仮想作家の勧め

渡辺ヤスヒロ



 長編やシリーズ物を持つ作家は作家本人が死んでしまうと未完のままになることがある。
 手塚治虫、石森章太郎など彼らの長編が終わる事は永遠にないのだ。
 しかしそうはならないこともある。ドラえもんなどは原作者である藤子F富士雄が死んだ後も連載は続いているのだ。
 この様にアシスタントやプロダクションなどで続編が作れてその品質も良いならば死んでいても大丈夫であると言える。
 そうするとその作家の存在意義が薄れてくることになる。
ドイツのSF小説『ペリーローダン』シリーズは、数人の作家が順に続きを書きながら続けると言う形式を基本に、新たな作家が加わることもあって数十年続いている。翻訳が追い付かないどころか一生懸けても最後まで読む事の出来ない化け物シリーズである。
 現在の所、多くのマンガは漫画家一人で全て描かれているわけではない。アシスタントが絵を書いたりバイトが調べ物をしたり担当編集と展開を考えたり読者アンケートで絞られたり締め切りに追われたりするわけだ。いわば共同で作られた作品なのだ。もちろん一人で考え一人で全てを描ききる漫画家もいるだろう。しかしそう言う作品は実験作、タブローとして理解されず世間に出回ることも少ない。

 前出のドラえもんには、主人公のび太の欲望を満足させるための道具が数多く出てくる。その中にはマンガを入れるとその漫画家の作風を覚え、希望の新作を描いてくれると言う機械も存在する。夢のような機械だが現実に照らし合わせてみるとそれほど不可能ではない。
昔、ある画家の絵の特徴を解析して画風をコンピュータのデータ化すると言う実験が行なわれたことがある。もちろんその画風データを使えば新たな作品を創造することも可能だ。
「人間は常に新しい刺激の影響を受けて変わっている。コンピュータは過去の作風をコピーできてもその画家の新作は別のものになる。」
その画家はこう言った。
 しかし本当の意味で期待されているのは、同じ作風の新作だったりするからそれでかまわないのだ。あえて言えば新作でなくとも構わない。その作風の別の作品でさえあれば良いのだ。作者が後に余分な知識や技術を身に着けてしまったとき、作風は変わってしまっているのだ。
「なんかメジャーになったらハングリーさとか無くなってイマイチだよね。」等と言われてしまうのだ。(ちょっと違う気もするが)

 本当の意味で作家というものが必要なのかどうかを考えると、結論として出るのは不要だと言うことだ。作家が無くても作品があれば良くて、しかもその品質が高く保証されれば誰の文句もないだろう。高い品質の作品を作り続けることを(一人の)人間としての作家に求めるのは酷である。確かに天才と呼ばれる人々はそれらをこなして来たと言えなくはないが、やはり人間である限り死は免れえない。では後継者を育てると言う手段はどうか?自分に似た才能を持つ人を育て、2代目3代目としていく方法だ。もう少し広げて工房の形にしたり日本的に〜流などとしてみたりする手もある。事実そう言った方法で保存されている技術技法も少なくないし、同じ特徴の新作も作られ続けている。
 しかし伝統芸能はいつの時代も後継者探しに苦労することになる。
そこで作風のデータ化が重要なのだ。
 後はのび太と同じく、その作家データに希望をパラメータとして入力すれば新作が出来上がると言うわけである。もし違うと感じるところがあれば作り直すことも可能だ。文句一つ言わずボツを受け入れ、更に希望に沿った作品の作成に取りかかってくれる。

 もちろん、『有名作家データをうまく作成する能力』もデータ化すれば良いだけのことだ。

 オリジナリティと言う点であくまで作家本人の方が良いと言う人もいるかも知れないが、それですら「今までにない部分からの引用」と言う技法の一つであると言える。



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