うとうやすかた
「これが睡眠薬ですか…」
私の声を気にもとめず、まだ若さの残る少し陽に焼けた男がシートの束から1枚をつまみあげる。青い印刷の施された銀色の包装から小さな青い錠剤が転がり落ちた。人工的な色彩がアブナイ雰囲気を放っている。
ハルシオン――かつて、週刊誌上を賑わせた睡眠薬である。
強力な催眠作用を悪用するほか、自ら服用してその作用を楽しむ若者が問題になり、最近は医院でも処方しなくなってきているという。
薬の山を作った男がおもむろに口を開いた。
「今度パーティーを開こうと思うんだ」
――あらゆる銘柄の睡眠薬を並べおえた彼がケーキを囲んだほのぼのパーティーを催すわけがない。一体、俺に何を持ちかける気だ?
「で、君こういうの好きでしょ」
――待ってくれよ。俺は道を踏み外したくはないぜ。
「んぅ…、頼みがあるんだけど」
――ヤッバー。
どうやって断るか、セリフが頭の中を駆け巡っている間に、彼の説明が私に冷静さを取り戻させた。結局、彼が言うにはこうだった。睡眠薬は服用後の行動が面白いが、服用した本人や仲間が薬で眠ってしまっては何も分からない。そこで、俺に一人シラフで観察していてほしいというのだ。なるほど、これは願っても無いチャンスだ。
睡眠薬――正確には睡眠導入剤あるいは催眠鎮静剤などと呼ばれる。かつては「フーテン」なる人種が濫用し、溜まり場の新宿駅前には、睡眠薬のまわった若者がゴロゴロと倒れていたという。昭和30年代の話である。
時が下り、バブルの80年代、好景気に小金を持った若者の間で再び睡眠薬がブームになった。マスコミでもたびたびクローズアップされたハルシオンは特異な副作用から睡眠薬遊びの代表銘柄である。バブル景気の中、ハルシオンのヤミ価格は1錠5000円にもなった。(因みに現在は2000〜3000円程度である)若者が求める「特異な作用」とは実際どんなものか、実態を見てみよう。
人気のない深夜、波止場近くの空き倉庫の薄明かりの下、おもむろに道具が並べられ…、という情景とは程遠い、休日の昼下がり、普通の民家の一部屋に一同は集まったのだった。用意された睡眠薬はハルシオン、ライトコール、エバミール、ロラメット、そのほかさまざまな錠剤だ。
各自机の上に放り出されたシートからおもいおもいの飲みかたで服用を始めた。Aさんはエバミールを素直に水で飲み込んでいる。Bさんはまず、白い錠剤を下にのせて口中へ、Cさんはハルシオンをジュースで飲んでいる。Dさんは少し変わって、ハルシオンを丁寧につぶして粉にすると、カクテルにふりかけて、本当にふりかけのように浮いている睡眠薬を酒と一緒にすすっている。水に溶いて注射するなどといったすさまじい服用はみられなかったものの人それぞれに多様な服用のしかたがあるものだ。
突然、「まずい!」と大声が上がった。
振り返るとBさんが錠剤を吐き出している。Bさんがなめていた睡眠薬はライトコール、成分はハルシオンと同じもの。睡眠薬は大体にして苦いものだ。
「やっぱりこっち」
エバミールをつまみあげ再びなめはじめる。こんなものにも味覚の嗜好があるのだろうか。傍らのCさんも薬を追加している。
最年長でピッチも速いAさんに変化が生じているか尋ねてみる。
「俺、効きが悪いから…」
でも何やら目が据わってきたようにも見うけられる。一番軽そうなDさんは薬よりもお酒を飲みはじめてしまった。
15分程経過したところで、Bさんが眠気を訴えはじめた。さらに、Cさんが目がクラクラすると言い出した。薬で目がまわるというのもおもしろい。Dさんは相変わらず酒を飲み、Aさんは物静かに座っている。
30分が経過した。Aさんは変わらない。Bさんは我慢するのが辛いほど眠いと言う。Cさんは暫く横になっていて落ち着いてきたようだ。Dさんはまだ飲んでいる。
暫くして、眠くて仕方ないBさんを横目にCさんが復活、おしゃべりも快調に飛ばしている。Cさんは一同で最も小柄な人だ。そのCさんがニコニコしながら突然立ち上がり、Aさんを抱き上げた。
「完全に酔っ払いだよ!」
だれかが叫んだ。もっとも当のその声も楽しそうだ。笑いながらじゃれているCさんは、確かに酔っての行動そのものだ。一方でDさんはまだ飲んでいる。
1時間ほどたった頃、Aさんが実は眠っていることに気がついた。Cさんはおしゃべりモードもどり、とても元気に笑っている。
今度はDさんに異変が生じた。暗い表情で口を開き、
「心臓がバクバクする」
これはあせった。薬の濫用の上の不調だ。病院に運んだら全てがばれてしまう。かといってほうっておくわけにもいかない。周囲の連中は薬がまわっていて悠長なものだ。睡眠薬は鎮静作用もあるので、驚きや不安を抑えてしまっているらしい。ひとまず、Cさんのめまいのときと同じように横になってもらった。
「大丈夫だから」
Dさん自身のセリフだから、あまり信用できない。だが、静かに休んだのが功を奏したのか、その言葉通りに動悸も治まり事無きを得た。
夕方になり、薬の効果も切れてきたところを見計らってお開きになった。Aさん以外は眠ることなく、各自無事に帰宅できた。後からCさんにその酔っ払いぶりを尋ねたところ、騒動どころか自分で運転して帰った事すら覚えていなかった。睡眠薬で記憶をなくすというのは本当だ。
今回の4名の服薬の効果をまとめると
ハルシオン系:催眠、酩酊、動悸、眩暈、健忘
エバミール系:催眠
やはり、睡眠薬遊びの代表、ハルシオンは奇異反応が現れやすい。副作用にはアルコールに似た酩酊状態のほか、めまいや記憶障害が生じた事が興味深い。記憶障害は服用した後のことを忘れている。酩酊状態は饒舌、突飛な行動などアルコール同然であるが、運動能力への障害は少ないようだ。
アルコールとの同時摂取により動悸などの不快な副作用が生じた。
睡眠薬遊びは年齢の高いものでは酩酊を、若者は健忘を楽しむ者が多いようだが、その両方を見る事ができた。人によって生じる効果に差異が大きく、副作用と服用量やセッティング(周囲の状況や当人の心身の状態)との関係の分析には、今後さらに観察データの集積を待たなければならない。
薬学的な補足をすると、ハルシオンの副作用には依存性、一過性健忘、もうろう状態、刺激興奮、錯乱、眠気、ふらつき、めまい、頭痛、不安、いらいら感、協調運動失調、不快感、舌のもつれ、耳鳴り、霧視、転倒、多幸症、多夢、悪夢、鎮静、攻撃性、夢遊病、肝臓障害、呼吸器障害、消化器障害、循環器障害(血圧低下、動悸等)、過敏症、倦怠感、筋緊張低下、その他があげられている。今回見る事ができた症状も当てはまっている。
アルコールとの類似を指摘したが、WHO(世界保健機構)は麻薬などの依存性薬物の分類の中で睡眠薬とアルコールでひとつのカテゴリーに分類している。つけ加えると、アルコールと睡眠薬の同時摂取は肝臓へのダメージが大きいほか、互いに作用を強め合い呼吸を止める恐れがあるので問題のある行動である。
ハルシオンは睡眠薬の中では作用の強いものに分類される。内科等で処方できるものでは最強の1つだ。ある書籍でハルシオンは社会問題から今では処方されていないと記載されていたが、現在も精神・神経科では外来処方されている事を確認している。しかも、精神科の睡眠薬にはより強力なものがある。例えば、作用の速いアモバンや自殺で悪名高いバルビタールと鎮静剤を複合させたベゲタミンなどだ。これらの睡眠薬はハルシオンなどベンゾジアゼピン系催眠剤で効果のない患者に処方される。もっとも、これでも効かない患者は多いし、アモバンは副作用で口中に苦味が生じるため嫌う患者も多い。
最後にこの様な貴重な機会を与えてくれた某君と被験者の皆さんに感謝するとともに某君の免許と職が無事である事を心よりお祈り申し上げます。
なお、睡眠薬を含む向精神薬は医師の指示無く譲渡や販売はできません。
参考文献
菊池方利他編:治療薬マニュアル1994 (医学書院,1994)
|