加藤邦道
アメリカを初めとする反捕鯨国・反捕鯨団体の圧力が功を奏して、商業捕鯨は既に瀕死の状態になっている。叩くべき相手のいなくなったこれらの団体や、それに賛同していた人々は当然のことながら一時の勢いを失っている。逆にそんな今だからこそ反捕鯨運動の意味を問い直すことができるのではないだろうか?
反捕鯨団体が捕鯨に反対する理由は大雑把に言って2つだった。
(1)クジラは絶滅の危機に瀕している。
(2)クジラは高等動物である。
これらの理由のうち、(1)は、クジラの生息数を把握してその管理を徹底すればいずれ解消される問題である。野生動物というのは、密猟などによる乱獲さえしなければ絶滅などしないものなのだ。
一例を示そう。かつてオーストラリアで、農作物に被害を及ぼす野ウサギを駆逐するため、ウサギだけに感染するウィルスをばらまいたことがある。ほとんどのウサギはこれで死に至ったが、中にウィルス耐性を持つウサギがいて、その繁殖によって生息数は駆逐作戦を展開する前のレベルにまで回復してしまったという。この事例からも、我々は自然の回復力を侮ってはいけないという教訓を得ることができる。
すると残った問題は(2)の、クジラは高等動物であるかどうかになる。高等動物、つまり人間と同じように高度な知能を持っている動物を殺して食うことが許されるかどうか、という問いかけである。
とりあえずここでは「許される」という回答は封じておくことにする。多くの人間にとって同じ人間を食べるということは生理的な嫌悪を伴う、およそ許されない行為であろう。それと同様に人間に近いサルを殺して食うことにも抵抗がある。一方、知能の低いウシやブタなら全然平気である。これらのことから「知能の高い動物は食べてはいけない、低い動物ならOK」という基準が生まれる。(2)はそれを問うているわけである。
さて、これで反捕鯨運動の当否を判定するための命題がはっきりした。果たしてクジラは高等動物なのか?
我々人間が、人間以外の生物が高度な知能を持っているかどうかを判定するのは少々困難である。何しろ身体機能が全く違う。我々には言葉を操る舌があり文字を書く手があるが、人間以外の動物にはそれがない。逆に向こうにはしっぽや翼やひれがある。となると、身体的特徴をもって高等かどうかの判断は下せないことになる。
喋ることはできないが知能は高い、という生物が存在する可能性を否定できないからである。ではどのように判定するのか? 最もオーソドックスなものに、その動物がいかに人間に近い行動を示すかを観察するという方法がある。人間と同じような社会を持ち、コミュニケーションのために何らかの意思伝達手段を持ち、非常事態が発生したときにそれを解決する能力を持っていれば、その動物には高度な知能が備わっていると考えて差し支えないだろう。サルの群れには人間社会と同じように秩序だった社会が存在することが確認されているし、カラスがゴミを漁るのを防ごうとして生ゴミに網をかぶせるなどの手段を講じても、やつらはこれをことごとく突破してしまう。
そのような理由からサルやカラスには高度な知能が備わっていると考えていい。
人間の言葉が分かる、または意志が伝わるというのも知能が高い証拠になりうる。イヌが「お手」を覚えたり、水族館でイルカやオットセイが芸を披露したりできるのは人間の指示を理解しているからであり、これらの動物に高度な知能が備わっているとみて問題はないだろう。
さて、クジラである。クジラの群れにサルのような秩序だった社会が存在するだろうか? 残念ながら今のところそれは観測されていない。では生ゴミに網をかけたらクジラはそれをかいくぐるだろうか? 残念ながらこれもまだ確認されていない。クジラは「お手」をするか? しない。クジラは水族館で芸をするか?
しない。これではクジラに高度な知能があるとは言えないのではないか。
いやいや、そう結論を急ぐのはよくない。私も反捕鯨運動家になったつもりでクジラが高等動物であることを立証してみよう。
大体、知能の判定基準はこれだけではないだろう。何かあるはずだ。
我々もそのメンツにかけて何か見つけなければならない。……こんなのはどうだろう? 人間は金銀や宝石など光りものが好きだ。
そう言えばカラスも光りものが好きだった。そうとも、知能の高いクジラのことだ、彼らもきっと光りものが好きに違いない。それさえ示すことができればクジラは高等動物だと証明することができる。
もう安心だ。我々の主張は間違っていなかった。
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