穂滝薫理
ご存じの通り、キリスト教では十字架がシンボルとなっている。シンボルどころか、神聖なものとして、十字架をけがすことは、神とかキリスト教そのものへの冒涜とみられたりさえする。ちょっと古い例だが、かのマドンナが『ライク・ア・プレイヤー』のビデオクリップの中で十字架を燃やすシーンを使ったところ、不謹慎だということで放送禁止処分を受けたりしているのである。このような行為は、我々の目には過剰反応、というか奇異な感じがする。
なぜキリスト教徒は、十字架のようなものにそこまでこだわるのだろうか? ほかの宗教では、十字架のような“もの(あるいは単なる記号)”にシンボル性を持たせてはいない。普通は、神、またはその預言者、あるいはそれらの偶像がシンボルとなる。例えば仏教では、釈迦や阿弥陀如来、観音菩薩などの聖者(定義上の問題はこの際おく)、またはそれらの仏像(偶像)。お釈迦様を拝んだりはするだろうが、それにちなんだ“もの”をそれほど神聖視することはない。地図ではお寺のマークとかあるが、べつに人が死んだからって、お墓にカギ十字をたてたりしないし、あのマークそのものは神聖でもなんでもないだろう。偶像崇拝を厳しく戒めているイスラム教でも、唯一神アラー以外を拝んだりすることはない。コーランを神聖視することはあるかもしれないが、それはあくまでコーランに書かれている“神の言葉”が重要なのであって、コーランそのものを神聖視しているわけではないハズだ。神道ではすべてのもの(と言っても山とか木とかの自然物だが)に神が宿ると考えているので、あらゆるものが信仰の対象となりうるが、それも神様が宿っているからにほかならない。キリスト教の十字架に匹敵するものと言えば、唯一、ナチスとカギ十字の関係が似ているくらいか。
十字架は、イエス・キリストが自ら背負ってゴルゴダの丘だかにのぼって張り付けにされた、その拷問の道具であったにすぎない。いわば不名誉なものであり、敵側(ローマ)の道具であって、神聖視するどころか逆に憎んでもいいようなものだ。また、張り付けにされた時の道具であれば、いばらのかんむりでも、手足に打たれた五寸釘(かどうかはともかく)でもいいはずだ。
そのような矛盾を含みながらも、なぜキリスト教では十字架がシンボルなのか?
思い当たる合理的な理由は一つしかない。
十字架が先にあったのだ。十字架こそがキリスト教の神だったのだ。イエスがエルサレム郊外あたりの草原を歩いていると、光輝く十字架が目の前の高さ5メートルくらいのところに浮いていて(たぶん小さな羽根が2枚生えている)、イエスにこう言ったのだ。
「私はあなたがたの神である・・・」
それゆえ、イエスは十字架のペンダントを作り、常に身につけ、「十字架を崇めよ」と人々に説いてまわったのだ。だからこそ、十字架は神聖なのだ。火をつけるなんてもってのほか。けしからん。
おそらく、イエスの最期を聞いたローマ皇帝ティベリウスの言葉は次のようなものであったろう。
「はっはっは。自らが神と崇める十字架に張り付けられてその最期を遂げるとは、皮肉なものよ。なぁ宰相。」
「は。最高の演出かと思われます、陛下。」
皮肉なことに、それはキリスト教にとっても最高の演出だったようだ。イエスの弟子達はイエスと十字架の物語をネタとして布教を開始、そしてついに西暦380年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世は、キリスト教を国教と定めるにいたったのである。
参考文献:『マルコ福音書』『ルカ福音書』 以上、聖書より
『世界の宗教がわかる本』 ひろ さちや監修 主婦と生活社 720円
『人間イエス』 滝澤武人 講談社現代新書 680円
『仏教とは何か』 山折哲雄 中公新書 660円
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