寛容になれない応用問題

藤野竜樹




 ミカンが二つ、リンゴが三つあります。全部でいくつあるでしょうか。
 あるとき本を読んでいたところ、この問題を文中に見つけ、ふと引っかかったことがある。小学校算数の応用問題を引き合いに出した箇所で出てきたので、文脈としては至極正常であり、別に不思議でもなんでもなかったのだが、“五個”という答えが閃いた瞬間、筆者はそこはかとない違和感を覚えた。  というのも、日常生活でミカン二個とリンゴ三個があった場合、その個数を尋ねられたとき、五個あるよ、って答えるような状況が、30年以上生きてきた現在まで無かったことに気づいたからだ。そう言えば確かにそのとおりで、もし目の前にそれがあって、部屋の向こうから何個あるかを聞かれた場合、筆者は多分こう答えるだろう。「ミカン二個とリンゴ三個があるよ。」
 もし算数の時間に筆者のように答えたら×をもらうのだろうか。むしろ現実と乖離したこの問題のほうが間違っているのではないのか。ではこの問題のどこがおかしいのだろうか。とつらつら考えるに、一つは上述のようにこの状況が実生活では起こり難いことがあり、二つ目には、問い方が実生活から見て変だということがある。前者は、このように絶対数の少ない個数の計算を敢えて相手に問うこと自体が不自然なわけで、この点は上記したような部屋の向こうから聞くような状況をこじつけられるかもしれない。が、後者は結構根が深い。何故ならよしんば両者を包含する概念として「果物はいくつ?」と問い直したとしても、やっぱりふつうは「ミカン二個とリンゴ三個あるよ。」もしくは「ミカンとリンゴの二種類あるよ。」と答えるからで、総計“五個”という答えを引き出す質問は意外に難しいからである。
 そんなに難しく考える必要などないではないかと言われるかもしれない。上記質問は小学校前の子供にすらできる初等演算の応用問題ではないか、そんなに目くじら立てることもないだろうと言われるかもしれない。が、それこそおかしいと筆者は言わざるを得ない。本問題は上記してきたように、日常生活に転用できないのだ。“応用”問題だと言っているにもかかわらず使う場が無いのだから、それはつまり“応用”問題ではないのである。“鷹揚”に構えてはいけないのである。
 そこで筆者はここに、日常生活に“応用”できるものとしての算術問題を如何に作り得るかという問題定義をし、例題を作成することでそれに答えてみたいと思うのである。

 良質な物語においては、物語内で起こる全ての状況は計算し尽くされていなければならず、それが困難であればあること評価が高い。“必然足りえない偶然は無い”とは物語作成におけるそうした状況を良くあらわしている言葉であるが、これは今回問題にしている“応用”問題にもいえることである。すなわち、ある問題が最終的に求める解答を引き出すような状況を逆算することが、正しい応用問題を作成する上で不可欠な方法論なのである。よってこれから問題を考えていく際にも、その手順で考えることにする。
 まず、“五個”と言う数字から考えてみよう。ミカンとリンゴを十把一絡げに考慮するような状況はなかなか難しいが、ポイントはミカンとリンゴの個としての性質よりも上部で数を数える必然性を考えることであろう。例えばこんな状況はどうか。
1.お手玉をしたい。
2.どれでも5個○○円として売っている。
3.習字をするときに文鎮がなかった。
上記三例はいずれも今回の条件を満たしているが、“応用”問題としてより相応しいものは2.であろう。小学生がお手玉をするとして、5個をこなす児童は特異であろうし、習字をするときによしんば文鎮が無かったとしても、最大4つあればことは足りからである。
 では、2.の状況はどういうときに起きるのか。
i.道端で商品を広げる香具師。
ii.遺産相続。
iii.スーパーのワゴンセール。
 渥美清が亡くなった今、街中でi.を見かけることも少なくなったが、もしあったとしても彼らの決り文句が「ええぃ、もってけ泥棒!!」であることを考えると、正確な計算を信条とする算数に合わないし、だいいち子供達をドロボウにするわけにもいかない。遺産相続にミカンとリンゴを送る人もいないと思うが、百歩譲っていたとしても、子供の権利が正当と判断される頃には腐っているだろう。となると、iii.が無難であろう。
 ここで終わるなどと考えてはいけない。今時の子供達がワゴンセールの現場に立ち会うような状況を考えなければ、正しい問題設定とは言えない。
イ.お使いを頼まれた。
ロ.実家がスーパーである。
ハ.気が付いたらそこに立っていた。
 本命は当然イ.と思われるが、将来なりたい職業に忍者を選ぶ子供がいなくなってしまった現在、使者(もしくは間者、間諜ともいう。)の仕事に従事する者が減ることが考えられ、むしろ将来を見据えて没とすべきとの長期的視野での提案がなされた。ロ.も整合性が高いが、自分の家の商品に手を出すことなどもってのほかで、将来簀巻きにされて東京湾に捨てられることが懸念されるため、却下された。よって自動的にハ.となるが、情緒不安定な子供が多い現在、状況的には結構ありうることである。
 さて、ハ.であるということになると、ではそれまではどこで何をしていたのかという疑問を進展させることもできるが、本質から離れすぎるためその辺のプロセスは後述する例題にまとめるとして、ここでは追究の手を転じよう。次に考慮しなければならないのは、問題の中に出てくる名詞、ミカンとリンゴについてである。

 算数の初歩として出題されるこの問題では、あたかも当然のことようにミカンとリンゴという名詞が引き合いに出されており、普通は解答者がそれに対して「では何故これら果物なのだろう。」とまでは、普通は踏み込まない。ミカンもリンゴも身近にあるというのが、考えられる理由として最初にあげられるものだろう。子供に問題を与えるときにお膳の上に載っているものを使うという状況を想定するのは自然だからである。が、考えてみると、この問題を提示されている場所はほぼ間違いなく学校などの教育施設の中であり、更に言うならプリントや黒板に書かれていることが殆どであることを考えると、必ずしもミカンやリンゴである必然性は無いことになる。栗でも米粒でも、車や船でも、文章という抽象化された形態で扱う分には、まったく問題が無いにも関わらず、そうした可能性が現実の例題としてあらわれにくいことは不思議なことである。
 ここで留意したいのは、上述した文中の“自然に”という部分である。“何気なく”というニュアンスを含んだこの言葉の中に、本疑問を解く鍵がある。  ここでちょっと一変して、ニュートンの事を引き合いに出そう。例のリンゴが落ちて、というあれのことだ。面白いのは、この話も巷間に流布する過程で結構ぼかしが入っており、落ちたのがホントはリンゴじゃなかったんじゃないかという説すらあるに関わらず、知ってのとおり頑ななまでにリンゴが主役を張っているということで、この点が今回の問題と似たところがあることは興味深い。
 そこで、ニュートンのそばに落ちてきたもの”がリンゴじゃなかったら、どういう効果が得られるだろうと考えてみるのだが、これがなかなか巧くいかない。なぜなら例えばもっと大きなもの、スイカとかを考えてみると、
 “ドカ!“
「うわビックリしたァ!!」(ニュートンがこう言うかどうかはともかく。)
音でビックリするからいけないんだとなれば、カモノハシはどうだろう。
 “ベタ。テクテクテク。”
「...??? なにあれ?」
何故両例がうまくないのかは一目瞭然だろう。このままいったらどちらも次のニュートンは、
「あれ、今何考えてたんだっけ。」
となるのであり、畢竟、彼の世紀の発見は未知の彼方に吹き飛ばされることになるのである。
 何故こんなことが起きるのか。それはニュートンがここでやり遂げなければならないのは“万有引力を発見すること”であり、見た物が何であるかに気を取られてはいけないからである。噂の中にはリンゴでなくても構わないというものがあることは上述しているが、これはこの話が、“落ちてくるもの”をカッコで括っても成り立つ体のエピソードであることに起因しているのだ。だがそこが不思議なところで、では他に何を入れるかと考えてみると、不思議なことに思いつかないということになるのである。
 結局、このエピソードにおけるリンゴの役割というのは、“落ちること”は勿論だが、“(ニュートンの気をそらさない程度に)普通であるもの”という隠された二つ目もあるのであり、後者が本稿においてもキーワードとなってくるのである。
 ミカンとリンゴが初等演算の応用問題の中に引き合いに出される理由、それは結局、ミカンとリンゴが適度にわれわれの周りに配されていて何気ないと思われている物体だからであり、(万有引力を思いつくという思慮にあたる)計算という行為に集中させるに適しているからということになる。
 ミカンとリンゴという名詞が与える“普通性”の持つ特殊性といった奇妙な特徴がこうして明らかになると、静物画の題材としてミカンやリンゴを題材に描くことが多いことも頷ける。というのも、画家は対象を捉えている瞬間はものを観察するという現象に集中しているのだが、次にキャンバスに描こうとする瞬間には描くという行為に集中しなければならず、こうした方針の急激な転換は本来難しいはずなのだが、題材にミカンとリンゴをとることでそれは解決する。それはミカンとリンゴという“ありきたり”さが、集中力を散漫化させないからであり、ここにミカンとリンゴのみずからに“気を逸らさせない”という性質の特徴があるのである。
このように、何かを集中してやりたいようなときには、ミカンやリンゴを身近に置くことが非常に有効であることがわかる。となると、受験勉強をやるときに鉛筆回せる奴が浪人したりしていたが、それはミカンでお手玉をすれば大丈夫だったと思われるのであり、運転中に携帯をかけてガードレールにぶつかってしまった人も、運転中にリンゴの皮むきをすればそんな不幸など起こらなかったと考えられるのである。

 さて、お馴染みの例題の中に含まれる疑問にこだわって、正しい例題のあり方を探求して来た本稿であるが、最後にここまでを総括する意味で、初等算術を現代日本の日常生活から適用する上でもっともらしいと思われる例題というものをまとめてみよう。

 例題
 やまだたろうくんは1年生です。サラリーマンのおとうさんとパートづとめのおかあさんは、おとうさんの女のおともだちのことでりこんするかどうかなやんでいます。今朝も、「たろう。おとうさんと一緒にくらすか?」
「こどもを抱き込まないでよ。たろうはわたしが育てるわ。」
などというやりとりがあり、いっしょにお風呂に入ってくれるおとうさんや、はんじゅくのたまごやきをつくるのがじょうずなおかあさんのどちらも大好きなたろう君はどうしてよいかわからなくなっているのでした。
 考えてばかりいてふと気が付くと、たろうくんはスーパーにいました。去年みんなでたのしくばんごはんを作ったときのことを思い出していたので、ざいりょうを三人で買いにきた道すじを知らず知らずたどってきてしまったようでした。
 目の前では目玉しょうひんであるくだものの安売りセールが行われており、“どれもひとつ八十円”とありました。ミカンやリンゴがライトのひかりでつやつやときれいです。
 「あのときもデザートにリンゴやミカンがあったっけ。」たろう君はおもいだし、ミカンとリンゴがみせるその光が、なにか今の気まずさを何とかしてくれるのじゃないかとおもえました。
 たろう君はミカン二個とリンゴ三個をかかえこむようにしてレジにもっていきながらかんがえました。ええっと、今いくつもっているんだっけ。
 みなさん、たろう君を助けてあげてください。

 五個という答えを出すまでには、物語の信憑性として少なくともこの程度のドラマが必要になるのだが、やさしい解答者であるあなたはこんな場合、どう答えるだろうか。「がんばって。」と応援するのがいいのか。それとも「失敗しても落ち込むな。」と激励するだろうか。
 あれ?

「太郎君、落ち込むな、元気出せ!」



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