ペド色彩心理学概論 | ||||||||||||||||||||||||||
加藤法之
真っ暗闇にした部屋の中、一条の光のみが差し込んでいる。埃がゆっくりと漂うだけの静かなその空間には、一人の男がいる。彼は真剣な顔つきで、手にした小さな物体に、窓のごく小さな隙間から導いてきたその光を通した。そして慎重に物体の向きを変えることで、そこを透過した光を窓とは反対側の壁に導いた。物体から十分に距離を置いた壁にはその時、五人の美少女の姿があったのである。
ちなみに()内はキャラの髪の色である。だいたいどういった混色が行われたかが判るだろう。 ニュートンは流石実験屋であったというべきか、美少女の弁別には定規を持って近づいていって彼女のスカートを計るという、生活指導の先生みたいな測定をしていたようだ。彼はこうした実験成果をまとめて、そのものずばり『好学』という本を出している。 ニュートンから暫くしてのこと、あの大作ファウストの作者として名高い文豪ヨハン・ギャル・ゲーテは、当時の多彩な文化人の例に漏れず様々な方面で才能を発揮した人物であるが、本論に見る色彩心理学にも大きな足跡を標している。 彼はまず、ニュートンの行ったプニズム実験を再試を試みている。ところが何を勘違いしたのか、光を呼び込んで分光するという実験をせず、彼はプニズムを直接目にあて、美少女の観察を試みたのである。そうして得られた視界には当然ながら弁別された少女が見えるはずもなく、ただぼやけたシャワーシーンが見えるだけであった。これに憤慨したゲーテは、「私は70歳なのに何故R指定なんだ!!」と訳の分からないことを叫んだという。この後更にプニズムで美少女ピンナップを覗いた時も、スカートの中が覗けなかったことで、「プニズムで偏光など起きない! ニュートンは間違っている。」と怒ったという。(怒られても...。) それからのゲーテはニュートンとの差異化をはかるため、プニズムなどの好学器具は一切用いず、己の心で感じたまま美少女を判断するという方法を採った。彼の研究は微に入り細にわたって続けられ、長年の実験の成果を『好色彩論』としてまとめている。それは108項目からなる箇条書きで構成されており、その観察力の鋭さはさすが文豪の面目躍如たるところであろう。以下・が先頭にある行は、『好色彩論』からの引用であり、そこで使用されている“美少女”なる名詞は、いわゆるアニメ系二次元キャラクターを指すものと考えていただきたい。 ・美少女を一目見た後は、瞼を閉じても印象が残る。 瞼の裏に焼き付いてしまう、現在では陰性残像として知られる現象で、いわゆる一目惚れというやつである。当時のゲーテはこの分野には免疫がなかったようで、 ・少女をじっと見つめていると、頭の中に思い浮かべることが出来る。 という状態になるのに時間はかからなかったようだ。この現象は陽性残像といわれるもので、少女への思いが甚だしいほどこの残像が強く残ることが知られ、その長さは少女への想いの二乗に比例する。 ・寝ても冷めても彼女のことばかりだ。 ここまで来ると観察と言うより二次元コンプレックスが進行の病跡と見た方がいいかもしれない。(筆者のではないことをお断りしておく。)彼がそこまで入れ込んだのはやはり有名なワイマールのロッテなのだろうか。だとすると彼は入れ込みすぎて思わず小説にまでしているから、この辺は心情吐露の感すらある。(ちなみにビックリマンチョコの海賊版を間違えて買ってしまったとき、それにはロッチと書いてあった。) ・コギャルの金髪はおぞましいが、美少女の髪が何色でも、気にならない。 これは美少女色彩論の中でも不思議な常識の一つだろう。現実に水色の髪の女性が電車に乗ってきて筆者は生理的なまでにゾッとしたものだが、確かにアニメキャラが水色の髪をしていてもあまり目を引くことはない。ただしこの、アニメキャラの髪の色のバラエティの豊かさは、見る側に約束を強いている明確な例の一つで、こうした約束が固まっていない以前はそれほど極端な色は無かった。(筆者の記憶で言えば、突出してきたのは一三人のキャラを描き分ける必要のあったバイファムあたりだったと思う。)自衛隊の存在意義よろしく徐々にこじつけ領域を広めていったわけで、こうした展開に馴化していくさまを“明順応”という。 ・あおりでも中が見えないミニスカートは、気になる。 どうもゲーテはスカートにこだわっているようだ(筆者ではない)が、正面から見たときにフリルのように周囲に向けて鋭角に広がっているスカートが、あおりのショットになるときにぺたんと垂れて描かれるのは不自然のようではある。だが実際のスカートは重力に逆らっていない事を駅の階段で毎日身に染みている筆者にとっては、こちらの方が寧ろ自然な描写だと思える。でもやっぱり残念なので、こうしたしがない希望から諦観に移っていく過程を“暗順応”という。 ・セイラさんは今でもお姉さんのようだ。 何を言っているのか流石にこれでは判らないだろうから、次も見よう。 ・でもミサトさんは妹のようだ。 これは、設定年齢17歳のセイラはお姉さんだが、設定年齢28歳のミサトが妹の様に感じると言っているのだ。つまり、例えば今再放送でガンダムを見たとき、そこで展開されるドラマでのセイラの大人びた雰囲気は、彼女より歳取ってしまっている自分が見ているのに、やはり年上の女性のそれを醸し出している。反面、エヴァンゲリオン本放送の時点で自分より年若のミサトは、行動に大人の女としての振る舞いをしているにも拘わらず、寂しがり屋の女性が虚勢を張っている様を見て取ってしまい、年下の女性として見てしまうということである。(だから筆者の事じゃないってば。) 宮崎駿は「不二子は誰にとってもおねぇさんなんです。」と言っているが、それは上記感覚を良く言い表しているだろう。つまりその少女に始めて出会った時点での印象は時間を経ていても保たれるということであり、それがときめきなのか憧れなのかほのぼのなのかは判らないが、その気持ちはそれと同じ場面を繰り返すことで何度も脳裏に蘇ってくるということなのだ。これを“気持ちの恒常性”という。 これと対照的なのが長寿番組のキャラクターである。カツオを見る自分の視線が、どんどん波平のそれになっていくことには恐怖を感じざるを得ない。実生活での例は高校野球がいい例ではなかろうか。(筆者は設定年齢27歳のマスオさんを追い抜いたと知ったとき、それでも何とか衝撃に堪えたが、マスオさんとため口をきいているから同期、つまり同じ27歳と思われる同僚のあなご君をも追い抜いたのだと悟ったとき、思わず深酒した。) ・美少女を見るときの感情は、“ウルウル”,“ロリロリ”,“萌え萌え”が基本となる。 ゲーテは少女を見つめるときに起きる心の変化を、上記三種を基本としてそれぞれが混在した気持ちになると述べた。少々分かり難いが大まかに説明すると、眼が大きくて泪眼を持つような幼児性を強調するような美少女に対して湧く感情が“ウルウル”(メモル、ルゥリィ、アイリスあたりが代表的だが、七瀬葵のキャラ全般といった方が今は分かりやすいのか。)、性未分化な無邪気さが強調されるような美少女に対して湧く感情が“ロリロリ”(この語は非常な多様性を有する語だから、ここではこういう意味くらいに受け取ってほしい。代表はイサミやプリティサミーあたりか。)、大人と子供の中間に位置する不安定さが強調されるような美少女に対して湧く感情が“萌え萌え”(これには説明はいらないだろう。)となっている。この三つは明確に分けることは勿論出来ず、段階的に移行するものである。この三つのことを、“好色の三原理”と呼ぶ。 ゲーテが大言壮語したように、これと性格を合わせることで美少女の大まかなプロフィールを描くことが可能で、例えば同じロリロリ型の砂佐見と美佐緒など、元気系ロリロリと、しっとり系ロリロリ、TV版ルリを冷静系萌えロリなどと表現することが出来るからすごい。(だから筆者が言ってんじゃないってば。) 実際、これほど割り切った断定も凄いが、この辺がゲーテの取った方法論である心で見る現象学の最たるものであり、言うなればカント以来の重厚な(?)ドイツ観念論を継承しているといえるだろう。 ・美少女は目立つが、一歩外れると全く気付かない。 本屋などでその手の雑誌は、どうしたわけかそれとすぐに判ることを指している。美少女のこうした性質を“進出性”という。どういった美少女が進出性が高いかという指標はなかなか難しいが、その時点での人気,露出度,そして何より好みなどが要因として挙げられよう。面白いのは、露出度がほとんど同じ女性が表紙に描かれていても、漫画ゴラクではあることさえ気付かないことだろう。視覚が主観的なものであることを納得させられる。 ではそうした、目立つ美少女で埋め尽くされている空間だとどうなるのだろう。 ・アニメイトに入っていくと、5分ほどで目が慣れる。 なるほど、鼻血を出すわけではないらしい。こうした馴化を“色順応”という。ゲーテはアニメイトで衝動買いをしない用件として、「本能の前に店を一周回れ。」と説いている。が、「アニメイトにいると、周囲からの疎外感が一瞬無くなる。」なんてことも言っている。やれやれ。 色順応は、店から出ると急速に回復する。世間の視線が我に返すのだろう。 ゲーテ色彩論の大枠はだいたい上記のようなものである。風土的なものでもあるのか、ドイツにおけるその後の美少女研究者もこうしたイデアリズムの流れを汲んでいるから、そうした一派についても触れておこう。 ゲシタルト心理学派という一派がある。ゲシタルトとは形の事であるが、美少女の中に基本的な形を見いだそうとする考え方である。アニメなどで急いで作ったり、元々アニメータの力量が低いような場合、作画が崩れることがあるが、その様な場合でも、見ている者はお目当ての当人だと見分けて納得してしまう。ゲシタルト心理学はとは、視聴者側にそうした“美少女に対する理想的見方”があることを解析する学派である。そうした彼らの研究態度も、この例のように制作者側の不備を許容する寛容的姿勢にあるうちはいいのだが、型にはめて見る保守的な見方と穿つこともできる。それは評価が固定した美少女の人間的多様性を認めないことにもなりやすいわけで、「第○○話の何子ちゃんはあんなことしたりしない!!」とネット上で騒ぎまくる迷惑な存在になっちゃうこともしばしばなのである。(あるアニメで主人公の偽物が出てくる回があって、ニセウルトラマンみたいな奴が出てきたのであぁ類型的だなぁと思っていたら、作画の荒れた主人公だったことが判明しまた吃驚ということがあった。上記許容度も限界があることを身をもって知った。) 許容度に触れたついでに、ラチチュードという概念にも触れておこう。 美少女の魅力を見分けられる範囲というのがある。少女個々人に魅力がある場合でも、限られたドラマの中ではそれが活かされることが十分でないことがある。ラチチュードとは、限られた枠内でドラマを構成する場合に識別できる人間性の範囲のことを指す。一つの映画で個性を出すことの出来るのは七人まで、との黒沢の言が一つの目安になるだろう。が、これは演出家の力量とか受け手の経験に応じて変化するものであり、TVアニメの劇場版などを見たとき親の方が疎外感を受けるのは、このラチチュードが子供と違うためである。また、欲張って大勢の美少女を盛り込んで売りがありまっせというのが近年の作品には多いが、ほとんどの場合それらの人間性が未消化のまま終わってしまうのは、明らかにラチチュードを考慮していない無粋な結果といえる。だがこれは受け取る側にその少女への思い入れが完結しないまま残ることになるので、同人活動のモチベーションの核になることがある。(ナデシコは良くも悪くもその代表格だろう。) さて、主観を重視し、己の心を表現することを主眼としたドイツ的色彩論を紹介してきたわけだが、だからこそここから、対比する概念であるフランス的色彩論を紹介することが面白味を増すだろう。それはこれまでのゲーテの姿勢とは対極的に、客観的な捉え方をする実証主義とでもいうべきもので、『好色彩対比論』にまとめられたフルフラ・シェル・フルールの論に集約されている。 奇しくも『好色彩対比論』も『好色彩論』同様、箇条書きなので、以下、書式を統一して記述する。 ・際だった個性を持つ美少女が一人いると、全体のバランスを損なう。 フルールはゲーム作家であったためか、その発想が商品価値の有無から出ていることが多く、本項もそこを端緒にしている。美少女が活躍するドラマを作る際目立ちすぎる性格だと、その女性だけにスポットが当たってしまうが、それはその少女が単一のヒロインだったら効果的だが、集団劇では調和を破ってしまい具合が悪いということだ。他との関係を考えるところが一直線なところがあるゲーテ論との差異化が顕在化するところで、こうした見方を“調和の法則”という。 が、逆にそうした女性が大勢いれば良いわけで、昨今の美少女頻出ゲームはそうした理論に依っている。だがこれは、人数が多くなってくるにしたがって難しくなってくることは必定で、彼はそれについても触れている。 ・美少女の差異化は、外見と性格と年齢で分けられる。 フルールは外見として、 女子高生,幼なじみ,つっぱり,お嬢様,看護婦,巫女,婦警,メイド 性格には あかるさ,寂しさ,優しさ,厳しさ(きつい),しとやか,そそっかしさ, ほんわか(ボケ),知的さ,母性的(包容力),依存的(頼る) 年齢は 幼児期,児童期,思春期 をあげている。外見の定義は表面的な社会的地位を確定するし、性格はほぼ対立的な概念(二つが組になって補色関係となっている)があげられている、これに年齢もあるとなれば、確かに差異化は出来そうである。この分類法に従えば、メイドできつくて幼児的なんてのも目立つと考えられるんだにょ。 この“外見”,“性格”,“年齢”を、“好色の三原色”と呼ぶ。内的判断を基礎としたゲーテの弁別法との違いは明確だ。(定義として実用的なのはこちらだが、本質を深く突くのはゲーテだろう。) ・美少女は声に引っ張られる。 これは良くも悪くもだろう。こうした、声の人気に引っ張られて美少女自体が持つ実力が曲がって認識されることをアブナイ効果といい、安易なプロデュース作品に多くみられる。アブナイ効果が大きいほど、実害が大きい。 また、美少女の見かけの雰囲気と実際の声との印象が違う程度を、“錯覚指数”という。指数が大きいほどショックが大きく、眩暈,放心,動悸などを起こすが、多くの場合単に無視される。 ・ヘタウマな絵でも大丈夫なことがある。 美少女ゲームの本質はそのキャラクターに入れ込めることが大切で、絵は必ずしもとびきり上手くなくても致命傷になるわけではないという意味。PCエンジンの頃はグラフィック能力が低かったため、と○メモなどはワザと単純な線の美少女を出した(え、そうじゃないの?)のだが、にもかかわらず周知のように、コナ○を立て直すほどのヒットになった。他にもアスキ○のトゥル○ラブスト○リ○の少女などは、現代の主流から明らかに外れていると思えたものだが、悪口を言うと末代まで祟られるような信者を出しているのは周知の通り。ただフルールも“大丈夫なことがある”と言っているように、両者はあくまでも例外で、デッサンの狂い方がそのまま世間からの注目を外していく不幸な少女達も多いことには触れておかねばなるまい。 さて、フルールはこれらの経験則を見いだすに際し、できるだけ先入観を排除し、仮定を立てずに実験をするという立場をとっている。そうした実験の姿勢を彼は“ア・ポイ捨てロリの方法(事前の方法)”と呼んだ。いかにもカントのフランス唯物論の流れを汲んでいると思わせるが、実験場としてセガのプラットフォームを利用するのは何とかして欲しかったところだ。お陰でサタ○ンの市場はそのとばっちりを受けて...やっぱり自滅だね。ともかく、フルールはそうして得た経験則を今度は応用するという形で商業ベーズに還元した。ア・ぷにロリの方法(事後の方法)と呼ぶそうした姿勢に、プレイステ○ション用ゲーム製作をしていたという。まぁ、ちょっとした批判はあるもののこの方法のお陰で彼の作る作品は安定し、事業は総じて安定していたという。これは初期ロット数を彼がほとんど正確に予測していたことも原因の一つで、当時は“フルールの売れ行き予想”と言われていたようである。(ローカルでゴメンね。) ゲーテの考え方がその後のドイツに継承されたように、フルールの体系化した美少女論はやはりフランスで花開いた。彼の論は“売れる”美少女を創造する際に注意すべき点が明確にされていたから、CG絵師達のアイデアの源泉として重用された。彼らは己の作品のキャラクターをフルールの“好色三原色”に当てはめ、足りない場所を補ったり、補色関係にある美少女を創出することによって全体の調和を作るという流れを生み出していったのである。(彼らCG作家達の技法はドット絵が基本であり、パーツの美少女よりも全体の美少女の表現を目指していたから、印象派と呼ばれる。ついでに言うと、CGで18×を描いている画家を淫匠派と呼ぶ。) CG絵師達はそれぞれに応じた方法でフルールの体系を駆使し、作品を発表していった。それらは前述のときメ○のように評価の高い作品を生みだしはしたが、その後あまりにも乱立したバーゲンセール作品は、元々セール品だったのか、それとも男達の財布を食い尽くしただけなのか、かつての勢いは失せた感がある。独善主義の固まりの美少女とストーカーまがいの主人公に恋愛を成立させようというキの字のシステムを持ったゲームはこの傾向にとどめを刺したようでもある。(センチメンタルより寧ろマゾヒズムを目指していたのか。) が、結局のところ一番の原因は、己の実年齢が描く対象の美少女とどんどん離間していく現実の中で、彼ら自身が葛藤を感じだしているからだというのが本音だと思われる。 さて今回、自然科学的美少女探求をしたニュートン、現象学的探求をしたゲーテ、実証主義的探求をしたフルールの三人の研究を紹介したわけだが、全体をかなり大ざっぱに流しただけでもそうそうたる感があった。実際、これら理論の真の妥当性はともかく、これらの諸理論を見いだすまでに費やされた研究者達の情熱のカロリーの総量と時間の膨大さを思うとき、筆者などは眩暈するような感覚を禁じ得ないのである。それは最早一種の病魔にとり憑かれた状態だったに相違ない。彼ら研究者をして、そうまでして達せなければならなかった境地とは、どういったものだったのであろうか。残念ながら時と場所を遠く隔たった現在ではそれは知る由もないが、美少女の真理を探究して全てをなげうったゲーテが、その魂を賭けてこう叫んだであろうことだけは、想像に難くないのである。 とまれ、かくもそなたは美しい。 |