僕の仕事はウルトラマン

加藤法之




 倹約をしていざというときご主人のために役に立てた良妻ということで、山内和豊の妻という名前をたまに耳にする。いや、正確に言えば名前ではないのだが、あまりにもその名が有名になってしまったので、“和豊の妻”という名前と勘違いする人もひょっとするといるかもしれない...いないな。彼女のような例は他に菅原孝標の娘と言ったものもあるが、いずれにしても、史料にてその本名が伝わっていないのだから、固有名詞的に扱うのはある程度仕方がない。
 こうした事実は、単純に女性の名前が記録に値しなかったのだという解し方をされがちであり、また実際そういうこともあったようなのだが、実はその本質的なところは別のところにあるらしい。というのも、当時は“名前”を使うことでその個人を呪縛することができるという考えがあり、だから“名前”は、無闇に公にするものではないのが普通だったのだ。つまり、か弱い存在である女性を守るために“名前”を記録することすら避けていたというのが実際のところだったようである。

 これはいわゆる諱(いみな)と呼ばれる名前のことである。諱とは忌み名、つまり、いつもその人を呼ぶ名前とは別に付けられる“本当の名前”のことで、その個人の魂とでもいうべきものに与えられる名前のため、その名を利用することで本人に対する大きな影響(病気にするとか操るとか)を与えることが出来るというものだ。このため、その名はごく一部の人間しかしらせてはいけないという考えに至るのである。
 諱の概念は広くどこの文化にもあるようで、例えばお相撲さんの名前である四股名は醜名ともあてられるし、マイケル・J・フォックスといった名前の真ん中にあるJは洗礼名と言われる(ジョセフだかヨハンだか知らないが、とにかく聖書ゆかりの人名が付けられるらしい)が、あれも諱と同系列に捉えられるだろう。グインのゲド戦記はまさに諱を知られた主人公が本当の自分を探す物語であったことに思い当たる読者もおられるかもしれない。
 諱は現在の日本では死んだときに付ける名前位の意味しか持たないので、名前が本人に影響を与えるといった考え方は非常に捉え難いが、本人のいないところで本人を特定する手段としての名前というのは、考えてみると本人に与える影響力はずいぶん大きいものだ。ちょっと考えただけでも、うわさ話などは自分の知らないところで自分の人間関係が損なわれる危険性があるし、個人情報の流出問題に至ってはもっと憂うべき位であろうことなど、別に超能力を持ち出すような大げさなことをしなくても十分実感されるのである。名前が逆に本人に与える影響についても、姓名判断などは論外としても、例えば筆者の名字である“かとう”という名前の持つ“k”という固さをイメージする音感に対して反応する生活を送っていると、柔らかい音感を持つ“ラリホー”とか“モンチッチ”とかだったらどうなっていただろうと思いを馳せたりするのである。(まぁ、実際そうだったら、いじめられて性格がひねくれると思うが...。はっ! それでは今と同じではないか。)そうそう、ネットのハンドルネームで“葉月ちゃん萌え萌えッス”なんてのを見つけると、本人のパーソナリティの大きな部分をさらけ出している気がするので、あれなどはかなりここで言うところの“真の名前”の本質に近い物ではないかと思う。


 名前のイメージを伝えるためとはいえ随分回り道をしてしまった。話を戻そう。
 以上のような理由から本名を公表されなかった山内和豊の妻とか菅原孝標の娘などの名前を見ていると、筆者には連想されてくる名詞があるのだ。“ウルトラの母”である。
 ウルトラマンがシリーズ化して、ウルトラファミリーの定着に向けて現れたのが“ウルトラの母”だ。TV番組ウルトラマンタロウにて初登場し、前年に既に出ていた“ウルトラの父”とは夫婦であり、ウルトラマンタロウは実の息子だとのこと。年齢も何百万歳とかだったのだが、忘れてしまった。(ファミリー構想は暴走して、お爺さんのウルトラマンキングなる人物まで出てくる。ウルトラの婆は、今のところ出てない。)
 ウルトラの母についてのうんちくはともかく、ここで重要なのは彼女もまた、ウルトラの母以外に彼女自身を指す名前を持たぬ事である。だから当然、我々の興味は一歩踏み込んで、ウルトラの国でも本名を明かすことを躊躇う文化があるのだろうかと言うところに移ることになる。


 『ウルトラ宮廷で織りなされる、ウルトラ源氏の君の妖しくも切ない女性遍歴の物語は、ウルトラ式部の著した大河ロマンだ。若き日に同大著の一部を読む偶然に恵まれたウルトラの母だったが、彼女の住む辺境では手にはいるはずもない。彼女は同書読みたさに神様(ウルトラマンキングのことか?)に願を掛け、その胸のカラータイマーを点滅させながら同著のことばかり考えていた。やがて都78から戻ってきたウルトラの父が、同著の完全版をおみやげに持ってきて...。』という内容の“探した日記”なる物語の作者としてウルトラの母は歴史に刻まれる...。
 菅原孝標の娘とは名詞と助詞の位置しか同じ物がないにも拘わらず、ウルトラの母という語感でこれ以上類推を突っ走ることは危険だ。文法的に同じ位置づけにあるというのなら、“岸壁の母”や“命の母A”だって同じだからである。更に重要なことは、先方ウルトラの例では、我が国に見られない“ウルトラの父”なる男性タイプがあることだ。


 我が国の例ではこうした扱いを受ける対象は、矛盾を放つ表裏二点に集約されていた。すなわち、

 1.庇護されている対象である。
 2.軽視されている対象である。

 彼らの場合にこれらのどちらが適用できるのだろうか。
 画面から見られるウルトラ兄弟の“ウルトラの父”への態度を見ると、ウルトラの父の位置づけは、卑近な例として挙げられる“サッチャー首相の夫”や“向井千秋さんの旦那”などというのとは明らかにニュアンスが違うようである。彼らの兄弟父母との関係にはきちっとした上下関係が垣間見え、どちらかというと“仁”とか“孝”とかの儒教文化を思わせるものがあり、そうした同観察から単純に見ると、1.はあるが2.は考えにくいという結論になる。
 ウルトラの父はとても偉く強い人らしいので、儒教的ニュアンスから考えると、寧ろ日本で言うところの“やんごとなき人”の様な位置づけでその名を呼ぶことをはばかっているとも考えられる。(強い割にあっさり死んじゃったりするが。)


 1.寄りである事はその本質として、名前に呪詛効果があることを認めている必要があることは前述したが、ではウルトラの中でそうした例は見られるのだろうか。ウルトラの国における彼らの生活描写がほとんど皆無であることから、これを探すことは至難の業である。
 ここで話は飛ぶが、当初のシリーズでは無口だったウルトラマンも、後年になると必殺技の名を口にし出していたのをご記憶だろうか。声に出す事は相手に自分の手の内を曝すことになるのだから、普通に考えるならナンセンスの極みなのだが、にもかかわらず敢行していたのには、自分に向けた気合いだとかの単純な意味以上のそれなりの理由があると考えるのが自然であろう。そしてここに筆者はこれが、当邦文化に見る“言霊(ことだま)”ではないかと考えているのだ。
 言霊とは“言葉に霊的な力がある”とする思想で、まさに今回の“名前に力がある”とする文化のもっと根元的なものと位置づけされる。必殺技の名を叫ぶことは、発射される光線の威力に言霊の霊力をのせる事で、光線だけが持っている力以上の力を発揮させようとしているのではなかろうか。
 そしてウルトラの国がそうした言霊文化を持つ可能性が指摘できる以上、言葉に呪詛効果を認めていることは穿った見方とも言えず、すると1.の“ウルトラの父やんごとなき説”に信憑性が出てくる、と論を進められるのだが...。

 しかしあくまで上記説は仮説に過ぎず、しかもその依拠するところは薄弱である。それは筆者自身感じていたため、この説を確定するためにも何とか別の証拠を探したのだが、それは結局徒労に終わることになる。というのも、上記説の根拠となっている、必殺技を叫ぶようになった事実が言霊などという深謀遠慮なものではなく、単に“巨大ロボットアニメがやってたから”だったことに気付いたからであり、パイオニアとしてのプライドを忘れて安易なパクリが多い某プロダクションの名前がチラついてしまったせいにほかならない。


 論拠全体の土台が崩れ、どうも根本的な軌道修正が必要になってきたようだ。諱とは別の機能を求めなければ、どうやら彼らウルトラの秘密には迫れそうにない。


 気を取り直して第2部とでも言うべき視野の変更を目的として考察を進めてくると、今度は“ウルトラマン”なる名称そのものに疑問を向けたくなってくる。というのは、ウルトラマンとは文字通り“ウルトラの男”という意味であり、“ウルトラ”が“地球”にあたる名称だとすると、更に“地球の男”位の意味になってしまい、“浦安のおじさん”と同程度の名前に個人が薄められてしまうのだ。となれば、“ウルトラマン”が“地球に来てくれて一年間も我々を守ってくれた彼”個人の名前を指しているとは思えないのだ。
 地球という辺境に長期出張するにあたり、個人であることを押し殺す必要があったためとも考えられる。が、地球に来てくれた“ウルトラセブン”は、実は多くのウルトラセブンの中の一人で、工作員の一人だったという描写があり、更に地球が好きだから守ることにしたという、明確な意思の表明があった事を踏まえると、“己を捨てて長期出張”説の可能性は薄くなる。


 ここで考えられるのは、“ウルトラマン”という名前が、ある職種の分類名のようなものではないかというものだ。つまり、ある職種“正義の味方”の中でも“ウルトラマン職”をこなす人材としての“ウルトラマン”と言う名前。あたかも、“ボイラーを管理する職”に従事する人の事を“ボイラー技師”と呼ぶような位置づけだ。
 「就職決まったのね、おめでとう。」
 「うん。僕四月から、ウルトラマンになるんだ。」
という感じだろうか。ウルトラマンは仕事だったのである。
 こう述べると、ウルトラマンタロウは個人じゃないかとの反論があるかと思うが、別に地球に来た彼個人がウルトラマンタロウという名前でなく、本名を持っていたとしても構わないだろう。そうした意見が不自然に思え、ウルトラマンタロウが個人名だと固執したいのはタロウという響きにあると思われるが、ここで言うタロウは、言葉としては“太郎”だとしても、個人名を表す“太郎”ではなく、例えば一姫二太郎などの言葉で使うときの、男の子を表す名詞としての“太郎”であると考えればよいだろう。つまり、“父と母が共に正義の味方をしている家庭の息子が就くことが出来るウルトラマン職”が“ウルトラマンタロウ”なのである。“二世政治家”という言い方に近いだろうか。ちなみに、“父と母が共に正義の味方をしている家庭の娘が従事することが出来るウルトラマン職”は、“ウルトラマンヒメ”だと類推できるのである。ウルトラマンレディではないのである。
 この考え方を用いれば、分かりやすいところでは、“獅子座星系出身者がなれるウルトラマン職”が“ウルトラマンレオ”であり、“ふと気が向いた工作員でも就けるウルトラマン職”が“ウルトラセブン”であると定義することが可能となる。“ウルトラマンガイア”は“地球出身者が就くウルトラマン職”なわけで、地球人としてはこれを名誉と見るか、それ以上出世できない壁と見るか、夢があるように見えるウルトラ社会の中にふと垣間見る世襲制身分制の影に疑問を呈示する事もできるのだが、そうすることで数百万年を平和に維持してきた文化と考えると、良否の断定はしかねてしまうところだ。


 この説に依ると、ニセウルトラマンやニセウルトラセブンなどが出てきたときに地球人が発する、「あ、ウルトラマンが二人いる!」という言葉の持つ違和感が氷解する。すなわちあの科白は、いつも助けてもらっているくせに、明らかに違いを持った偽物と本物の区別が付かないために叫んだものではなくて、「あ、“正義の味方でウルトラ職に就いている者”が二人いる!」というように解するべきだったある。地球人の側から見ると、特に正式な手続きを経て着任しているわけではない“ウルトラマン職に就いている者”が、正しくその仕事をこなしているかどうかを判断するよすがはないわけであり、
 「いつもお世話になっているのはあっちのウルトラマンの方だから応援したいのはやまやまなんだけどその仕事ぶりをたしなめにもう一人のウルトラマンが来たんだったら困るしなぁ。」
という気持ちが交錯した上での科白と判断すればよいのである。まるでロシア小説を読むかのように深い、アキコ隊員の心の葛藤を我々はようやく目の当たりにすることが出来るのである。


 さて、上記の説を踏まえると、ある事件の深層が興味を持って浮き出てくる。
 “ウルトラマンA”はその初期、北斗星児と南夕子の二人の協力によって変身を遂げていたのであるが、中盤になると南はそれを拒否して月に帰ってしまうというエピソードがある。
 これまで見てきた説に依れば、ウルトラマンAもウルトラマン職の一つであると見なせるわけだが、そうすると、ウルトラマンAにて行う活躍も、“ウルトラマンA”がやっている行いになり、あたかも「ボイラー技師さんが仕事をしているね。」と同じレベルで、「ウルトラマンAが闘っているね。」となるのである。
 そうした点からこのエピソードを見ると、これが実は“仕事をしているのにそれが個人の為した業績とは認められない事”に嫌気がさしたために南夕子はウルトラマンAを辞めたのではなかろうかと思えてくるのである。自分は一生懸命に闘っているのに、それは仕事として片づけられてしまう。あそこでエメリウム光線が出せたのは私が機転を効かせたからであって、他のウルトラマンAだったらできるものじゃない。それなのに世間の評価は一律に、「ウルトラマンAって凄いよね。」に終わってしまう...。
 これは、ある職を行うにあたって自分を捨てられるかと問われたとき“出来ない”と答える人間は、ウルトラマン職一般に従事する適性をも欠いていると指摘できるということだ。ここにこの判断事項がそのまま、我々が職人(サラリーマン)タイプか、芸術家タイプかを分けるときの判断基準であることは言うまでもない。つまり、これがアルチザン、その職を遂行することに疑問を抱くことがない者であったら、上記の様な事は大して問題にはならないのだ。これに対して、南光太郎の様に、「俺の力で怪獣を倒したい。」旨の意思を表明すると、その時点でウルトラマンタロウ職を退かなければならないのである。
 南夕子がウルトラマンA職を辞したことは、こうして俄然面白くなってくる。既述のウルトラの母は、人間の姿をしているときも役名はなく、ただ“緑のおばさん”という、社会的に影の存在でいることに甘んじていた事に対し、南夕子がはじめから本名を名のっていた事はそれだけで既にしてウルトラ社会内での女性の社会的地位の向上が認められるのだが、南夕子が更に己を確立するために独り立ちしようと決めたことは、そのまま当時の女性のキャリアウーマン(この言葉も今ではもう褪せて見えるが...)化を象徴していると捉えられるのである。これは更に拡張すれば、他のほとんどのウルトラマン職が普通に勤め上げられていると言う事実から、現代の男達がサラリーマンとしての己の地位にさして疑問と野心を抱かなくなっていることの象徴とも捉えることが出来るのである。
 南夕子が去った後、北斗星児単独で変身するようになったウルトラマンA後半のエピソードは、クリスチャンである脚本の市川森一が己のカラーを出すことで妙に献身的,道徳的な話が多くなったのだが、それはそのまま、仕事を黙々とこなすサラリーマンの、会社への献身の姿勢を見るようで、筆者などはシニカルに浸ってしまうのである。


 ちょっと重くなってしまったから最後は軽く落とそう。今や月で女王様(月野うさぎが次期候補か?)などをしている南夕子にウルトラマンAを辞めた理由を聞くと、軽く悪戯っぽい笑みを浮かべて、もう時効だからと次のように語ってくれたものだ。
「だって、三分しか保たないんだもん。」



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