渡辺ヤスヒロ
以前にロシアの原潜が事故を起こした時にすぐ救助が行われなかった。
先日も不幸な事故により沈没した実習船への救助活動が行われず騒ぎになった。
こう言った事故の場合に行方不明者は死んだことが確認できるまで死者扱いされることはない。もちろん被害者への心情的なものを考慮してのことと思われるが、実際には死んだとした扱ってしまうことになる。捜索活動の打ち切りや沈んだ船体の引き上げ作業の延期などはまさにそれを示している。しかしこの場合にもやはり新聞などのマスコミや警察での扱いは公式には行方不明者であり、被害者の親族は一縷の望みを持っている状態なのである。
潜水艦にぶつけられて深海に沈んでいれば明らかに死んでいるとして扱って良いと思われるが、行方不明だと死んだといえない。そのまま見つからない状態で捜索を打ち切ったとしたら、行方不明者は死んでいるか生きているかの中間的存在になっている。そして後になって船が引き上げられた時、初めて死が決定される。これはどこかで聞いたことのある事象である。そう、観測によって初めて生死が決定される『シュレディンガーの猫』と同じなのだ。行方不明者は不確実性を人に表した言葉だったのである。
ならば行方不明である彼らはまだ死んでいるわけではないと言い切れるのだ。その死を確認するまでは彼らの死を悲しむべきではないだろう。
行方不明者とは会うことも話すことも出来ないが、彼らは決して死んでいるわけではないのだ。むしろ、会ったりしてしまうことによって死を確認する結果になってしまう可能性(確率)の方が圧倒的に高いのかも知れない。
彼らの冥福を祈りながら、観測(捜索)を打ち切りを見守ることにしようではないか。
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