加藤法之
夜がまだ明けやらぬ午前4時。真夏の熱気もこの時間帯は流石にしばし忘れられる。この時間、すっかり都会の鳥として定着したカラスでさえまだ活動しないこの時間の東京を、さる場所に向かって黙々と歩く人々がいた。ある者は手提げ鞄を持ち、ある者は段ボールを縛った簡易台車を牽き、しかしいずれもその目には一種異様な雰囲気を湛えて、同じ方向に彼らは進む。彼らはそれまでどこにいたのか。まるで啓蟄の声を聞いた春の虫達のように、土の中から湧いてきたようにすら思える彼らはこれ以降、夜が白々と明けてゆくにつれてその数を少しずつ増して行き、やがて十万を軽く越えるまでに膨れ上がることになるのだから、それを知る者は誰しもそんな疑問を感じることだろう。
同人誌即売会。手ずから作った小冊子を各々に売り買いするイベントのこと、今ではこれはコミケと言った方がとおりがよいようだが、実は上記人々はそれを目指して各地より集まってきた人々なのだ。
単純に本を売り買いするだけのそのイベントへの参加と、早暁の奇怪な行為との間の相関関係はしかし、一般の人々にはなかなか結び付かないだろう。だがそれは、本イベントの持つ魅力に触れた者にとっては、ごく自然に納得のできる行為である。すなわち、一刻も早くその場に行きたい、参加したいという気持ちに逸るからこその行動であることが察せられるのである。
それにしても、そのイベントの持つ熱気、吸引力には凄まじいものがある。毎年盆と暮れに催される本イベントは、会場内に入ればあまりの人口密集度と人いきれのために、瀕死の人間を何人も出すといわれる。
筆者は近年、このイベントの持つ“周期的開催性”、“異常なまでの熱気”、“人を惹きつけて止まぬ力”などの特徴が、正に昔で言うところの“祭”の持つそれに酷似していることに注目してきた。そして何より、彼らの感じている魅力、彼らをして全国から足を運ばせる実行力を喚起する源泉が、彼らの売買する同人誌の多くの表紙を飾っている“美少女”のためであることに思い至ってからは、自らの専門分野からの研究主体としても注目する必要があると考えるようになったのである。
実際のところそうした、“美少女が行動の原動力となる営為”は、この例のように我々の生活の中で無視できないほど大きな勢力となりつつある。近年そんな状況を踏まえて、そうした営為全般を、“美少女を中心とした文化”として認識し、それらを収集調査する学問体系、“ペド文化人類学”が構築されている。本稿はそこでこの“ペド文化人類学”が一体いかなるものなのかを紹介し、それが見いだしたその実体に迫っていくつもりである。以降、本学問の扱う美少女の研究紹介を通じて本学問を概観し、機能主義や構造主義といった主要な立場からの研究の方法とその意味を考える。そしてまた、上述した同人誌即売会についてもその位置づけ、意義などを考えてゆくことにする。
ある地域に住む人々の生活をつぶさに観察し、記述する。一般に言う文化人類学の意義はそうしたものである。ペド文化人類学も基本的考え方はそれから演繹して、そこで扱うペド文化がいわゆる“美少女文化”、すなわち“美少女を中心として構成される文化行為全般”を扱う学問体系であることを察していただけよう。前節で記述したような美少女の魅力から引き起こされる行為の調査や、美少女が関わる文化行為、また勿論、美少女そのものの生き様をつぶさに観察する分野なども研究対象としている。
では、美少女文化の起源というものがどこにあるのか、まずそこからはじめてみよう。エジプトピラミッドにある壁画の時代からルノワールの裸婦画まで、女性を美しく描いたものはこ〜んなくらい伝統のあるものだが、実は我々の扱う美少女はせいぜいここ20年ほどのものである。それは我々の考えている美少女と上述のものとは少し違う体のものだからであり、そう踏まえるところの美少女の出現はその程度の歴史なのである。ここにこの誕生を初期手塚ワールド描くところの少女から石森、吾妻などのマンガ系列としてあげることも出来ようが、筆者の考えではここで扱うような美少女は、ヤマトの森雪とかガンダムのセイラさんとか(何故さん付け?)、コナンのラナとかあたりにして妥当ではないかと考えている。というのも、いやしくも文化と冠するものにまで本現象が成長するには、美少女を作成する側、つまり“送る側”が、“ねらって”やった場合にそれをペイ出来るだけの商業的畑が開墾し終えた後、つまり第二次ベビーブーム世代の子供達が性的指向性を持ってきた以降と考えられるからである。(手塚の性格からして、ウランちゃんは絶対にねらってたぞと言われると、否定できないところがあるが。)ここに、黎明期のロリコン畑醸造の一大勢力になったのが宮崎駿である事実を記すことを忘れてはなるまい。
そうそう、美少女の基準を作り出す美少女嗜好者側の起源についても触れておくが、これは彼らが美少女に対する時の野性的感情を見れば判るとおり、昔も今も全然変わらず“サル”のままであることがわかる。以上。
上記起源で述べた時期における彼女らの発生以降、カンブリアの生物大発生の如く美少女の種類が増えるのであるが、同じく生物学で喩えるならバージェス頁岩の動植物群の如く今に残らない美少女達も多い。それを詳細に述べるのは来年以降のネタに考えているペド生物学序説あたりに任せようと思っているが、美少女が多くその時代の雰囲気と共にあるのが宿命のため、永続的に美少女と捉えられる存在は非常に希であることは述べておこう。
次に、そうした淘汰をなした原因、つまり、現在残っている美少女は、どのような基準で淘汰されたかという点を述べてみよう。本学ではこの原因を、学会にてそれぞれその原因を主張する人々があたかもグループを為して弁別されるので、“族”という単位で分けている。現段階ではだいたい次に述べる五族程度に分けられている。美少女世界の勢力地図はこの五族の影響で盛衰していたと言ってもよい。
ウル族:目の形、大きさが美少女の重要な要素であるとする種族。近年後藤キャラあたりがますますコンパス円タイプを採用して話題となっているが、眼というのは人間の中で本能的にもっとも注意を促される場所だから、確かに後述する他の族に比べてもっとも直感的な判断を下すところであると言える。ちなみに族称であるウルの名前に一番相応しいのは、現在では七瀬葵キャラだろう。
サラサラ族:髪の毛のロング、ショート、三つ編みかポニーか、などを重要視する種族。天空の城ラピュタのラストで、ヒロインが三つ編みを拳銃ではじき飛ばされるシーンがあるが、あれなどは物語のエピローグで、自由になったヒロインのショートヘアの魅力を見せる効果的な伏線であった。このことからも判るようにこの族では、演出的に美少女に見せる、美少女に奥行きを持たせる小道具として髪の重要性を説いている。「風になびくさまがよいから」「ボニーじゃなきゃ引っ張れないじゃん」といった、絵から喚起されるドラマ的連続性に魅力を感じるのだろう。
スラリ・チビット族:全身の体型を基準とする族。スマートか、丸っこくてぷにぷにかというのが、最近の傾向か。肉体の成熟度が視覚的に判断されることを考えると、これも直感的要素が強い。バストの大きさを基準にする人はこの種族だ。ついでに言えば、「C以上はもう美少女ではない。」と断定できる長谷川裕一は立派だと思う。
状況族:着てる服とか、職業とか、病気がちだとか、一枚絵では判断しにくい状況を重視する族。人間性の善し悪しが判ってみないと美少女かどうかの判断が出来ないという慎重な見方に基づいている。...筈だったのだが、「看護婦さんならいい。」「セーラー服なら。」「巫女さんなら。」という、シニフィアン的な基準を持つ者も同族の中では多くなってきている。これはしかし、ある美少女に熱をあげられる期間が以前に比して短くなったことも遠からぬ原因だろう。商業主義優先による美少女の氾濫が、受け手の目移りの高速化を促しているのである。(これをEye(I) SpeeD Non-stopping すなわちISDNという。)
フクワライ族:美少女は心身共によくなくてはいけないという、欲張りな考え方をする族。ではなくて、一種の奇形、フリークス趣味をいう。顔や身体の一部分や性格がとびぬけていて、その好み以外の人から見るとパースの狂った福笑いのように見えるため、こう呼んでいる。そうま竜也(ゲーム天国や、てやんでえなど)のキャラの崩し型や、菅野博之(レッツ&ゴーなど)の巨大耳などは典型的だ。
さて、多くの場合上記五族によって美少女評価はなされ、その盛衰が決められると考えてもらいたい。とはいえ、新番組のキャラクターの評価は最初は直感的になされるが、やがて総合的評価の方向に流れるのは至極当然だから、この族も絶対的なものではないことに注意したい。また、「あのキャラの足がいい」とか、「ヒロインがやられるときの悲鳴がいい」とか言う輩もいるが、このように些末な趣味に走るようになると学会では、“フェチ”と呼ばれて迫害される。
(フクワライについてちょっと贅言するが、二次元美少女は多かれ少なかれフリークスであることは頭に置いてもらいたい。性格が飛び抜けて一面的だったり、アンバランスなまでに眼が大きかったりするのは現実存在としてはやはりちょと“おかしい”と思う感覚は持っていた方がいい。(そもそも女の子の背が“小さい”というのも、現代の現実ではあり得ないファンタジーなのだ。)そう言えば、以前一回だけエヴァのアスカを彷彿とさせるスタイルを持つ女の子を見たことがあるが、過度のダイエットが痛々しいほどだった。一方的美意識の押しつけは非現実の対象だけにしておくのが望ましいのである。)
美少女の判定は前節のような諸定義に基づいてなされるが、評価定着後の美少女嗜好者の美少女に対する接し方にもまた、複数のパターンがある。というか、病状の進行度によって区別している。自分で設定した罠にわざわざはまりこむようなものなのだが、この辺は彼らの屈折した純情性を示していると言えよう。
自立安定型:理性がリビドーを上回っている段階で、美少女に対する“恋心”、“憧れ”などの名詞があてられる。作品中に同キャラクターが出てくると気になるとか、雑誌で写真が載っていたりすると妙に嬉しくなったりする、その辺の状態である。後述するタイプに比すると、美少女に対する入れ込み度は本来この程度である方が望ましく、且つ健全だと思われる。
自我迷妄型:対象の美少女を見たときに自制心が“ふっ”となくなる瞬間がある、上記症状が少し進行している状態をいう。その少女が表紙になっている雑誌を見て、気がつくとレジの前に立っていてはっとしたことがある人は、既にこの段階に達している。(ちなみにこれを治癒するのは、レジでその商品を買っているさまを、後ろで「りぼん」を抱えている無垢な小学生がどう判断するかを考えるのがもっとも効果的だ。自省には弁証法的な考え方を身に着けるのが一番よいようである(農水省調べ)。もっとも、これ以降の型にはもう、何を言っても通じなくなるのだが。)
思考占拠型:心を奪われる。乗っ取られてる。憑かれる。といった言葉が似合ってくる段階。一日のうち思考が働いている間のほぼ10%を越える時間、美少女のことを考えているとこの段階とみなされる。自分と対象の行動のシムレーションを考えだしたらこれは危険だ。ときメモをはじめとする近年の恋愛シムレーションはこれを助長するようなシステムを持ち合わせているから、この段階に達する人間はかなり多くなってきた。この段階の治療は至難だが、例えば当のゲームにて、該当の少女が自分以外のおよそ10万人単位の人間に、「あなたのこと好きよ」と言っていることに思い至ると、飲み屋のおねぇちゃんのそれと同じであることが察せられるのである。(これは経験者から聞いたから間違いない。筆者のではない。)もっとも、「あの子がそんなことするわけがない!」なんて叫び出すようになったら、次の項へどうぞ。
感応服従型:こりゃもう駄目だ。という段階。あらゆるグッズを買いまくり、部屋にポスターを貼る(しかもオリジナルは取ってある)わ、TVの上に人形を置くわで、これを崇め祀るさまは宗教と言ってもよい。アニミズム、万物信仰が原始宗教形態であることを考えると、彼らの入れ込みが宗教の段階に達していると捉えるのはかなり的確である。前述の人形などはもはや神棚の域とみなせるし、毎夜毎夜拝んでいること、跪いちゃったりしていることなどは正に美少女狂...教である。マルチの顔が背に入ったジャンパーを着て街中を歩くなっておい、のさまは、南方宗教のシャーマンが神のメタファーである入れ墨を全身にしていることに譬えられよう。それが神との合一を図る手段である以上、美少女嗜好者のそれもお気に入りのキャラクターとの心理的一体感のなせる技といえるのだ。現在の新興宗教が多く御利益の現世救済的であること、即物的であることなどを考え合わせると、両者の更なる一致を見いだせる(ついでに金のかかることも)。
あ、そうそう、この段階の治療法ね、もう救われてるんだからいいんじゃない。
ペド文化人類学で扱う対象は美少女とそれを取り巻く人々であり、これまでに美少女の側では彼女らの評価定義、取り巻き達については彼らの美少女の鑑賞の方法(罹患の程度とも言う)について紹介した。そこで概観したような事例は、勿論多くの諸例から一般化されたものだ。故にそれは総括的な見地として見いだされたいわば抽象的なものだったわけだが、本来本分野で扱っているのは、研究対象(美少女にせよ美少女嗜好者にせよ)のナマの文化形態であり、そこに住む人々の暮らし、行動を通じて見えてくる一つ一つの現実がその基底を為すことは言うまでもない。それは前節までのような総括的研究ではなく、その文化の中に実際に入り込むことで研究するフィールドワーク(現地調査)という研究姿勢を取るのだが、本来それがペド文化人類学の研究活動の本質といえる。そこで以下はそうしたフィールドワークの成果のうち、機能主義的なアプローチでの研究成果の紹介と、同じ対象でも見方を変えている構造主義アプローチについて見ていくことにする。
のだが、その前に、クラッなる概念について説明する。そもそも美少女文化は“クラッ”交換文化とも呼ばれるのだが、これは、美少女と美少女嗜好者との間のコミュニケーションの際に美少女嗜好者の側で湧き起こる感情の一つである“クラッ”が、彼らの行動の源泉になるという点で、美少女文化体系ではそれが単なる感情という枠を越えて、同文化の特徴の中核を為すものとして位置づけられているからである。フィールドワークでは当然さまざまな箇所でこの概念が頻出するのであり、その成果を正しく認識するためにもクラッ概念の理解は不可欠だからである。
クラッは、美少女を美少女と捉える側に引き起こされる感情の一つで、いろいろな場面で呈示される。映像によるものや一枚絵によるもの。果てはフィギュアやCDまで、様々なメディアから放射されるが、見るものの心理の深いところに直截“萌える”なる感情を引き出す原初的なものである。(放射されたメディアを購入した後で自分の財布の中を見て引き起こされる類のクラッとは別物であることに注意したい。)それは美少女の姿態や衣服、シチュエーションなど様々な演劇的な行為、パフォーマンスから放射されているのであり、そこから美しさ、かわいらしさ、妖艶さといった感情が受け手に渡されることで呼び起こされるものである。
一世を風靡した魔法少女が大人に変身するときに魅せる変身用舞踏を、クラッの一例として示そう。魔法少女はステッキなどの小道具を振り回しながら呪文を唱えると、複雑なライティングとカメラワークの中で大人の姿に変身する。ここで行われる舞踏は美少女本人はその精神が本来持つ天真爛漫さや、成長することへの心からの喜びを他人に呈示する身体表現のつもりで行動しており、番組の意図としても、本来のターゲットである少女層へのアピールはそうした文脈をもっている。が、美少女嗜好者達はそこにもう一つ別の文脈、クラッを読み取る。当該の少女が成長したときにはそれなりの衣装になるから、子供の頃の衣装をその成長過程で取り去らねばならないのだが、その素肌が見えているほんの一瞬がクラッ放射が430シーベルトに達するのだ。(これは自然界から人間が一年間にうけるクラッ放射の50倍にあたる。)
そうした露出は実際は、ほとんどの魔法少女では巧みに隠蔽されるため、水着シーンとかの方が露出度が余程多いくらいなのだが、これについてマニアスキーは、「水着じゃ駄目なんだ!」と力説する。「見えそうで見えない秘匿こそ、クラッを多く放射する技術なのだ。」と。実際、変身シーンと同程度の露出度を示す水着では、クラッ放射は40シーベルトだったことを考えると、クラッがどういう状況において高い数値を示すのかを、氏がよく認識していたことが判る。“羞恥心は衣服で覆い隠された場所に芽生える”とは文化人類学での定説であり、また“秘匿することでかえって増幅するエロス”というのは上野女史も言うところなので、まぁそういうことなのだろう。TV局の自主規制が正の方向に働いた希な例であるといえよう。
また、クラッは対象に出会ったときがもっとも大きく、その後はどんなに努力してもそのクラッを越えることが出来ないことも知られている。美少女の出るシーンを全て集めても、関連する書籍をすべて買い揃えても満たされないわけで、罪なことではある。(もっとも、世に蔓延する同人誌の多くはそれが創作意欲になっているのだろうが。)
さて、クラッが何であるかを何となく掴んでいただいたところで、機能主義的アプローチの太祖、マニアスキーに登場してもらおう。そもそもクラッ交換文化という概念も、彼がその著書『盆と暮れの遠方旅行者』にて指摘されていたもので、『美少女は、それに魅了された人々にクラッという刺激を与え、それを求めるために多くの人々が遠い苦難の道のりの果てにコミュニケートする』(p23)という考え方から唱えられだしたものなのである。
本学における後世の研究者達に多大な影響を与えた氏の『盆と暮れの遠方旅行者』という本は、八月と十二月に行われる同人誌即売会に参加しようとする美少女嗜好者達がどのような手段を用いるのかを、自身のフィールドワークにより調査した結果をまとめた本である。同書からその大まかな内容と、彼が見いだした意味を見てみよう。
第一章「行動」では、美少女嗜好者達の、イベントを中心とした行動の流れを追っている。出店参加者の、GW辺りでまだ悶々となにもしない者が、八月の声を聞いてからやっと印刷所に駆け込み、社長との丁々発止のやりとりで印刷代を値切っていく様は言うに及ばず、一般参加者の一人分でもよい場所を確保するために厳重パトロールの警備をかいくぐる手練手管の紹介、果ては、夜中に海底からの潜入を図る猛者達とそれを阻まんとする海自との確執などの前哨戦の内容も凄いが、会場内にて人いきれの二酸化炭素が起こす温室効果による熱気で倒れた人が、救護所からゾンビの如く立ち上がるさま、同じく暑気あたりで正気を失った男が、たまたま三島由紀夫のコスプレをしていたために慌てて取り押さえられる事件など、フィールドワークによる実体験調査を元にした報告は正に迫真の筆致である。冒頭に述べた早朝の異様な集団も彼の報告するところであり、ペド文化人類学の学問としての方法論を確立した創始者の名に恥じぬ内容を誇っている。煩悩が顔に出た状態でブラウン運動する参加者の描写や、パースの狂った表面積の大きいピカチュウの着ぐるみでさまよい歩く良く判らない存在のくだりなど、「まるで会場にいるかの様にめまいが起こった。」、「汗くさい連中のことを思いだしてしまった。」などという読後の感想が寄せられたほどだ。
第二章「動機」はいよいよ、彼らのそれほどの熱意の根源が美少女にあることを明らかにする。彼らには、自身が思いを寄せる美少女を、あらゆる商業メディアで食い尽くした後、まだ止まぬバルンガの如き欲望があるが、それを癒すべく辿り着いたのが同人活動であることをこの章で明らかにしている。消費社会でなければ成り立ち得ない肥大化した煩悩はオタクの性とでもいうべきものだが、彼女の、千回は見たあの笑顔以外の表情を見いだしたいという、ただそれだけのために彼らが海越え山越えしてくることを思えば、筆者はこの健気な行動に一瞬だけ胸を熱くする。
以上のような鋭い観察を行ったマニアスキーだが、これほど詳細な検討をするために、当然彼も同人誌の収集を趣味とし、自らも多くの同人誌を出し、美少女作品の評論集を出すという活発な活動をしていた様である(前述の東京湾攻防戦は、あまりの迫真ぶりに“本人ノンフィクション説”まで出たほどである。)が、その文化の中に深く入りこまねばその文化の本質が見えないと考えるのが本学の基本姿勢なのだから、氏のそうした研究姿勢は当然の結果と言わねばなるまい。
さて、マニアスキーの、個々の行動から全体の行動様式を割り出していく機能主義的な研究を見てきたわけだが、扱う題材が同じでも、個々の行動を引き起こす本質を探るという、機能主義の対極にある視点からの対象へのアプローチを提唱したのがレディ・ストロースであり、これから紹介する構造主義なる手法である。
構造主義は、クラッを中心とした美少女文化を扱うという点ではマニアスキーと同様だが、その行動の“本質を見る”という点が異なっている。例えば売場での一場面、自分のスペースの周囲の人々と同人誌の交換を例に取ると、機能主義では、隣人との親密度を高めるためと見るのだが、構造主義ではそこに、その場において他に掛けるかもしれない迷惑と、あわよくば自分の思想を他に浸食しようという意図に於いてなされていることを読み解くのである。構造主義のいう“本質を見る”が暗に“裏を読む”と陰口を叩かれている意味が良く判るというものだ。(もっと分かりやすくいうと、構造主義はデジ子の性格に似ているのだ。)
レディ・ストロースの『淫族の基本構造』なる著作では、クラッ交換社会を換骨奪胎し、美少女系集団という概念を見いだしている。すなわちクラッ交換社会を、美少女を中心として周囲に渦巻き状に美少女嗜好者を配した蜘蛛の巣構造を呈示し、『中心に待ち構える美少女に捕らえられていま正に喰われようとする虫の如き美少女嗜好者』(p120)として、美少女嗜好者をそうした行動に駆り立てる美少女と彼らの位置づけを明らかにしている。美少女にからめ取られているのは正に蜘蛛の糸の表現が相応しいが、世間に放射する吸引力としての役割が中心の美少女から発する縦糸で、美少女嗜好者達自身の奇妙な自尊と他人否定から来る牽制のオーラが横糸とその粘りだと深読みすると、ちょっと恐ろしいものがある。横糸の関係が常に中心から渦巻き状に発していることも興味深い。それは彼らの繋がりが中心の美少女を介して為されるものであることを示しており、それは異なる個々人の共感と言うより類似個体の共鳴に近いものであると判るからである。(すなわち縦糸より横糸の絆の方が弱いのである。)これは仲間としての集合体が“思想集団”という、自己を中心とした観念に基盤を置き、互いの思想に共鳴する同士が団結した従来の型から、いわば“嗜好集団”とでもいえる嗜好対象を中心とした者達が寄り集まった型に変質してきていることを示している。
構造主義はまた、同人サークル同士の確執にもメスを入れ、『興奮を目的としたスケベもの同人誌を出す人々と、細々とでも理性的な著作を続ける文学系の同人誌を出す人々とは相容れないもの、お互いに軽蔑しあっているようなところがあるが、両者とも同人活動行為によって他者への自己実現を図ろうとしているという動機、つまり深層構造では共通したものを持っており、“他者への自己承認欲求”によって行動を起こしているという本音のホンネは同じものだ。』(p250)と述べ、その弁証法的な見解はビッグサイト中で厭な顔をされた。
ここまでで、美少女文化人類学の研究のいくつかを紹介してきた。これらの研究は、“非常に”熱心な研究者達のたゆまぬ努力により成し遂げられたものであり、その成果について云々する気は毛頭ないのだが、本稿を締めくくるにあたり忘れずに踏まえておかねばならないのは、本学の研究対象たる美少女自身にとって、本研究がどう影響を与えているかということだ。
実際、研究者達の彼女たちへの迫り方、情熱には鬼気迫るものがあり、外での行動のチェックは言うに及ばず、衣服や食物嗜好、癖の観察や寝姿拝見など、一連の研究方法が彼女らの私生活に与える影響は計り知れなくなっている。(富野作品におけるヒロインは、シリーズ中のどこかで浴室にカメラが据えられることを覚悟しなければならないという。)こうした現状に堪えかねてノイローゼになってしまうヒロインもいる(エヴァのアスカとか)わけで、こうなってくるとそれは対象が三次元の実体か二次元の虚体かの違いこそあれ、もはやストーカーの域に達していることを認めないわけにはいかない。
“調査される側の論理”というこの古くて深い問題は、美少女達のすべてを知りたいという研究者達の行きすぎた(衝動的)行動が起こしてしまう難問であり、本学における根深い問題となっている。これからの研究者達もそうした現実を常に弁え、倫理と自制をもって研究する姿勢を持ち続けることを忘れてはならない。
それでも、本節の注意を忘れてか無視してか、血気に逸る研究者が、あってはならないことだが美少女達の風呂場を除くような人道にもとる所作に出た場合、筆者はその者が必ずしっぺ返しにあうことを最後に指摘しておく。
その者は間違いなく、由美かおるに水をかけられるのである。
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