年賀状から見る私の社会的位置付け

杉山晃一



はじめに
 私はダイレクトメールを除き、手紙とか年賀状の類は捨てずに保管している。こと年賀状に至っては、もう30年分以上もたまっていて、あまりの量に愕然としてしまった。
 近年わが国では、年賀状にあまり重きを置かない人が増えているようである。日本古来の文化である年賀状という風習が衰退しつつあるのは、非常に嘆かわしい限りである。しかし、たかが年賀状と言って馬鹿にしてはいけない。横10cm×縦14cmの紙の上には、差出人の住所や名前はもとより、アイデアを駆使した絵やデザイン、コメント等、ものによってはその人の性格までも垣間見せてくれる、多種多様な情報※1がちりばめられているのである。
 本論文では、年賀状から得られる知見を元に、私を取巻く人間模様だけでなく私自身が社会的にどのような位置付けにあるのかを明らかにしていく。

サンプル
 調査対象サンプルは 過去11年分(1990年〜2000年)の年賀状(707枚)とした。

解析内容
 解析内容は以下の通りである。
(1)回収率
(2)差出人の内訳
(3)男女別比較
(4)手書き年賀状と印刷年賀状
(5)アーティスティックな年賀状
(6)差出人の社会的位置付けの推移
(7)差出人の住所による分類
(8)差出人住所の変動による移動先の調査
それぞれの結果について、以下に詳細を述べていく。

(1)回収率


 図1:回収率

送信した枚数と、実際に受取った枚数の比率。

 回収率=受取った枚数/送信枚数×100[%]

但し、もらった人には必ず年賀状を出すようにしているので、

 {送信した人}∋{返信のあった人}

なる関係が成立している。
1990年〜1991年は喪中だったので、実際には正月明けに寒中見舞を出している。このため回収率が他と比べて低い傾向にある。私の周りでは、正月に年賀状が届いてからやっと返事を書く人が多いためその影響が出たものと考えられる。したがってこの2年分は差引いて考えることにすると、回収率は70%程度であることが分かる。ところで、
 回収率≒私自身の周りからの評価
と判断することもできるので。大体そんな風に思われているんだろう。

(2)差出人の内訳


図2:差出人の内訳

先生   :幼稚園,小学校,高校,大学,大学院でお世話になった方。
先輩   :大学院時代にお世話になった方。
後輩   :高校時代、大学院時代にお世話した人。
友人   :同級生、クラスメート、趣味関係の人。
家族親類 :親、姉、親戚
仕事関連 :会社で知り合った方。
DirectMail :CD屋,就職案内,谷山浩子FC,中華料理屋,自動車屋等

1990年〜1991年は大学院にいたので、それ以降、後輩からの年賀状が来るようになった。1992年に勤めはじめたので、それ以降、仕事関連の年賀状も来るようになった。1994年に一旦退職してまた大学院に行ったので、先輩と後輩の年賀状が更に増えた。1997年に別の会社に入社したので、更に仕事関連の年賀状が増えた。
友人からの年賀状に関しては、実際には入替わりがあるものの、毎年ほぼ一定量に保たれている。これは、私が人付合いに注ぐエネルギ量が一定であり、趣味とか価値観等の相対関係も一定に保たれていると考えられなくもない。

(3)男女別比較


図3:男女別比較

 女性からの場合、数量的に殆んど変動なしである。
これらはほとんど先生とか親戚とか会社関連の年賀状であり、言ってみれば社交辞令的なものしかないわけである。
私が如何に寂しい人生を送っているかがよく分かる。

(4)手書き年賀状と印刷年賀状


図4:手書き年賀状と印刷年賀状

 印刷年賀状は、書面もしくは宛名にワープロなりPCを使用した形跡があるもの、印刷屋・写真屋に出したようなものも含む。
1997年位までは手書きによるものが多かったが、それ以降は印刷の比率が急速に増し、状況が完全に逆転していることが分かる。これは情報化社会の発展に伴い、一般家庭にワープロやPCが普及したことを顕著にあらわしている。

(5)アーティスティックな年賀状


図5:アーティスティックな年賀状

 これは、私が独断と偏見で判断したアーティスティックな年賀状の枚数をカウントした結果である。大きく分けると以下の2種類である

1.昔ながらの伝統的な作品→減少傾向にある

  • 貼絵とか版画とか毛筆によるもの
  • 技巧的な手書きイラスト
  • アイデアを駆使した作品(字で埋め尽くす。渦巻き状に字を書く。文字の並びで何かのデザインにする。4コマ漫画になっている等)
  • よほど気に入ったのか毎年同じスタンプを押してくる。
2.情報機器等を使用した作品→増加傾向にある
  • PCで描かれた凝ったデザイン
  • デジカメ・スキャナ等による写真※2
  • 高速度撮影によるプロ級の写真
 上の結果は、(4)の結果とも関連するが、情報機器の普及により、手軽に技巧的な年賀状が印刷できるようになったことも、大いに影響していると考えられる。

(6)差出人の社会的位置付けの推移


図6:差出人の社会的位置付けの推移

結婚しました  …………………………1994年以降
お子様(うちの子です)…………………1992年以前〜1997年以降
ペット(うちのハムスターです)…………1997年以降
家を建てました(私の建てた家です) …2000年以降

 お子様写真付き年賀状に関しては、以下の2つの山がある。

  • 1992年以前:某先生からのもの(嬉しかったんだろうなあ)
  • 1997年以降:友人からのもの、会社関連のもの1992年までのお子様写真付き年賀状は、1985年から8年間連続だったが、その後、ぱったりなくなってしまい、非常に気がかりになっている。愛情が希薄化したのか、いい加減恥ずかしくなってやめたのか……。
 このことから、1997年以降のものも10年先には殆ど皆無になっているかもしれない。案外、孫の写真になってたりして……。
 上の結果から、おおまかではあるが、一般的にどの位の年齢で結婚し、子供ができて、家のローンを抱えるようになったかを垣間見ることができる。ちなみに私は1967年生まれであるが、グラフに示した要素のうち何一つ満たしていないことになる。実家に猫なら4匹いるけどね。

(7)差出人の住所による分類


図7a:差出人の住所による分類(県別)

 11年間でどの地域から年賀状が届いたかを集計したもの。
ダントツに愛知県が多いことが分かる。まあ愛知出身だからね。わし。


図7b:差出人の住所による分類(県別&年度別)

 図7aを更に年度別に分類したもの
1998年以降、仕事の関係から奈良の知合いが増えている。
北海道からは1993年の1通のみ。その人とはそれっきり音信不通。
大韓民国からは1995年の1通のみ。その人ともそれっきり。

(8)差出人住所の変化による移動先の調査

 差出人の住所を見ると、11年でかなり移動していることが分かった。
そこで、実際にどのような経路を辿っているのかを追跡調査してみた。但し、同じ県内における移動は細かくなるので除外した。
 ベクトルの向きとしては、A→BとかA←BとかA←→B等、様々な場合が存在した。これらを図にするとややこしいので、矢印無しとした。
 また、出発点もしくは移動先としては、東京都,神奈川県,愛知県,石川県,大阪府がよく出てくることが分かったので、各地域を基準とした図(図8a〜図8e)と、これらの合成図(図8f)を示すことにする。


図8a:東京都を基準として見た場合の移動


図8b:神奈川県を基準として見た場合の移動


図8c:石川県を基準として見た場合の移動


図8d:愛知県を基準として見た場合の移動


図8e:大阪府を基準として見た場合の移動


図8f:図8a〜図8eを合成

 図8fより、私の知合いは国内のほぼ全域に渡って移動していたことが明らかになった。
この図には示さなかったが、同じ地域にずっと留まっている人もかなりの割合で存在する。あちこち移動するよりも、住みなれた場所に定住できるに越したことはない。引越すのは面倒だし。

考察
(1)→私自身の周りからの評価は70%程度である。
(2)→私の周辺には類友(るいとも)がコンスタントに存在している。
(3)→私は女性とのつき合いが殆んどない寂しい生活を送っている。
(4)→情報化が進んだ。印刷のセミプロが増えた。
(5)→年賀状のレベルが向上しつつある。最後は独創性がものを言う?
(6)→私の友人・知人は結婚したり家を建てたりと、社会的に着実に成長している。
(7)→私はやっぱり愛知県民なのかなと。
(8)→私の友人・知人は国内のほぼ全域に行き渡っている。

結論
 今回、年賀状から多くの知見を得ることができた。
 年賀状は、やり取りをしている人の人柄や性格、生活形態、居住地はもちろん子供に対する思い入れ(これはもっと長期に渡った調査が必要であるが)、趣味、趣向、独創性等、多様な情報を含有しているのである。
 しかし、これらの情報を整理していくにしたがって、私自信の社会的不安定な位置付けにあることが明確になり、複雑な心境になった。この国は独り身に対し極めてクールな見方をする。出世が遅れる、どこへ行くにも人目をはばからねばならない、変人扱いされる、見ず知らずの奴に偉そうな口をたたかれる等、何もいいことはない。
 が、アーティストには孤独が似合うのである。私はこれまで、血と硝煙の匂いにまみれながら(嘘)、その一瞬一瞬にまばゆいほど真っ赤に燃え上がる充実感を味わってきた(これは本当)。それは他人からどうこう言われるものではないし、そんな権利は誰にもないのである。
 打ち込むことが他の誰よりもたくさんあって、それに費やすエネルギーとか、時間とかが他の人と異なっているのだから、一般的でないのはしょうがない。私にとって、好奇心や探究心に対するハングリーさを無くしたら何も残らない。 残るのは真っ白な灰だけである。
だから私はこれからもこうやって生きていくのだと思う。




注釈

※1:中には出したことを忘れて同じ年賀状を2枚も送ってよこした人とか、私の名前を間違えている人、私が何者なのか完璧に勘違いしている人、自分の住所も名前も書き忘れた人がいたが、これもまた差出人の個性が表れており、一興ではある。
※2:但し(6)との区別のため、お子様の写真は除外した。



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