加藤法之
サマランチ会長の推し進めた商業化路線が生んだ汚職疑惑の顕在化ばかりが目立っていた本年のオリンピックであるが、それでもなおスポーツの祭典と呼ばれる地位が揺らぐことはない。しかし、斯様に絶大な権威を誇るオリンピックも、陸上などに代表されるような、“記録更新型”競技においては、達成される記録が人間の限界に近づくにつれ、ほとんど奇形と紙一重なまでに研ぎ澄まされた肉体を持つ特殊な人間達にしか出場できない場所になっている。
例えば百m走にて、普通に鍛えるだけでは足りず、走るための筋肉をのみ強くし、着衣を工夫し、シューズに新素材を使い、コースに最適な摩擦の物を選ぶといった、重箱の隅をつつくようにして上げる百分の一秒のタイムが一般大衆に及ぼす感動とは一体何なのであろうか。人間の可能性を追求するロマンと言い切れる人がいればそれはそれで良いのだが、筆者にはそれが“がんじがらめの末に到達した記録”としか見えず、少なくとも“自己力による達成を謳歌”しているようには思えない。オリンピックとは本来、国同士が普段の諍いとは無縁の場として集結し、スポーツに打ち込むことに意義があるという基本からすると、そうした趨勢はどこかしら外れてきてしまっているように筆者には思えるのだ。
加えて、これら記録更新型にて近い将来当然出てくると予測される“限界”が見えた時も、オリンピックの華やかな行く末に不安な影を落としている。現在は、華やかな繁栄の二十世紀を反映するかの如き記録更新ラッシュがオリンピックの常のように写っているが、既述のように現在ですら重箱の隅をつついて記録更新しているのが現状である以上、いずれそうした栄光のグラフには上げ止まるときが来ることを覚悟せねばならない。こうした限界は、事実上“人間の限界”であるため、そこでは寧ろ“達成を歓喜”すべきかもしれないが、競技としてみた場合、記録未更新という結果は注視する者にとってはあくまで“記録の停滞”としか写るまい。こうした記録未更新が続くことで、記録更新型競技全般の人気が凋落し、ひいてはそれがオリンピックの人気凋落に繋がることすらあり得るのである。
さて、こうした“記録更新型”競技がある一方で、オリンピックには例えば野球やアイスホッケーやレスリングなどに代表される、相手と試合をして決着を争うタイプの競技、“対校試合型”とでも分類できる競技群がある。これとても、勝ちを追究するあまり、選手の常人離れした感じが拭えないものも多いが、それでも例えばカーリングなど、こう言っては悪いが“自分にも出来るかもしれない”と思う分だけ身近な存在と思える。
いずれ停滞するであろう記録更新型競技に比して、対校試合型は競技の性格上行き着く先というものがない。となれば、将来予測されるオリンピックの人気凋落を予防する一つの手段として、こうした競技を増やしていくことが予想されよう。
前置きが長くなったが、本稿ではこうした眼目から、旧来の基準ではオリンピックに馴染まないと思われていたスポーツでも、競技中における選手間の切磋琢磨そのものが一般の人に与えるアピールが大きいものに関して無条件でこれを選び、公式種目となった場合をシムレーションするものである。
架空の競技場で行われる世紀末の競技、聖火台は今萌え...燃え上がる。
パン食い競争
異色の競技としてまず公式種目登録されたのがパン食い競争だ。
パン食い競争は、走行区間の中間地点にヒモでぶら下がっているパンに食いつき、パンを喰わえたままゴールまで走りぬくというシンプルなルールだ。選手が美味しそうに食べるさまを見せつけられるため、競技終了後に近所のパン屋が繁盛するという経済効果が期待できるという名目から、割とあっさりと正式種目化決定がなされた。
導入当初こそ競技に使用されるパンはオーソドックスにフランスから取り寄せた最高級のパンだけだったのだが、観客の受けを狙ってか、奇をてらうようになった近年では、中に入っている具にタバスコやワサビが入っている場合もあるらしく、選手達がパンの前で一瞬見せる躊躇いの表情が非常に人間味があるところ。本競技は意外にも、各選手がその体調の調整に最も苦慮する競技の一つとなっている。何故なら、この競技テクニックを上げるには当然、ぶら下がっているパンを食べなければならないのだが、そうすると当然そのパンによる過栄養摂取のために太ってしまうのだ。常に万全の体調を維持しなければならないスポーツマンにとってこれは大きなジレンマであり、その微妙さがまた本競技を面白くしていると言えよう。
パン食い競争史を語る上で外すことが出来ないのが、オーストラリア代表であるクロコダイルのガブリエル選手と日本代表の口裂け女選手が参加した南極国際陸上での試合だろう。なにせ両者ともぶら下がっているパンを丸ごとパクリとできる実力の持ち主であり、方や水辺の悪魔といわれる迅速敏捷性、方や一日で本州を走りきると言う(筆者はそう聞いたぞ)俊足だ。この二人が同じ試合で戦うとなればそれは屈指の好カードとなるに違いない。現に、両者の好勝負を期待して当日のチケットは飛ぶように売れたのだ。が、本勝負の結果はあっと言うほど意外なものだった。世界の注視の中、スタートの合図が鳴り響き、各選手を隔てていたゲートが開けられるやいなや、ガブリエルは持ち前のスピードで口裂け女に近づき、「パクッ!」
今にして思えば、ワニの習性として、パンよりも人肉を選んだことは自然といえば自然だったのだが、観客にとっては本試合のあまりのあっけない結末は、K1の佐竹に匹敵すると言われて久しい。
マスゲーム
北朝鮮のマスゲームに対する情熱は特筆すべきものがあり、国威発揚のための重要な施策となっている。先日も、水害復旧作業にあたる現場作業員を励ますマスゲームが行われている様子が紹介されていたが、作業現場脇で行われた地元小学生千二百人による豪華な技の披露に、額に汗して働く三十人の労働者達の複雑な表情は、見ていて心を打たれたものである。
本来アトラクション的な性格を持った本競技であるが、にも拘わらず正式種目化したのは、ひとえに北朝鮮にオリンピック参加を促す目的が大きかったと噂される。(北朝鮮は長距離遠投も得意らしいのだが、コントロールが悪いため競技向きでは無かったらしい。なにせ人工衛星軌道に向けて投げた玉が太平洋に落ちるくらいなのだから。)そしてそれに答えようとするかのように、彼の国が送り込んだ選手団は本競技だけで実に二千六百人。並々ならぬ意気込みを感じる数字である。元々国民の結束が堅くないと出来ないものだが、彼の国の素晴らしいチームワークは、会場そのものがハイビジョンかと見まごうほどの演技を披露して、観客の度肝を抜き、ついでに演技の内容が総統閣下ご自慢の某怪獣映画だったことでも観客の度肝を抜いた。いろんな意味でインパクトのある演技に、対抗できる勢力はPL学園くらいしかないと見られていたが、本大会では意外な伏兵が彼らのライバルになって会場を湧かせた。すなわちアオベェ、アカネ、キスケで構成する“子鬼のトリオ”であり、彼の国との熾烈な金合戦は歴史に残る名勝負だったという。
両者ともその演技において目指す物が同じだったことに起因する名勝負だったが、その通底するものこそ、「聞いて驚け。見て笑え。」の精神だったとのこと。然り。
(彼の国の二千六百人選手団は、競技終了後に集団亡命した。この辺りの結束も、彼ららしいと言えよう。)
花一匁
“はないちもんめ”は一体スポーツなのか? と疑問を抱く向きは多い。複数人がチームを組み、相手と一列に向き合った上で、独特の節回しを持った童歌に合わせながら波のように相手と行ったり来たりをし、区切り毎に相手チームの一人を指名して自チームに引き入れる。ただこれだけの競技が、正式種目化としてゴリ押しされたのは、当時の政治的側面に負うところが大きい。
当時は東西冷戦のまっただ中、折しもNATOとワルシャワ条約機構が二大勢力となって会場を二分して行われた同競技は、押しつ押されつの一進一退が見物の一大イベントだったのであり、本競技での勝敗がそのまま世界の勢力図になるとさえ言われたものであった。馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないが、軍備拡張で同じような勢力拡張を行おうと考えた場合の予算の桁違いにはね上がることを考えれば、ともかくも平和裡にしかも低予算で行える同競技をオリンピックによって権威化することは各国家間でも名案とされたのであろう。
ソ連が崩壊したことで、本競技の役目も終わったかに見えたのだが、近年のユーゴ紛争では俄にその重要性が強まってきている。
「あの子が欲しい。」
「あの子じゃわからん。」
「コソボが欲しい。」
「コソボじゃわからん。」
「空爆しよう。」
「そうしよう。」
まさに、狭義な協議で行われた競技であり、こんな調子で空爆される国民はたまったものではないだろう...。
障害競争
う、個人的にはヒットなネタなのだが、自主規制。
缶蹴り
蹴っ飛ばされた缶を鬼が拾う間に選手が逃げることで始まり、鬼はかくれんぼの要領で選手を見つけて行くが、捕まえる手続きとして選手の名を叫んで缶を踏まなくてはならない。見つけに行く間に缶を蹴られると捕虜は逃げ出せるというのが、缶蹴りの大ざっぱなルールだ。いい大人が熱中するさまが馬鹿で良い、というとんでもない理由から公式競技になった。
この競技は何と言っても日本が強い。それはお家芸の強さというだけでなく、選手層の厚さが段違いなことに起因している。なにせ缶を蹴飛ばすのが得意な大空翼選手(衛星軌道に乗るくらい凄い)を筆頭に、攪乱が得意なおそ松ら六子兄弟、音速を超える俊足の島村ジョーと、そうそうたるメンバーなのだが、これらを束ねるのがキャプテンの 寿限無 寿限無 五劫の擦り切れ 海砂利水魚の水行末 雲来末 風来末 食う寝る所に住む所 薮ら柑子のぶら柑子 パイポパイポパイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助だとなれば、もう他のチームは対戦する気すら起きないというものである。
しかし日本の強さは攻めだけではない。守備側選手にはどんな長い名前でもつっかえずに言える早口を持つ黒柳徹子と、どこに隠れていても缶の脇に立ったまま伸び縮みするスタンド“法王の緑”を出して見つけてしまう花京院典明を配しているからだ。
怒濤の攻めと鉄壁の守り、日本の金は当分揺らぎそうもない。
借り物競走
参加選手が50m走ったところで、そこに置かれている紙の内容をゴールに持ち寄るという借り物競走は、オリンピックにおける最大のイベントといって過言はないであろう。というのも、オリンピックという世界規模の大会に相応しい規模の競技にしようという意向から、指示されている借りてくるモノの内容も、“メタルスライム”や“くしゃおじさん”、“シャトー・ラジョンシュ1944”といった、難しい方向にどんどんエスカレートしていったことで、その品物を揃えることが至難の業になった結果、品物を携えてゴールに辿り着くことがその参加選手のみならず、その選手の出身国の持つ力を誇示する場という雰囲気が蔓延したためである。借り物競走は今、参加国家の威信を賭けて行われる、火花を散らす真剣勝負の場になっているのである。
借り物競走に出題されるメモの内容は当然花○が付くほどの極秘機密で、内容を思いつく人物の所在はおろか、メモの種類、保管場所に至るまで一切公表されていない。もっともかつて一度だけCIAが暗躍して、メモに内容を書き写す人物が突き止められたことがあった。が、その人物、名古屋市熱田区在住の篠原ウメさん(85)は、「覚えとるわけにゃーでしょう(↑)。書いた事なんて三日で忘れてまうでかんわ(↓)。」と言い放ち、玄関先の黒服男達をがっかりさせたものだ。
こんなだから、各国の控え室にはその対処のために、定番のタオルや水筒は勿論のこと、歯ブラシや鍋に始まり果ては戦車やロケットなど、とにかくありとあらゆる物を用意することになり、まるで郊外型のディスカウントストアーが現れでもしたかのような様相を見せることになる。だが出題者の方は常にその更に上を行き、いざ試合が始まると出場した選手は手にしたメモに、“三億円犯人”なる走り書きを見て愕然とするのである。
(この選手、事件が時効になり、世の中からも風化しようとしている今でも犯人を追っている。大阪梅田駅で目当たり捜査を続ける彼にインタビューしたとき、白髪の混じりだした頭を掻きながらこう言ったものだ。「いやぁ、捕まえないと会津若松のおみっちゃんに会いに行けませんからね。」粗挽きネルドリップのコーヒー缶を手に、渋さを増した彼は雑踏に消えていった。)
また中には“サラ金から10万”と書いてあったので、駅前で調達できたのはいいが、返却時に利子が付いて困った選手もいたという。(この選手、仕方なくその日は家族で食事に出かけたそうだが、食べ終わった後奥さんが「結婚記念日来月やった。」と言うにつき、「こいつ計画的やな。」と言ったとか言わないとか。)
さて、上記の如く各競技は行われ、盛況の内に幕を閉じた。今回はあくまでもシムレーションとして行ったに過ぎないが、上記競技のいくつかでも、本番のオリンピックに採用されればこれに勝る喜びはない。
本稿を締めくくるにあたり、筆者は再びメイン会場跡地に足を運んでみた。当時を偲ばせる物はほとんど解体或いは移設され、再び雑草が覆いだしたこの場所は今度はニュータウンとして生まれ変わろうとしている。ここが会場だったことを示す唯一の証拠、お腹に人面疽のあることで話題を呼んだ大会のシンボル“潰瘍の塔”は、今は朽ち果ててて往時の影もないが、高台に建てられたために吹きさらしの海風に曝されるた錆だらけのレリーフは、筆者にはだからこそオリンピックの精神を体現しているように思えた。すなわち、
“酸化することに、意義がある。”
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