普通が恐い

渡辺ヤスヒロ




最近は普通の人がいきなり凶悪な犯罪を犯したりするようになったと言われる。
「あの人は普段は普通の人だったのあんなことをするなんて…」
常套句なこのセリフを何度耳にしたことだろうか。あなたの一見普通に見える隣人も、いやひょっとしたら普通だと思っている自分自身ですらいつ凶悪犯罪を犯すことになるか分からない世の中なのだ、とニュースは締めくくる。
しかし良く考えて見ると分かるのだが、本当の意味で『普通の人』であれば『凶悪な』事件を起こすことなど無いのだ。つまり事件を起こしたのは普通でないからで、周りがそれに気がついてなかったからなのである。

その昔、世間は狭かった。それは情報が行き渡らなかったり交通の便が悪かったり、他の地域に対する意識や知識が低かったりと理由は様々だ。しかしその狭い世間にも普通は存在していた。普通でない人は差別の対象だったり村八分にあったりしてしまったと言うわけだ。そうして不当な差別もあったりした不幸な過去の物語である。

 そして現代。地方と中央との情報的な格差も減り、交通の便も良くなった。不当な差別に対する道徳教育や啓蒙活動により、生まれや外見、行動が少々変わっていても異常呼ばわりされることもなくなった。更に医療技術や犯罪防止技術の進化に、これを逆境として成功させた人の本や苦労話等の知識も広まり対処法も数多く生み出されてきた。
 多少誇張表現ではあるけれど確実な流れだ。人々の意識も高まり良い世の中になったものだ。
 しかし、変化は常に良い面と悪い面がある。暗闇から目をそむけることは出来ないのだ。
 こうした変化が持たらした結果、昔と比べて普通であるという範囲が広がっているのではないだろうか?
つまりこう言うことだ。以前なら普通から外れていた人でも、少しくらい変わっていたからといって特別扱いしないような社会になった。そしてそう言った人自身も普通の人に近づき、特殊性を出さずに生きる努力をする様になった。従って、過去に比べ普通でいる人の集合が加速度的に大きくなっていたのだ。
 一般社会に於いて、自己主張の激し過ぎる人や特別な環境でしか生きられない人が、周りや自身の働きにより普通の人と同じ生活を出来る様になったのだから大きくなっていることも当然である。

 普通であるための技術の向上が普通の人を増やしている。これは、少々精神的に弱かったり、おかしかったりしても心理学的にそれをカバーして日常生活が送れるようにする手段があるということだ。
つまり、差別の無い理想社会は、精神異常を隠して生きることができる世の中にもなっていると言える。
良い見方をすればこう言える、精神的に成熟した人類は以前より巧くその異常性を隠したりごまかしたり飼い馴らしたり他に転化したり昇華したりできるようになった。確かに悪いことではない。

 昔なら精神的な弱者や異常者はその異常性を押さえ切れずに露見させてしまい、疎外されていた。自他共に普通でないと認めていたわけだ。 その場合、少々白い目で見られるわけだが、ここから凶悪な事件に発展することは実際には少ないように思われる。何しろ他人が巻き込まれない様に気を付けるし、自覚していれば自分自身が事件を起こさない様努めることが出来るからだ。集団から離れた場所に住むことになるのもその手段の一つだったのだろう。 それでも我慢しきれないレベルの異常っぷりがあった場合にのみ、結果として事件が発生してしまうことになる。レベルが高いだけに被害も大きくなってしまったりするかも知れないが、事件の発生頻度から考えれば被害は少ないだろう。

 結論として本稿で言えることは、変人はあくまで変人なのだと言うことだ。だからと言って少しでも変な人は将来犯罪を犯す可能性があるとか、危険人物扱いしろというわけではない。自他ともにそれを認めた上で成り立つ社会にするべきなのだ。普通と言う言葉にごまかされ、無理に押さえ付けたりしない様にしようということなのだ。
 永田町にいようが歌舞伎町にいようが、変人は変人なのでその前提を持って接するべきである。
 そうは言っても、やはり異常な趣味を持つ人に近づくのはちょっと遠慮したいところではあるが。







論文リストへ