藤野竜樹
中学生が五千万円を恐喝されていた事件は、本年前半に起きた事件の中では、九年間少女監禁事件(これを見て、筆者はリアル版プリンセスメーカーだと思った。オタクとキチガイは紙一重であることを自覚した。)と並び、世間に衝撃を与えた二大巨頭として記憶に新しいところだ。両事件が我々に与えたインパクトは、五千万円なり九年なり、その数字の大きさに原因があることに異を差し挟む人はいないだろう。これ以降我々は、ドラム缶一杯の青酸カリを飲んで自殺するとか、沖の鳥島を沈めたとかくらいの事件でないと驚かなくなるだろう。(第一稿では“成層圏から飛び降り自殺する”とか書いていたのだが、フィリピンだったかでほんとに飛行機から飛び降りたバカがいて、ボツにした。)
さて、この両件ではいずれも警察が事態を悪化させたことの一因を担っていたこともあり、事後捜査は流石に厳しくやられたようで、後者はともかく前者については恐喝に関係していた人間を片っ端から逮捕立件に追い込んでいた。被害者に直接関わって強請っていた者は当然として、それを更に強請っていた者とかその更に連れとか、どこかの街のどこかの時間に素朴に行われていたような犯罪まで掘り出して立件する熱心さを見せられるにつけ、「まぁ悪いことではないんだけど」と、忙しいのにわざわざ70円の風船ガムを三重に包装してくれる近所のコンビニのおばさんに対する時のような苦笑を呈してしまう。(犯罪を見逃せと言っているのではない。犯罪の大きさに比して、マスコミで扱われる仕方が大きすぎるので、犯人が罪を償ったあとにレ・ミゼラブルのような悲劇が起こるかもしれないことを少し思ってしまうのだ。)
この様な気の毒?な例を見てつくづく考えるのは、非常に些細なことで人生を棒に振る可能性がある“犯罪”が、(特にばれて捕まったとき)如何に割に合わないかということだ。が、では逆に、我々はいくらの報酬が得られれば人生を棒に振って割に合うと思うのだろう。これについて数人と議論をしてみたところ、ほぼ“三億円以上”というところに落ち着いた。日本人の平均サラリーマンの生涯賃金よりもほぼ倍以上かなと思えるあたり、良い線いっている気もする。ところで、筆者はこの三億円という数字が、現在ドリームジャンボや年末ジャンボで宣伝している宝くじの最高当選金額と同じであることに、奇妙な偶然以上のものを感じる。やはりこの当たり金額も、上記生涯賃金との比較を何らかの基準で算出していると考えるのは穿ちすぎではあるまい。
宝くじと犯罪の奇妙な相関関係がこうして見いだされたわけだが、金額面での一致以外にこの両者が何らかの相関をしていると考えられないだろうかというのが、本稿で考えようとするテーマである。
三億円という金額が、現在の宝くじの最高賞金であることは既に記したが、ご存じのようにそれは一枚の籤でもらえる金額ではなく、前後賞と合わせた総額である。では、犯罪においても同様に、前後賞犯罪なるものが存在するのだろうか。これについてまず考えてみたい。
前後賞とは、当たり籤の前後の番号に与えられるのであるから、前後賞犯罪の定義は、“ある大きな事件の周辺で起こしてしまった犯罪”、前後賞の番号それ自体には価値がないものであることを考えると、それは軽犯罪であると考えられる。つまり、軽犯罪であるにもかかわらずある重大な事件近辺で起きてしまったという理由だけで目立ってしまう犯罪を前後賞犯罪と定義できそうだ。
本定義によって、我々は上述した五千万円恐喝事件の事後操作でしょっぴかれた一万円カツアゲ犯が、まさにこの“前後賞犯罪”になってしまった好例であったことを知るのであるが、実は本犯罪、ある歴史上の一大事件で登場してしまっているのである。
キリスト教のイエス様が、磔刑に処されたことは皆さんご存じのことと思う。そのさまを題材として描かれた絵画はキリスト教の中では特に重要な場面として何度も登場しているので、どこかで御覧になっていることと思う。今、そうした絵が手元にあればよく見ていただきたいのだが、イエス磔刑の絵には必ず三つの十字架が描かれている。これは当然イエスの他に二人磔にされている様子なのだが、何も知らない人が見るとこの両側の二人、イエスと共に殉教した信者か聖者だろうと考えるのだがさにあらず。この両人はキリスト教とは何も関係が無く、街で強盗だか窃盗だかをやって死刑にあう罪人なのである。(為政者は、ユダヤ教を冒涜したイエスを当時最も卑賤な者が処されるつまらない刑である磔刑にすることでキリスト教を貶めようとしたのである。それが失敗したのは歴史の示すところであるが。)
この二人、つまらない犯罪を犯して死刑になったこの二人が正に“前後賞犯”であることは言うまでも無かろう。彼らはたまたまイエスと同じ日、同じ場所で死刑にあったというだけで、なんと歴史に残ってしまったのである。
まさに宝くじに当たった以上の報酬が得られたのであり、“前後賞犯罪”の例を示すのにこれほど適した例はまたとないといってよいであろう。
さて、宝くじと犯罪の相関について、まず前後賞に対する犯罪の例を見てきたわけだが、次に同相関を示すもう一つの例について見ていこう。
最近世を騒がす一連の犯罪で顕著になったのは、バスジャック犯や刺殺犯などに見られる未成年、特に17歳の犯罪が頻出したことであった。「青少年保護法があるから今犯罪を犯しても罪は軽い。」などという論旨で犯人が犯罪に走ったため、同法の見直し論が沸き立っている。が、これは所詮行動に対する事後処理であり、何故17歳がこうした犯罪に及ぶのかについては、親の躾がなっていない、受験を控えて不安定だなど言われているものの、結局明確な回答は得られていない。
ここで指摘したいのは、そうした17歳の共鳴的犯罪についての理論が、宝くじと相関があることであり、すなわちそれは“組違い賞”、番号が同じで組違いのくじに対して与えられる賞と同じであるということである。
これは次の点で相関がある。まずそれは、
1.その籤とは別にもっと大きな金額の当たり籤が存在すること。
であり、犯罪においてはそれが三年前に起きた神戸の14歳の凶状であることは言うまでもない。
また次に指摘できるのは、
2.大きな当たり籤の番号が知られてはじめて存在価値を持つこと。
である。今回の犯人の一人が上述の凶状を念頭に置いていたことはよく知られた事実であり、前述の事件が無ければ、あるいは前述の事件が同犯人に知られなければ、それに続く一連の犯罪は起きなかったことが容易に想起されるのである。
つまり、今回のようなケースはいわば、“組違い犯罪”とでも称せられる類のものであることがわかる。
となれば、逆に宝くじから今回のような類型犯罪の発生状況を予測できないだろうか。すなわち“組違い賞の本数”と上記犯罪群に相関があるのではという視点だ。宝くじの期待値は100円につき50円と言われるが、そこから算出する組違い賞の本数は、世間に与えるインパクト(期待値)との相関があると考えれば、今後17歳の犯罪が起こるであろう件数を統計的に割り出すことが出来るのではないかと考えられるのである。
更に、抑制の仕方についても演繹できる。つまり、“組違い犯罪”を減らすためには、上述の2.、つまり、籤の番号を報せないことが必要十分であることが判る。つまり、1.で言うように、突発的に起きてしまうキチガイによる犯罪はこれはもうどうしようもないのだが、“組違い犯罪”については他人に報せないことで十分に防げる呈のものであると考えられ、確かにインパクトはあるかもしれないが連日連夜もてはやすように報道する無粋なマスコミに原因の一端があることが指摘されるのである。(犯罪におけるインパクトとは、世間(実はマスコミ)を如何に騒がすかという点につきる。)
本相関が明らかにされれば、宝くじに組違い賞をなくすなど、社会全体で防止策を考えることが可能になり、これまでよりも少しは具体性のある対策がとれるようになると予想されるのである。
ということで以上、何故17歳の犯罪が頻出するかについての論考を行ってきたのだが、これまでの議論はあくまで統計的に起きる結果を予測するもので、そもそも何故17歳にこうした犯罪が多いのかという原因を明らかにしているわけではない。が、実は筆者はこれについても筆者独自の視点でアプローチを試みているので、最後にそれを紹介しよう。
17歳犯罪の頻出は、一部の者に限らず、現在17歳を迎えている人間全体になんらかの影響を与えるものであることを示唆しているが、筆者はこの影響がある種の不安定性であることを突き止めている。ではその不安定性とは何なのか。驚くべきことにそれは、正に17歳という年齢そのものにあったのであり、更に言うなら17が素数の年齢であることに起因していたのである。
現在17歳の彼らは一様に、割り切れない思いを抱いていたのだ。
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