小と中の狭間で

藤野竜樹



 人間の所有する指は、殊更言うまでもなく片腕に五本ずつある。そして、この五本の指に冠せられる名称は、親指、人差し指、中指、薬指ときて、最後に小指となっている。お父さん指、お母さん指、お兄さん、お姉さん、赤ちゃん指という表現もあるが、まぁ前者の呼び方が一般的であるとして良いだろう。
 これら、一般にあまりにも馴染みのある通り名を我々は、特に気を止めることもなく使っており、またそれで十分不都合なく日々の暮らしを過ごして行くのであるが、ここで敢えて、ひとときその言葉に立ち止まってみると、何か引っかかることがあるのに筆者は気付いた。それははじめは茫洋とした違和感だったが、突き詰めていくうちに、この呼び方のうちの一つが、この違和感を創出する物であることが分かってきた。そして様々な熟考を経て本論を書くに至った今となって、それははっきり言葉にすることが出来る。すなわち、
 薬指って、なんで薬指って言うんだ?

 上記疑問を艱難辛苦の上にイドより引き上げ得た筆者と違う皆さんにとっては、上の呈示はいささか唐突な問題提起としか映らないであろうから、これについてはまず筆者の中での疑問の精錬されていく様を知ってもらう必要があるだろう。
 そもそも、本件に対して筆者が最初に違和感を感じたのは、各指の名称を連続して考えていたときであった。“親指”,“人差し指”,“中指”,“薬指”,“小指”と、その語を噛みしめてみると、そこにふと引っかかるモノがある。これについて、筆者も最初は気のせいくらいに思ったのだが、同じ事を考える度にこのモヤモヤが浮かぶにつき、次第に熟考することが増えていった。そうして、給料はもらったばかりだから筆者自身の生活から来る圧迫は無視できるものとすると、どうもこの違和感はロボットの顔に髭が付いているせいとばかりも言えない気がしてきたのだ。
 違和感は他との相違があることが基本だ。であれば、薬指が他の指に対して孤立している分類を探ってみよう。

 “親指”という名称は、手の機能中最重要な役割を担わされている部分であることから、大切なことは親と同じくらいであるという様な意味合いで付けられていると考えられる。(大切=親という概念は、儒教文化が下地の一つになっている日本文化にあっては奇異な考えではない(将来はどうか分からないが...)から、言葉そのものの意味が矛盾を持つわけではなさそうだ。)この様に、指に対する名前の付け方の特徴の一つは、その指の“機能性”に着目して命名されたものであり、“人差し指”と“薬指”は、そうした起源分類に従うものであり、特に矛盾した命名をされているとも思えない。
 これに対してもう一つの命名法は、五本指の真ん中にあるから“中の指”である、という意味を持つ“中指”の様に“形態的”特徴に着目したものであり、当然の如く“小指”がそれに続く。
 つまり、機能:形態=3:2であり、今回問題にしている第四指は3の方に属するから、起源を見る限り、薬指が仲間外れという見方は出来ず、ここには違和感の因を求められそうもない。

 薬指の違和感追究は起源論からは座礁した。しかし、筆者にとってこの考察は無駄ではなかった。何故なら上記考察の中で筆者は、本違和感が、“薬”という言葉そのものから発せられていることに気付いたからである。そして、この観点からアプローチした結果、語そのものの発生学的分類をすればよいことに気付いたのである。
 つまりこういうことだ。“親”,“人指し”,“中”,“薬”,“小”と書いてきたとき、他の名が幼い子供の語彙力の範疇で理解できそうなものであるのに、“薬”は、そうした原始的,根元的な名詞ではなく、発生学的にもっと後期、文明が発達した後のものに属すると考えられるものなのである。
 これはそもそも、身体の各部位に冠せられる名称は、原始時代に既に使う必要に迫られていた筈であるから、そうした自然な命名法から逸脱している“薬”という名詞を冠している“薬指”は不自然ということになる。つまり、“薬”なる名詞からは“原始”が感じられないのだ。
 ぶっちゃけて言えば、“薬指”の妙に文化的な香りのする言葉であることが、他の四指との違いだったのであり、喩えて言えば、長屋暮らしで貧乏をしている下産階級一家の中から、三男坊が突如として東大生になるようなものである。そうした一家が囲むお膳は妙な緊張感を持ってしまうのであり、それと同じニュアンスが、手を広げてまじまじと見た場合の薬指と他者の関係に感ぜられてしまうことが、今回の違和感の本質だったのである。
 親指が酔っぱらって人差し指に迷惑を掛けるようなことをした場合、「やめろよ! 酔ってからむなんて最低だろ!!」とか叫んでしまう様なニュアンスが、この薬指から発せられていたのだ。こうなれば後はもう、「何! 親に口答えするのか。お前誰のお陰で大学行ってると思っていやがる。」となるわけであり、よせばいいのに、「僕は自分でバイトしてるだろ!」「んだと、今まで育ててやった恩を忘れやがって!」という風に雪崩れ込んで行くしかないのだ。
 手の指一家の家庭崩壊の危機は、どうして生じてしまったのだろうか。

 さて、こうして本論のそもそもの問題提起の意味は察して頂けたことと思うから、早速これについて考察していきたい。

 何故第四指に対して“薬”なる名称を冠したのかについては、前述したように、機能的理由からだと思われるのだが、そもそもなんで薬なのかと言うと、軟膏を塗るときの指だからというのがその由来らしい。「俺は人差し指で塗るぞ。」という意見は当然予想されるし実際そういう人の方が多いだろうが、百歩譲って考えてみると第四指を使って塗ることも無いではない。しかし、これは他の指の名称に与えられる意味の確定状況から比べていかにも弱い。ポテトチップスの隣には必ず牛乳が欲しいとか、主役メカのデザインは大河原邦夫にやらせろとかの様に、それは確定と言うよりは少数個人にとっての通念であり、大多数の他人から見れば、そんなのどうだっていいよと言う感想を持たれる程度のものなのである。
 では何故そうまでして薬指の名称にこだわっていたのかという疑問が湧くのだが、それを解決するには少し回り道をする必要がある。すなわち、他の名称で置き換えることが出来ないだろうかというものだ。

 指の命名方法には前述のように“形態的”,“機能的”の二種類が考えられるが、まず形態的特徴による命名を考えてみよう。
 位置を考えるとき、第四指というのは、中指と小指にはさまれた位置、つまり、場所を決定する際に他の指からの相対的位置を考慮しないと確定しない位置にある。非常に微妙な位置なわけで、竹島とか尖閣諸島の様に、断定的命名はし難いことになる。では、ということで長さを考えてみるが、中指ほど長くはなくさりとて小指ほど短くはないという、中途半端な位置づけである。(これは元々手の指が、親指と差し向かいでものをつまむことに適するように進化した結果である。試して御覧になるといいが、各々の指はそれ以上長くても短くても、親指と指の腹を合わせるには都合が悪くなるのである。)

 どうも形態的特徴は地味な結果になってしまった。では機能的特徴はどうであろうか。
 ......................。
 ......................。
 これが  思いつかない。   唸っても、   呻っても   思いつかない。
 他の指はどうなのか。親指は“グー”のサインだし、“ピース”なんて街角のTVカメラに必ず現れる(ホントはヒッピーが始めたセックスアピールの様な意味らしい)。下品なところではファッ○ユーなんてのもある。小指も“カノジョ”の隠喩であるなど、その好悪はともかく、一応単独で存在をアピールする方法がある。にもかかわらず、第四指である薬指には、そうしたものがまるでないのだ。
 そもそもこの指は、手によるいろいろな仕事の中でも、他の指との協調によって為すものばかりで、この指独が自の動きをすることによって特徴を示すものと言えば、筆者の記憶の範疇では“グワシ”くらいしか思いつかない。(サバラだっけ?)
 リコーダーのレの音を出すのに使われるぞと、マイナーな事を仰る向きもあるかもしれない。しかも半音まで吹き分けられるぞと息巻く方もいるかもしれない。確かにそのとおりである。  あるが、...あるが、
              地味である。
“リコーダーのレの音を出す半音指”と名を付けるべきだろうか。それとももっと短く“半音指”と位にすべきなのだろうか。しかしこれは地味だ。何とも地味だ。薬の持つインテリ感と比べて、なんか哀しささえ滲み出てくる。俺の馴染みの店に行こうぜと上司に誘われて、ガード下の屋台に行くようなものだ(波平?)。しかし他に単独といっても、オカリナの“レ”の音とかが思いだされるくらいだし、それで“宗次郎指”ではまた地味地味だ。

 薬をわざわざ第四指の特徴にまであげつらうことには、何らかの意図があるのではと言う疑問は、こうして逆説的に解決される。すなわち、元々第四指は機能的にも形態的にも非常に地味な存在なのであり、他の特徴を冠した名前ではどうしてもその元々の“地味”を引きずってしまうからである。
 機能的にも形態的にも非常に地味な存在である第四指は、“薬指”という名称を使ったときのみ例外的に他の四指に心理的優位を保つことができる表現になるわけで、この名前を付けた人はそんな第四指の不遇に対して同情をしたのかもしれないと推察することが出来るのである。(もっとも、そうした特徴付けでもしないと忘れられてしまうと思ったのかもしれない。そもそも先の発生学見地にしても、名を付けなくても大して困らなかったから付けなかっただけかもしれないのだ。)
 この名称はいわば名誉職のような、実際の職務の内容の地味さを呼び方でフォローしている状態を思わせる。堺屋太一氏以外はいるのかどうかも分からない経済企画庁のようなものと言えば身近だろうか。

 さて、薬指の薬指たる由来を考察してきて、薬指の名が第四指への同情から命名されたかもしれないことが分かった以上、筆者はこれからの生活で、冒頭に呈示した薬指に対する違和感を再び生ずることがあったとしても、それを堪え忍ぶことはやぶさかではない。
 とは言え、指達そのものにとってはどうなのだろうか。第四指一人への同情のために、ギスギスした食卓を囲んで、いつ家族崩壊をするかも分からない不安に悩む生活を強いられるのは気の毒なのではないだろうか。
 だが、これについて筆者は確実に、彼ら“手の一家”が寺内貫太郎一家の様にならないことを断言できる。何故なら、険悪な口げんかの末、腹に据えかねた親指が、お膳ならぬ“手の平を返した”途端、彼らは仲良くなってしまうのである。



論文リストへ