藤野竜樹
その手は桑名の焼き蛤
筆者が、上記言い回しに対して初めて疑念を抱いたのは、いつのことだったろうか。それは遠い過去のことだったようにも思うし、これを書くためつい今し方だったようにも思う。が、本稿を書いている時点の筆者がこれに疑念を感じていることは事実である。
疑念と書いたが、正確には坐りの悪さだろうか。この言葉を聞いた時に自身の中に生ずる一種の波紋は、不可思議な不協和音を生み出すのだ。それは喩えて言えば、中学校に入るときに五分刈りにさせられたときのような気分か、何だか分からないけど、慣習になっているから続いているというような。
今回はその理由について調べ、対処法を検討するつもりである。
上記言い回しは、ある企みを仕掛けられそうになった際、それを素早く察知して、その意図が既にばれており、その企みを自分に行っても引っかからないよという旨の意思を相手に表明するときに使うものである。が、これには元々それ以前に、“その手は喰わない”なる言い回しが既にあることを踏まえた言い換えであり、一種のパロディであるということもできる。
しかし考えてみると、元々の“その手は喰わない”なる言い回しだってかなり変な表現である。べつにホントに手を料理して出されるわけではないのにわざわざこんな風に言うのは、慣用句となってしまった今では気にすることはあまりないが、この言い回し自体「あんたの考えてる事くらいお見通しだ。あかんべー。」を言い換えたパロディであり、これを思いついた人の知的でひょうきんな人柄を十分に思わせるものである。
パロディの更なるパロディであるこの言い回しが生き残っている理由はそのリズム感にある。元々の“その手は喰わない”が八文字であるのに対し、上例は日本人の言葉が五文字もしくは七文字を一つの単位にしていることを踏まえており、これにもう六文字付け加えて全体で十四文字とすることでリズム感を与えているのである。だがそれは皮肉にみれば、リズムのみで生き残っている表現であるとも言える。何故なら当時の桑名ではともかく、現在の桑名で一番有名なのが“蛤”かどうかが疑わしいからである。少なくとも筆者は知らないし、ひょっとしてご当地では焼きおにぎりの方が知名度を上げているかもしれないのだ。
筆者が上記言い回しに対して浮かんだ蟠りは、こう考えてくると次の二点に集約されるようである。
1.それがパロディのパロディであること。
2.ネタが古くなって笑えないこと。
1.はどうも、筆者がオリジナリティを結構気にすることに起因しているようである。
これと同種の懸念を、喜劇役者のバスターキートンを尊敬して己の芸名にした増田喜頓のパロディを題名に冠したマスターキートンのパロディであるアニメ・マスターモスキートンのオリジナリティの無さに対しても抱いている事は言うまでもない。
アレクサンドル・デュマは人の小説をパクって小説を書き、その挙げ句「俺の方が面白い。」と言ったらしいが(実際面白いんだけど)、基本的にパロディのパロディは、一つ目のパロディが持っていたその一次パロディ制作者が醸し出す知的な雰囲気を凌駕できないのだ。
2.は、些か仕方が無いこともあり、筆者も少しは同情的である。実際、焼き蛤を言い回しに引っかけたこの表現はほどほどに知的であり、言い出した当時は二次のパロディとしては例外的にそこそこ面白いとは思うのだが、如何せん現在では十分にそのペーソスが染み出されているとは言い難く、先述したようにただただリズム感の良さから今も使われているのである。
こうした現在の状況は、この言い回しを思いついた粋人にとって決して歓迎したものではないだろうと思われる。慣用句としてだけ巷間に使われている今、この言葉は例えば、財布の中に万札が入っていることを目ざとく見つけた人物が必ず、「今日飲みに行こか。」というオヤジギャグを発するのと同じレベルに成り下がっているのであり、当初の粋人の知的レベルから見れば悲壮感(アイドルが十年後に出すヘア写真集と同程度)すら漂うのである。
オヤジの慣用句として今日もどこかで発せられる上記表現。磔刑に処せられ続けるキリストのように、かの言葉の作者は己の恥を後世に曝し続ける。酷かな、嗚呼。
彼を永遠の赤っ恥から救い出すには、かの言葉を使わなくするしかない。我々はその言葉をそっと、本来あるべき死語としての位置に寝かせておくべきなのだ。
彼を救うには、我々が彼と同様のユーモアを持つことだ。我々は先人の遺産をただ甘受するだけではなく、己の頭で考えた知的表現で、かの言葉を凌駕する言い回しを使って行くことだ。“その手はくわねど高楊枝”でも、“その手はクワガタAB型”でもよいが、とにかく、今の自分で考えた、その時と場合にあった表現を使うことが肝心なのである。
結局のところ、かの表現に接したときに筆者が感じていた坐りの悪さは、かの言葉自体に感じていたのではなく、かの言葉を使う側の無考慮性に対してだったことがわかる。
ユーモアとは己で考えてこそ磨かれる。そこには己の個性が明確に出るからこそ、安易な慣用句の使用などせず、そこに費やす影の努力を怠ってはならないのである。
さて最後に、最近になって筆者の元に訪れた男が述べる、ある異見について紹介しておこう。
同氏は筆者の者に来るや唐突に、「上記表現は、“その手は喰わない”のパロディなどではなく、“その手”つまり相手の手を見ると、焼き蛤だったのだ。」と言った。
手が蛤...。これは確かに新説だ。同氏は続ける。「蛤は“貝合わせ(短歌の上の句と下の句を蛤の貝殻の内側に分けて書き込んで遊ぶ、百人一首みたいなもの)”に使われており、貝合わせ用の貝札制作者は根を詰める余り、手が貝になってしまったのだ。この表現が短歌の下の句と同じ十四文字で構成されているのはそのためだ。」なるほど。
その人が言うには、この言い回しが残るのはこのエピソードが貝合わせ職人らに感銘を与えたからであり、彼らの間に代々受け継がれ、積極的に巷間に広めたからだとのことだ。そしてその証拠として、彼はそれを書き込んだ貝を今回持ってきたとまで言った。
筆者は驚きと共にその貝を見せてもらった。確かに一方の貝にはこの表現が書き込まれている。しかしそれより驚いたことは、もう一方の貝に、この言い回しの上の句が書いてあったことだ。
言い回し わざわざ替える えせ議論
御粗末
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