藤野竜樹
「コーヒーのほう、よろしかったですかぁ。」
...。あ...。言いかけて、私は沈黙した。突発性失語症に襲われたわけではない。なんと答えてよいのかわからなかったからだ。
というのも、このたどたどしいしゃべり方をする、それでも紛れもなく日本人(確率92%)とみなして良いと思われるウェイトレスが発したこの言葉が、何を言っているのかわからなかったからだ。
「あの、コーヒーのほう、ですけどぉ。」
怪訝な顔で少女は私を見る。一見の笑顔に隠された彼女の押し付けがましい態度は、明らかに私を馬鹿にしているそれであることを物語っている。常識的な対応も出来ないの、と。
だがちょっと待て、何かが引っかかったのだ。何かが。そう思い、私はもう一度彼女の言葉を反芻することにした。
「コーヒーの“ほう”、よろしかっ“た”ですかぁ。」
そうだ!そうなのだ。私は見下すようにしか人を見られない少女のあつかましさに憤ったからではなく、間の抜けたカラスの様に奇妙に間延びした語尾に調子を狂わされたわけでもなかった。そうではなく、私が一瞬躊躇したのは、まだ頼んでもいないのに「コーヒーの“ほう”」と聞かれたからであり、しかも私がコーヒーを飲むことを承知し、まるでそれを強く確認するかのように「よろしかっ“た”」と言われたからだったのだ。
「あのですね、今の言い方なんですけど...。」
言いかけて、私は不意に口をつぐんでしまった。私の前でふんぞり返っている少女の、あまりにも尊大で自身たっぷりな態度を見ていると、今の言葉に疑問を感じている自分のほうがおかしいのではなかろうかと思えてきたからである。
うむ、そうかもしれない。私は思い直した。うむ、だってそうではないか。ウェイトレスといえば客と直接対峙する、店にとっては最も要となるべき重職である。そんな看板のような仕事を任せるに際し、店側が彼女に教育を施さないはずがないではないか。これほどまでに明らかな文法上の混乱を矯正しない筈がないではないか。それに見たところ少女は童顔とは言え女子大生だろう。今年もしくは来年に就職試験の面接を受けなければならない年齢になっているにもかかわらず、その程度の対応しか出来ないで社会に出られると思っているほど白痴なんだろうかなどと邪推するのはそれこそ失礼ではないか。
私は再び沈黙した。自分の下衆さに嫌気がさしたからである。嗚呼私はいつからこんな考えに浸るいやらしい大人になってしまったんだろう。
うつむく私に愛想をつかしたのか、ついとウェイトレスは立ち去ってしまった。原因が自分にあることなど、思いもしないだろう彼女は、きっと厨房で私の変人振りを仲間に吹聴しているに違いない。
一体、彼女は何故あのような呼びかけを行ったのだろうか。彼女が根本的に日本語の使用法を間違えているなどという通俗的な考えはこの際捨ててしまおう。とすればポイントは、彼女のあの呼びかけは彼女に関係して起きた何かもしくは私に起きた何かのアクションに対して因果関係をもったものとして捉えることであり、そうした視点からの考察が解決には賢明と思われる。
そうであるなら、これにはいくつかのアプローチが考えられる。すなわち、(1)彼女がどうにかして私が頼もうとしている品目の情報を知った。(2)彼女は実際に私がコーヒーと頼んだ言葉を聞いており、私のほうがそれを忘れている。(3)彼女は実際に私がコーヒーと頼んだ言葉を聞いており、しかし私はそれを言っていない。
(1)は私の実存から離れた彼女の中身の問題なので、あくまでも推測の域をでない点が難である。が、これには更に二つの原因が考えられる。すなわち、(1-i)彼女はどこか別の人のオーダーを私が言ったものと間違えた。(1-ii)実際にはほとんど見かけない割にTVなどでよく見かけるいわゆる「いつものやつ」というもの、つまり私が常連なので彼女は私がその日も“いつもの”コーヒーを頼むことを確信していた。
これらは一見もっともらしい。だがこれらの仮説に関しては、私は間違いであると断言できる。何故なら(1-i)は、これはほんのたまたまの間違いであることになるが、これを書いている時点で反芻してみても、いろんな場所で最近同様の呼びかけをされており、彼女らが全員たまたま間違えている確率は、それこそたまたま乗った旅客機にアラブ人が乗っている確率よりも低いだろう。(1-ii)についても同様であり、というのも私はほとんど外食というものをしない性質であるから、ファミレスの常連になどなり得ないのだ。それにそもそも、私はカフェインが苦手なのでコーヒーを自分から頼むことはないのである。
とはいえ、(1)が完全に否定されたわけではない。まだ(1-iii)彼女は私の心を読み取る能力を持っていた。という可能性があるからだ。読心術はなにもエスパーでなくとも可能である。というのも、統計的になになにの特徴を持ち合わせている者がコーヒーを頼むという傾向をはじき出すことは不可能ではないからであり、彼女はシャーロックホームズばりの推理力を働かせて客の先手を打つサービスをしているのかもしれないではないか。でももしそうならば私は言いたい。「間違ってるぞ。」
いやひょっとすると、彼女らは本当にエスパーなのかもしれないぞ。そうなると私がかの言葉を発せられた頻度からして、かなりの数のウェイトレスがそうした特殊技能を有していることになるが、最近のアニメではしきりにファミレスのウェイトレスが突然拳法を使ったり自動小銃を撃ったりするから、あれはひょっとすると単にこの業界の常識を扱っているだけなのではないか。彼女らはこの花形の職に就く為にいろいろ修行するのだろう。履歴書には“有資格:英検1級,普免,目からビーム”なんて書いてあるかも。
(2)はひょっとしたらありうることである。現に私は“花とゆめ”を購入するときは別人格のトニー君が顔を出して身体を支配する(気が付いたら雑誌持って本屋の外にいたりする。レシートも持ってんだよこれが。)から、ファミレスで注文を頼むときにだけ出てくるジャッキー君(仮名)がいるかもしれないのだ。これは恐ろしいことだ。身に覚えのない注文で私のテーブルが埋まるのだ。嗚呼無意識の反逆...。
これはひょっとしたらそうかもしれないと怖くなったから、ある時私はまじかるドミ子のテーマを心中で唱えながらファミレスに入るという実験をしたことがある。ではその結果はというと...、歌えた。二番も...。ちょっと待て、確かに歌えたよな。あの歌って会議中とか上司に怒られてるときとかに頭の中で勝手にリフレインすることもあったもんなぁ。♪ステッキ振ってまじかるドミかる〜あるときキュートな看護婦さん、あるときセクシー・レースクイーン♪(シリーズ後半のエンディングより)...ぶつぶつ。いやそれはともかく、とにかく瞬間健忘症の気がないことはひとまず喜ばしいことだ。
心ひそかに喜ぶ私に、やっぱり彼女は呼びかけたのだった。「コーヒーのほう、よろしかったですかぁ。」うむむ。
さて最後に(3)である。一見不可解と見えるこれはしかし、ともすれば驚くべき発見になるかもしれないので、落ち着いて考察しよう。これは、私が何も頼んでいないにも関わらず、それでも彼女は私が注文をしたという事実に基づいてかの言葉を発したということであり、これはいうなれば、私が体験しなかった過去を、しかし彼女は体験しているということになるのだ。
量子力学では、極微の物質に起こされる奇怪な振る舞いが観察されている。電子を一個一個二つの穴の空いた壁を通過させると、“一個一個”打ち出したにもかかわらず、壁向こうのスクリーンには干渉縞が観測されるのだ。これは電子や光子などの極小の物質が“物質と波”を同時に体現していることになり、これに「観測する時にどちらの状態になるか決定されるのだ。」と苦渋の解説を試みたボーア(と、彼に代表されるコペンハーゲン学派)は、「神はサイコロ遊びをしない。」と、かのアインシュタインに毛嫌いされたのは有名な話だ。が、この後の量子力学で提出され、一つの説として大きな勢力になったのが、エヴァレットの説いた多世界解釈(並行宇宙)説である。これは上記した“物質と波”のどちらかに極微のものが決定されなければならないとき、世界はお互いに干渉できない二つの世界に分かれるという、俄かには信じ難い説である。(ホントはちょっと違うけど。)電子の干渉縞は驚くべきことに、ある一つの穴を通った(ある世界の)電子ともう一つの穴を通った(もうひとつの世界の)電子が、(別の世界に一旦分かれた)自分自身と干渉した結果生じるというのである。
極大の現実世界では数学的に存在確率が打ち消されるためにありえないといわれるこうした“他世界との干渉”が、実は起こっていた!! これが、私が(3)の問題定義に対して提出する仮説である。
すなわち、この仮説によれば(3)の不思議な現象は、“コーヒーの嫌いな私が生きてきた世界”に住んでいた私と、“コーヒーの好きな私が生きてきた世界”に住んでいた彼女が、瞬間干渉した結果発せられたものだったと解せられるのだ。
馬鹿な仮説と一笑に臥すのは少しお待ちいただきたい。こう考えればこそ合点が行く節が、読者諸氏にはないだろうか。というのも我々は時として、自分の生きてきた世界の常識では捉えられない出来事にぶつかったとき、それでもそれを理解する一つの手段として、『まるで違う世界の住人のようだ』、という表現を使うではないか。そもそもかつての我々はある時、当時のおとなたちに自分達と彼らとのジェネレーションギャップをこう表現されたし、また今では自分達と若者たちのそれをこう表現しようとしているが、こうした表現はこう考えてみると納得が行くではないか。あの感嘆は奇しくも比喩ではなく本当だったと考えると、彼女らの異様な行動も理解できるではないか。パールハーバーに出てくる敵軍を異星人だと思っている彼女らの人生は、私が住んでいる日本とは違う日本の歴史を歩んでいたことはほぼ間違いないことなのだ。
ファミレスでの束の間の邂逅。異世界からの来訪者である彼女は、ともすれば儚げな己の存在価値を賢明に主張する。尊大な態度で、体型に不似合いなコスチュームで、そしてあの注文の言葉で。
私の考えがまとまった頃、先のウェイトレスがまたやってきた。水くらい持ってくればいいのに。気の利かない彼女はしかし、ふたたびこう言って、私を驚かせたのだった。
「オチのほう、よろしかったですかぁ。」
......まだ言ってないって。
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