上野均
仮面ライダーでもウルトラマンでも、マジンガーZでも構わない。私たちは正義のヒーローの活躍によって、生命財産その他の自由を脅かす悪の組織の支配から免れ、何とか生き延びてきた。これは厳粛な事実である。
正義のヒーローは、なかなかつらい稼業だ。第一に常に生命、健康、愛する者たちを危険にさらさなくてはならない。第二に敗北は許されない。第三に明確な報酬がない(政府機関などに所属する公務員などを除く)。つまり私たちは、その生存のもっとも基本的な部分をボランティアに委ね、かつきわめて劣悪な待遇のままに済ませていたことになる。
このうち、第一と第三の問題は、「正義のヒーロー適正賃金問題」の範疇に属する。要するにヒーローたちの活躍に見合う報酬(金銭、名誉、権力など)をいかに算出し、平和の享受者たる私たちがどのように負担するかという財政学的な問題にすぎない。
本稿で問題にしたいのは、第二の問題、「正義のヒーロー必勝理論」の構築である。考えてもみて欲しい、正義のヒーローが悪の組織に負けてしまうのでは、私たちの安穏にして無為な生活が台無しにされてしまう。勝利しない正義のヒーローはもはやヒーローではなく、単なる正義を主張する人にすぎない。寝転んで正義を主張するだけならば、私たちにも容易にできるのである。
ここでは、多面的な要素を持つ善悪の境界を、「契約」という観点からみていきたい。約束を破ることは、これを守ることより正しいだろうか? 否。裏切りは誠実よりも正義に近いか? 否。嘘をつくことは、事実をそのまま伝えることよりも真実か? 断じて否である。
こうした観点からみたとき、まず露呈するのは、闘争の現場における正義のヒーローの脆弱さであろう。何故なら、勝負の場面においては、裏切りはきわめて有効な戦略だからだ。奇襲、情報操作、罠、反則行為、これらはすべて悪の組織がもっとも得意とする戦術であり、正義のヒーローはしばしばあまりにも容易に陥れられ、ほとんど常に苦戦を強いられる。しかし、それはヒーローが救い難く愚かだからではなく、正義の本質として、契約は守らなくてはならないからなのだ。相手が契約を破るのではないか、と考えることも、すでに背信を宿していると言わざるを得ない。敵の裏切りが明らかになり、契約が廃棄されるまでは、ヒーローは敵もまた契約を守っていると前提して行動しなくてはいけないのだ。
法廷では、すべての被告人は有罪判決が出るまで無罪として扱われる。これを「推定無罪」という。同様にヒーローは、すべての人は裏切りが判明するまでは正義を行なうという「推定正義」をもって行動しなくてはならないのである。
一方、悪の組織はどうか。仮に悪の組織を「場合によっては正義に分類される行為を取ることができる」と規定すれば、もはや正義のヒーローに(理論的には)勝利の可能性はないといっていい。
つまり、ヒーローには悪の側にカテゴライズされる行為(例:万引き)は一切選択できないのに対し、悪の組織は正義、悪どちらのカテゴリーの行為も選択できる。悪の側は、いわば本源的自由を得ることになる。
このことは、悪の組織に、戦略上の圧倒的な優位をもたらすのみか、私たちをしてつい悪の組織に加担せしめてしまう魅力を惹起するのである。あれしちゃ駄目、これしちゃいけませんの堅苦しい正義より、すべての行為を、悪(例:未成年者の喫煙)も含めて肯定する本源的自由のほうが素晴らしいことは論を俟たないからだ。
こうなってくると、ヒーローの側も「場合によっては悪に分類されるが、結局は正義の側に利する行為を取ることができる」という「結果主義的正義」を採用するようになるだろう。しかし、この「結果主義的正義」こそ、あらゆる正義論を泥沼化させる諸悪の根源といわねばならない。
「結果主義的正義」を採用すると同時にもれなくついてくるのが、「相対主義的不可知論」なのだ。「正義かどうか」を結果において判断するということは、第一に結果の判定時期の無限延期を可能にする。第二に、結果を判断する側の違い、正義という利益の享受の仕方の違いによって、正義かどうかの判定が異なることになってしまうのである。この二つが合体したものが、「相対主義的不可知論」すなわち「人によって何が正義かっていうのはぁー違うと思うしぃー、ってゆうかぁー、何が正義かなんてぇー誰にもわかんないしぃー」というものなのだ。
では相対主義的不可知論を避けるには、どうしたらいいのか。もう一度、悪の組織の行動倫理に立ち戻って考えてみよう。前に検討した「場合によっては正義に分類される行為を取ることができる」という規定は、「結果が悪なら何をやってもいい」という「結果論的悪」であり、理論的には悪の堕落形態にほかならない。つまり、真に理論的に検討に値する悪の組織とは、「悪のみを行ない、悪以外は何事も行ない得ない」という集団でなくてはならない。
すると、悪いことは何ひとつできないヒーローの脆弱性に対応する、悪の組織の致命的な弱点が顕現してくる。つまり、悪の組織は、理論上、協力行動や意思疎通はできないのである。たとえ同じ悪の組織に属していようと、倒すべきヒーローを共有していようと、彼らには裏切りや嘘、足の引っ張り合い以外の行動を取ることはできないからである。悪の組織は、互いによる互いの裏切り合いという危険を、原理的に内包しているのだ。
さらにいえば、悪の組織の人々は、自分の生存を守ることすらできない可能性もある。これまで、ヒーロー対悪の組織の闘いでは、常に悪の組織の戦闘員が無謀というほかない突撃作戦によって大量に死んでいるが、これも自分の生存への意思をさっそく自分で裏切って犬死にに向かうという、純粋な悪の論理の追求と考えられないでもないのである。
結論は得られた。純粋に悪のみ行なう悪の組織は、自己攻撃性を抑制できないために、存在することができない。つまるところ、「正義は必ず勝つ」のである。
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