたのだが、これは分子美少女学と呼ばれる分野から助力が加えられることになる。
分子美少女学とは美少女を徹底的に還元し、ほとんどCD-ROMの0,1までに細分化する学問で、そうまでしても萌えるという変質者...研究者がうようよいる、あまり友達になりたくない集団である。そのなかでもキングオブオタクとでも呼べそうなマウス・クリックと、彼のバンソウコウを時にはがしてやることで貢献するワトさんによって、異選子の中核をなす物質、DNAが発見される。
Deorbit Naked Axiom。気分次第で羽目を外す公理、とでも訳そうか、美少女の本質が気まぐれにあり、何処に行くかわからないことを見事に表現している定義だ。彼らは美少女の部屋に忍び込んで二本鎖状で縛られている“秘密の日記α”なる暗号文書を見つけたが、それを解析した結果、そこには“Aアクティン,Tシトヤカン,Gグラマン,Cチビッコイン”なる四つの記号で記述された暗号文より成り立つことが判明した。前二者の組み合わせで行動のアクティブかネガティブかを決定し、後二者で形体が大人か子供かを決定するのである。恐ろしいのはこのDNAの模式図で、ATGCが梯子の様に組み合わさっている形状をよくよく見ると、微小なオタクが手をつなぎ合ってその構造を構成していることであり、可憐な美少女に食い物にされているオタクという構図を活写しているこの構造は、美少女という存在がオタクの基盤の上に成り立つものであることを証明している。(彼ら一人一人はメーテルによって連れてこられたらしい。)更にDNAは、RNA(Railed Naked Acxiom 気分通り公理:○○、君に決めた!ってやつだ。)を通じて社会に影響を及ぼすことも明らかにしている。RNAは要はオタク自身のことで、美少女の本質であるDNAの命令を忠実に実行し、コンサートなどの応援などに素直に駆けつけるトランスファーRNA、同じく美少女のチャームポイントをネット上で大騒ぎで喧伝しまくるメッセンジャーRNAがある。筆者の実生活との絡みで言わせてもらえば、メッセンジャーRNAの方はハタ迷惑である。
美少女の行動と形体の素因子が発見されたことで、生物学的な美少女の本質はかなり詳らかにされたといえよう。だからここからの進化論はこの素因子がどうやって別の美少女として進化させるのかというメカニズム論が多い。代表的なものは次に挙げるR.ドッキンスとクルーゾだが、前者は特にこの傾向が強い。
利己的な異選子。R・ドッキンスの説だ。これはDNAなんでも決定論の権化みたいな理論で、DNAの気まぐれを許容する方向に美少女は進化するという説だ。美少女の特性の一つである人類愛のような利他的な行為は一見気まぐれDNAとは対極に位置するように見えるが、「社会がなくなっちゃぁ膝まづいてくれる人間もいなくなっちゃうじゃない、と考えての行動だとすれば納得がいく。」とか言ってるのだから始末が悪い。総じて、還元主義に徹する人は世間の多様性が見えない人が多いのだが、例えば“メガネっ子ならなんだっていい!”とか叫ぶ馬鹿者が多いことを考えると、この説は美少女の側ではなくオタクの側に立った研究と考えられるわけで、してみると結構合っていそうで恐ろしい。
ドッキンスと仲が悪く、両者の対立が現代のメインイベントの様相を呈しているのがスキナモン・J・クルーゾで、その彼の提唱するのが断続平衡説だ。これは簡単に言えば、美少女進化には停滞期と活性期があると指摘したものだ。氏はどちらかというとダーウィン的に現実から理論を導く人で、この説も実際の美少女発掘調査をして、数年毎にアニメが面白かったりそうでなかったりすることなどを踏まえて説を立てている。面白いのは、「新環境があるとき美少女は増加する」というもので、「PCによる市場が生まれたとき、そこには新たな形体の美少女が多数発生した。その後も常に美少女は発展したが、それは比率から見ると最初よりは緩やかになっている。」や、「美少女はその生存形態の限界を越えることはできない。PCの発色限界や表示ドット数の増加がなければ、竹井キャラ以降の細かな美少女表現は生まれ得なかった。」などの喝破は流石とうなずく。
上記有名どころのほかにも進化論はたくさんある。実際現代の美少女進化論は百家争鳴の観があり、活況を呈しているのだ。ここに異端も含めて紹介しよう。
獲得形質遺伝論。ラブマルクの説。これはどちらかといえば進化論の黎明期だけど、ダーウィンも影響されたという、押さえないわけにはいかない説だ。少女は綺麗になりたいと思いつづけるその“意志”によって可憐な美少女に成長し、それが受け継がれるというもので、魅力ある説だが、鼻を洗濯バサミでつまんでから寝るという実験をした少女の、「高くならないじゃないのよ!!」という可哀想な主張により下火になってしまった。
全体論的進化論。今一錦司の説。美少女はお互いの縄張りで“すみわけ”ているから競争なんて起こらない。美少女進化はなるときになる、という、大胆な割に結構大雑把な理論だ。ゲーム屋とアニメショップでは扱う美少女に差があることを身を持って体験した氏が出している例は確かにそのとおりだが、理論より思想といった印象がある。
中立説。木村助丙が唱えた、DNAレベルの進化原動力は結局気まぐれ(中立)に帰するとする説。要はダーウィンの言う自然選択よりも“気まぐれ”の方が早いので、こっちの方が進化の主役だよと言っている。中原氏のアイリス進化説(子供のキャラが時として単なるアクセント以上の働きをするという説。天地無用出身のプリティサミーなどがこの系譜か。)などもこの系統だと思われるが、この説は進化が完全にランダムの蓄積で起きるとするわけで、進化を宝くじに当たるようなものと想定しているようなのだが、だとすれば最初の例であるアキハバラパゴス諸島の美少女達なんて籤に当たってばかりということになるが...。
構造主義的進化論。柴谷萌弘などが唱える。病んだ社会を象徴してエヴァンゲリオンの綾波レイが出てきたように、美少女は社会の見えない構造を方向性として進化しているという説。一理あるものの、社会に原因を求める彼ら自身がその見えない構造を見つけていないためにどうにも説得力に欠ける。大体構造主義には結果論を言って選手を批判する野球解説者みたいなところがあり、美少女進化という先を読むことが必要とされる学問には、実質は空論に近い。
さて、ここまでで、これまでにいろいろと出されてきた美少女進化論の歴史を大雑把に紹介してきたが、正直読者諸氏には物足りないという印象をもたれたのではなかろうか。いやその、筆者のこの論文が面白くないという拭えない欠点を指摘されるともうどうしようもないのだが、よしんばそれをこっちに置いといたとしても、何かすっきりしないのではないだろうか。そしてもしそう感じてみえたとしたら、それはおそらく筆者自身がこのペド進化論生物学という分野における先達たちの業績を調べるときに常に付きまとう不満と端を同じくするものだろう。
本稿で紹介している進化論というのは、実のところ“説”である。もっとはっきり言えば“仮説”である、あくまでも“〜かもしれない”であって、例えばペド物理みたいにピシッと決まった理論ではないのである。何故だろう、と疑問を呈するまでもない、実はこれは当然のことなのだ。何故なら彼ら研究者は誰も実際に美少女が生まれ変わるところを見ていないのだから。(浴室にカメラを置くことが許される研究者など、近年では富野氏くらいのものだ。)
そうした現状があるから、クルーゾのように美少女化石の研究から進化論を根拠付けている人は例外として、例えば美少女生態学のように、実際に美少女の生態を調査して日々手痛い目にあっている学者などは、安易に“美少女が変わる”理論がまかり通ることについて疑問を投げかける。彼らにしてみれば、実際の美少女は変化に対して寧ろ男性キャラのそれよりもよっぽど頑強なのだ。これについて、頬に平手の跡が絶えないという日高時銘高氏は言う。「コミケに行って御覧なさいよ。それこそ千を超える人がその時人気のある同じキャラクターをめいめいの筆致で描いて本を出しているのに、プロ裸足のものからデフォルメキャラまで、そのほとんどが曲がりなりにも“同じキャラ”だと認知されるでしょ。あれは美少女がそれだけ個のキャラとして頑強だってことなんですよ。そもそも野郎キャラのほうがよっぽど変化に対して薄弱で、20年前に聖凍死聖夜として出した本のキャラネームを変えただけでオサムライドリッパー本として売ってた人をあたしゃ知ってますもの。」後の意見はちょっと解説が必要だろう。や○い本では好みのキャラに、彼らがアニメでいつも着ている着たきりの服ではなく、カジュアルな服を着せる傾向がある(もっとも、あとで脱いじゃうのも多いらしい)のだが、このために言及したようなとんでもない芸当が可能になるとのことだ。もともとタッチが似ているから、キャラに思い入れがなくなった後で見ると誰を描いてあるのかわからなくなるらしい。苦笑する筆者に氏はこうも付け加えた。「ちなみに今、最遊戯で同じことしようとしてますよ。」あれは4人だったが、どうするのだろう...。(もう一人は、竜?)
進化論の骨子である突然変異についての頑健性も同様だ。「実際にね、独自のキャラにしようと思って、例えばメガネをかけたり、猫耳にしたりしてもね、結局オリジナルの美少女としか見られなかったり、良くても亜流だと思われるのが関の山なのね。だからと言って放射線を当てすぎると、突然変異が進みすぎちゃって首が三つくらい生えてたりする。美少女じゃなくてキングギドラだっての、それじゃあ。」実際、その時点で人気のあるキャラというのは、その社会の無意識に対して実に巧く適応している。絵だけではとても人気が出ると思えない美少女が、ドラマとの巧みな融合で人気が出るといった複数要素が萌えに絡む“共生”現象はその代表例だろう。そうした複数要素の進化がこれほど巧く、また同時に、それが無軌道に起きるものだろうか。プラレス三四郎がエンジェリックレイヤーに取って変わられたのは自然淘汰だとしても、その結果全キャラクターが都合よく萌えキャラになるものなのだろうか。
美少女が進化することそのものについては化石などがあるから認めるものの、そう簡単に進化なんかしないッスよというのが、実学の立場からは言わざるを得ないということだろう。こうしてみると、一見確固たる理論を築き上げているかに見えるペド進化論は、事実に裏づけを持たない分、実は砂上の楼閣であるといわざるを得ない。そもそもどの進化論もまだ根本の、“どういう時に新しい美少女に新生するのか”という疑問には答えていないのだ。だが、それを学問としての進化論に求めるのは実のところ酷というものであろう。根底理論があってそこから発展させて未知の宇宙を発想するペド宇宙学などと違い、根底理論をこそそもそも見つけようとしている進化論生物学としては、それが目の前に起きている現象として検証できない以上、現状のそれが限界であり、また節度でもあるのだろう。
よって、これ以上の説を解こうと思えば、それはもう科学という領域から外れるものにならざるを得ない。のだが、筆者はそれを了解した上で、なおも一つの仮説を提示したい。空想に過ぎないそれはもはやSFと呼ばれても仕方がないが、現実との整合性を合わせ得る説であると自負はしている。
美少女進化を促す遠因として筆者の想定するのは、クルーゾや今一に近いが“環境”だ。そこには“病巣を持って閉塞している社会”を当てはめても良いし、“64bitになったCPU”でもいい、とにかく、それまでには無かった広大な沃野に、ある時少女は気づいたとする。(イス取りゲームで、席が空いているようなものだ。)この場合、少女はそこに向かうことに躊躇しないであろう。ところが、その沃野を存分に謳歌して生きるには彼女には足りないものがあるようなのだ。では、彼女はどうするか。彼女は後込みせず、それでもそこで頑張って生きるはずだ。そしてそれだからこそ、ある変化がおきる。環境の影響を受けて、彼女は変身するのだ。と言っても、その地に適応した(完成形としての)美少女にいきなり進化するわけではない。クリエーターと呼ばれる中間的とでもいえる存在になるのだ。
これは通常の美少女とは違う、実験的美少女とでも言おうか、彼女は己の身体で、新環境における可能性を試すのある。それは意図的になされるのではなく、その環境で生きること自体がそれをなし得る。というのも、その環境で生きることはその環境の影響を受けつづけることだからだ。そしてそれそのものが変化の鍵となり、己の内なるDNAは、環境が持つ因子の変化に“感染”して、変化をはじめる。そこでの変化は実のところ、彼女には苦痛をもたらすことの方が多いはずで、それはあたかもガンのような病気としか感じられないだろう。が、それでも彼女は当然生きる。断じて生き抜く。そしてそれこそが変化に方向性を与える要因となるのだ。環境が彼女のDNAに与える変化は勿論ランダムだが、“彼女が生きるに値しない変異は捨てられる”からだ。つまり彼女は己の身体の内部で適応可能な条件を模索するわけで、クリエーターとはその、己自身で実験的な生を送るときの前向きな姿勢に対して命名したものだ。だが、そうした模索の方向性は、実のところかなり明確なものだと筆者は考えている。何故ならそうした方向性は、環境が既に用意した鋳型に合わせるようなものなのではないかと考えるためだ。(この辺、構造主義進化論や今一論とどう違うのかと言われそうだが、「明らかに違う」と言いたい。何故なら、筆者の論は美少女の生きるという“意志”が進化のキーワードになる訳で、進化が受動的に起きているとするこれらの説よりも能動的で、寧ろラブマルクのそれに近いものなのだ。)
(さて、ここまでの理論、読者諸兄は既視観にとらわれはしないだろうか。だがそれは無理もない。これは美少女のある生態、魔法少女をモデルケースにしているのだから。というのも、新規の環境に出てゆくさま、そこで自己の可能性を模索するさまは、魔法の国から現世界に降り立つそれ、地上界で毎回己の可能性を追究して将来の姿に変身するそれに、それぞれ対応するのである。変身の回数が人気に比例することは言うまでもないが、日本において普通それは、13の倍数である。(26回、52回))
理論に戻ろう。よしんば彼女がそこで生きるべき理想の姿を見つけたとして、しかし悲劇的な現実がある。それは、彼女自身はあくまでも元の体以上のものにはなれないということだ。たといその体内には確かにその環境に適応した因子を持つとしても、それを己の身体として生きることはできないのだ。何故なら、彼女はどこまでいってもそれまで生きてきた彼女自身であり、他の少女ではないのだから。だから彼女はその時、おのが代わりに新しく生を謳歌する美少女を生みだそうとする。そう、己の肋骨に醸造した新しき因子を載せ、もう一人の美少女“イブ”を作り出すのだ。
その時の彼女はクリエーターというより、“母”と呼ぶのが相応しいであろう。
(この辺りは、先の魔法少女の例でいえば、最終回あたりの展開を考えるとわかりやすい。それまでの苦労を遥かに凌ぐような重責が彼女、魔法の○ちゃんにのしかかったとき、彼女は持てる力を振り絞って究極の愛の魔法、ビューティーセレイン・ティアラ・シャインスクロール・バッキンボー・メガンテを発動するのだ。これはもう、カタカナ文字が長いほど威力の強まる魔法界にあって、これ以上ないほどの威力なので、見事○ちゃんはパパのリストラを回避することに成功する。だがその反動で、○ちゃんは眠りにつくのだ。己の使命を果たして、静かに...。彼女は永遠に眠ってしまうのだろうか。いやいや。彼女が開拓したファンと視聴率を捨ててしまうはずがない。彼女は復活する。そしてそれこそ、新生する美少女であり、4月からの新番組になるのだ!!)
“子”であるべき美少女“イブ”は、既にその環境に対して“完成している”から、ようやくその沃野に適した羽を広げる。そして今度はそこで勢力を広げることで逆に環境に影響を与えていくようになる...。(本当に完成しているのか。という問いにはこう答えたに。藁葺きで家を作っていた人が火山島に飛ばされたら、そこでは石を原料にして家を作るだろう。そして試行錯誤の末に完成した石造りの家は、多分雨漏りはしないのである。)
(こうして新生したイブは2種類の形態に分けられるといわれる。すなわち、先代の欠点を克服することで、全く新しい美少女として出発する、魔法の○ちゃんRXと、先代の形体そのものを強靭化した、もーっと魔法の○ちゃん、の2種類である。)
さて、筆者の美少女進化論は上記のようなものだ。そこでは進化は一世代の多大な犠牲の上に成り立っており、一世代しかないためにその現象が発見されることはほとんど不可能なのである。(最終回と第一回は、えてして見逃すのである。)だが筆者は、それが稀有の現象であるはずがないと信ずる。彼女の“生きようとする意志”はどの美少女にも、常にあるのだから。それにしても、彼女らの強さはどこからくるのだろう。彼女らが己を蝕んでまで可能性を模索する動機はいったいなんなのだろう。筆者はそれは、彼女らが見る夢なのではないかと思っているのだが...。
だからこそ、新たな沃野に一歩を踏み出すのは、常に女性なのである。
オタクは前向きでなければならない。筆者は常にそう考えているが、そんな筆者が扱う美少女をテーマとした進化論は、やはり前向きな美少女が主役にならねばならなかった。時代に対して前向きであり、更に己を時代とともに変えていく力を持った本田透などのヒロインが光明を見せている時、筆者が彼女に己の進化論の理想を見たとしても無理も無いことだったのだ。
さて、ここでようやく本稿を終えるが、混迷する美少女進化に対して新たな光明を見せるであろう本稿の理論は、巧くすればこれ以降こう呼ばれるであろう。
進化論どっか〜ん!
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