上野均
一時期、経営の世界でリストラクションという概念が大変にもてはやされた。リストラクション、略してリストラの原理をあっちをはしょりこっちに勘弁願って一言で言うと、利益が上がらない部門、すなわち投資と比較して成果がマイナスになる部門に対する投資を調整する、ということになる。この投資には資金、物資などのほかに人材も含まれる。したがって、もっともドラスティックなリストラは不採算部門の撤廃、および人員削減、合理的な不採算社員の解雇を意味している。
経営理論としては、不採算という判断を何を基準に下すか(たとえば新技術への投資などは初めは採算が取れないことが多い)、雇用者の権利との整合性をいかに図るか、といった点が重要な論点となるが、ここではそれらには触れない。本稿で問題にしたいのは、リストラの背後にある、組織を統制する原理(便宜上リストラ原理と呼ぶ)が、どこまで普遍性を持つのかというテーマだ。
もう一度、リストラ原理を検討してみよう。要するにここで行なわれていることは、組織の構成要素を利益という基準で数値化し、効率の低いものを排除して、組織全体の効率を向上させる、という作業に他ならない。経済的利益を目的とする企業という組織体にとって、この原理は基本的に正しいことは容易に理解されるだろう。
では、この原理の適用外の組織とは何か。利益という概念をどのように設定するかにもよるが、かなりの組織に当てはまることが分かる。たとえば軍隊においては、利益を軍事的優位と置き換えれば、完全に妥当する。またはスポーツ組織。勝利という利益のためにリストラ原理は基本的には有効だ。
では友人関係はどうか。友人を組織と考えるのが難しければ、同好会的な集まりを想定してもよい。同好会にとって利益とは友好的な楽しい集まりの継続性そのものだ。この利益を著しく阻害する場合には、リストラ原理が作動する。
ここまで考えて、リストラ原理の作動がきわめて困難な組織として、家族を挙げることができるだろう。家族の目的とは何か、という問い自体が大問題だが、とりあえずは現代日本の家族においては同好会的な組織の自己目的化、すなわち組織を快適に維持すること自体が目的であるという側面は否定できない(かつての日本のように、家族をハウスホールド、つまり一種の経営体として捉える社会ならば、リストラ原理は成立する)。
家族と同好会の最大の相違点は、組織の拘束力だ。同好会は(原理的には)自発的な選択に基づいて拘束されているが、家族は選択できない。逆に家族の利益を損ねる構成要素に対しても、その強力な拘束力が作用して、排除が極めて困難なのである。現在も勘当というリストラは存在するが、家族という組織としては自己否定的な措置である。確かに不採算だからといって、家族から放り出されてはたまったものではない。
しかし、リストラ原理からの聖域としての家族は、すでに怪しくなっている。「リストラ離婚」という言葉がある。会社が倒産したり、クビになったり、出世レースにおいて致命的な人事を受けたとき、離婚を言い出されるサラリーマンは増加しているのだ。
ここで思い出されるのは、リストラの先進国とされるアメリカ合衆国における離婚率の高さだ。アメリカの離婚率の高さは、これまでそのピューリタン的な夫婦間恋愛を中心とする家族原理によって説明されてきた。恋愛状態が終われば夫婦関係も解消すべき(してもよい、ではなく、すべき、である点が重要)、というわけだ。しかし、それだけであろうか。
二度以上離婚を経験した夫婦を追跡調査したところ、複数の離婚によって配偶者との合計収入が上昇しているケースと、離婚するたびに配偶者と合わせた収入が下降の一途を辿るケースが存在する。この場合、前者は家族のリストラに成功した、後者は厳しい家族リストラの対象となったとはいえないだろうか。こうした状況下では問題行動を起こす子供も同様のリストラの対象となることが予測される。つまりリストラ先進国においては、家族もまた苛烈なリストラの対象たりうるのである。
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