加藤法之
奥歯に物が挟まったような物言いをする、などという言い回しがある。あることをハッキリと言いたいんだけれども様々な事情から言い出せないでいるというそんなムズ痒い状態が、奥歯の間に夕餉の食い遺しが引っかかって非常に収まりが悪い状態に似ていることからそう喩えられるのだろう。
だが、私は常々この言い回しに非常に憤りを感じている者の一人である。というのも、私の口中には親不知が左上の奥にデンと居を構えているのだが、親不知の常で、他の歯が全て完成した後に生えてきたものだから、その部分の歯並びが少々悪いのだ。そのため、私はしょっちゅうここで問題にした“奥歯の間に物が挟まる状態”になるのであり、で、その時の坐りの悪さと言ったらそれこそもう甚だしく、気になって気になって仕方がない。お陰で仕事にも全く身が入らず、あっと言う間に半日経ってしまい、はっとして上司を見ると、般若の面を付けてこちらを見据えているなんて事がよくある。そしてそんな風に、“奥歯に物が挟まっている状態”に常に馴染んでいる私にとっては、経験的にそれがどれくらい“奥歯に物が挟まった状態”かを熟知しているのである。
であるから、そうした私に何らかの拍子に、「君は奥歯に物が挟まったような物言いをするね。」などと人が言う場合、私は総じてムッとしてしまう。いや、図星を突かれたからではない。そうではなくて、私がその時に物事をハッキリ言わなかったときのムズ痒い状態が、実際の“奥歯に物が挟まった状態”のムズ痒さに比すると、それが比較のしようもなく小さいからなのだ。そんなとき私は思わず心の中で、「あなたは、奥歯に物が挟まったことがあるのか。もしあるのなら、軽々しく口に出すのは奥歯に物が挟まったときの状態に対して失礼ではないか。」などと呟いてしまい、しかしそれを口に出して言うことが出来ないので、更にそれがその場の“奥歯に物が挟まったような状態”を深めることになってしまう。嗚呼。
ではそんなとき、一体どうすれば良いのか。私はなにも“奥歯に物が挟まったような”と言う慣用句を使うなと言っているわけではない。そうではなくて、いやしくもそれまでの人生において“奥歯に物が挟まった”事があるなら、その経験を踏まえ、その言葉の真意に敬意を払った上で言葉を発するべきだと言っているのである。
そう、ある肯んぜぬ一事が生じたとき、その場のムズ痒い状態を表現する時、あの“奥歯に物が挟まった”時の苦労とその時の“場”をどんなときも一律に同列のものとして扱うことにそもそも無理があるのだ。つまり問題は、この譬えが用いられる際、その実際の状態と“奥歯に物が挟まった時の状態”が、ベクトルポテンシャルの比較ではなく単純にトポロジーの見地からのみ問題にされている、平たく言えば、相似関係をのみ重視していることにあるのだ。たとえ両者が同じく“ムズ痒さ”を喚起する物であっても、あることが持つ“ムズ痒さ”の大きさと、“奥歯に物が挟まった”時の“ムズ痒さ”の大きさ、このお互いの“ムズ痒さ”の絶対値を考慮していないことが問題なのである。そしてそうであるなら、両者を同じ俎上に扱う際にはしっかりとその基準を定めるという考え方が、当問題解決への一つの突破口になるだろう。
具体的には、この場合の譬えである“奥歯に物が挟まった”状態を一つの単位(気になるという方向性を持つ“場”を表すのだから当然ベクトル量である。)と考え、それと実際の出来事を照らし合わせてみて、それがどの位“奥歯に物が挟まった状態”に近いかを数値化する方法を採るのである。
つまり、ここにこの状態を、
Mg=(実際の出来事)/(奥歯に物が挟まった状態)
と公式化し(上記Mgは“ムズ痒指数”とでも名付けられようか。)、このMg値を、ムズ痒い状態を表現するときに上記慣用句に付加する事を提案するものである。
本案が非常に有効であることは例えば、A君(仮名)が友人から借金をせがまれて、それを渋った時を考えてみるとよく分かる。A君が「今お金ないんだよ。」と言いにくそうにしているとき、友人はA君に、「君は10m奥歯に物が挟まった言い方をするね。」と言うのだ。(mは10のマイナス三乗であるから、つまりここでのムズ痒指数は0.01であることになる。)
この何気ない会話の中から、我々はこれまでの類似の会話より格段に多くの情報を引き出すことが出来るのだ。何故なら、上記会話の中の定量化されたムズ痒い状態は、我々にとっての“奥歯に物が挟まった”経験から、これまでの漠然とした使用からは比較しようもないほど正確に演繹する事ができ、それによって今問題になっている事がどのくらい深刻なのかが一目でわかるのだ。自分の中での“奥歯に物が挟まった”経験の精度を上げれば上げるほどその認識率は高まるため、究極的には、A君(仮名)が友人に金を貸すことはやぶさかではないが、予約限定版等身大ホシノルリフィギュアの前金を払ってしまったために今はたまたま持ち合わせがないのだという状態も、比較的低いMg値であることから察せられるようになるのである。(Mg値は余程の事がないとミリ単位なのだが、私の個人的体験では、上司に「休日出勤してね。僕出ないけど。」と言われたとき、Mg値は3.8を記録した事がある。)
この考え方を拡張すると、“言うに言えないでいる時の時間”S(silence)[sec]は、
S=o・ln(奥歯に物が挟まった状態)
で示すことが出来、oを奥歯係数と呼ぶ(lnは自然対数)。この式は、気まずさが続けば続くほど、対峙しているどちらかが和解の姿勢を打ち出す可能性が大きくなることから導かれている。(これによって我々は、気まずい沈黙は“奥歯に物が挟まった状態”の大きさにどこまでも比例して線形に長くなることはないという結論を導き出せるため、ほっと一息安堵するのである。)
こうして、“奥歯に物が挟まったような状態”の数値化を提案してきたわけだが、こうした抽象的な概念の数値化は、実は他の単位で随分前から行われている事なのだが(“木っ端微塵”とか、“感慨無量”と言うときの“微塵”,“無量”は数の単位である)、それらは案外知られていない。そこで今度は視点を変えて、そうした単位のあれこれを紹介していくことにしよう。
美麗な女性の流し目に自分の目が合ってしまった時の衝撃度数を、電撃に相関させる事に成功した研究者がいた。この概念は一般に、“君の瞳は10,000ボルト”なる歌謡曲として巷間に流布したから、結構長生きをしている人なら覚えていると思う。当時、「電撃ならアンペアで表現すべきだろう。」などと無粋なことを言う学者がいたが、女性の持つ魅力に気付かない人間にはそうした電撃は流れないので、そうした岩窟な野暮天度合いを抵抗値と考えれば、
衝撃度合い(I)=女性の魅力(V)/野暮加減(R)
と算出でき、そうした感性を持つ人に向けて作られた上記歌が、実は正統派だったことが示されるのである。
この式はある刺激に対してどのように反応するかの一般式に拡張できることが現在では知られている。つまり、ある情報(魅力V)に対してどう反応する(衝撃度合いI)するかは、それを受け取る側にどれだけそれを感じ取るセンスがあるかに比例しているのであり、野暮加減に反比例するというわけなのだ。
「野暮な者にゃこれの良さは判らないよ。」なる言葉は、こうして理論的裏付けをされるのである。
人前で歌うような機会があるとき、どれほど歌に集中できるかを示す単位もある。
これは、自分に酔って歌うという、たいして巧くもないくせにマイウェイを歌う得意先の部長を指すのとは少し意味合いが異なり、子供向けのマンガの主題歌をどれだけ羞恥心無く歌えるかという時に使う。
曲が乗って来れば当然、聴いてる方も乗ってくる。徐々に盛り上がってきて最高潮に達し、さぁ必殺技だ! という段になって、はっと自分の中のもう一人の自分が囁いたために我に返ってしまう。そうなったらもうだめだ。後はもうしょぼしょぼの声で歌ってしまい、途端に周囲も興ざめだ。そしてそんなとき、誰かがその歌い手にこう言うのだ。
「君は水木三十郎だな。」
この数値の特徴的なのは、数字が多いほど未熟者を表すということだろう。だからこれは一郎という数値が最高位にある事になる。この壁を越えることは、出来るかも知れないが、とても難しい。(セガカラの“全国得点ランキング”で一位を取った人は自ら“水木ZERO”と名乗っているらしいが...。)
うまい話が来たときにする“鴨がネギ背負ってやってきた”と言うのがある。実際に鴨がネギ背負ってやってくるわけではないので、言い回しそのものを見ると定量化が難しいようなのだが、こうした表現をするときに実際に得られた利益は純粋に金銭として定量化できるため、SI単位系に巧話量KN(カモネギー)が採用されている。
ミュージカルなどの公演を一発あてると利益が大きいことから、劇場名としてカーネギーホールの名が見られるが、あれは巧話量の身近な例である。(鴨ネギとカーネギーホールの関係は昔から良く知られている。私は二十数年前、テレビランドの付録に付いていた“欽ちゃんの面白なぞなぞ大百科”で、「鴨がネギを担いでくる劇場はどこでしょう。」と言うなぞなぞで同劇場の存在を知った程だ。)
ゲームショップの開店記念にゲームキャラのトレカが配られるときの巧話量として15KNを弾きだした友人がいたが、千円以上お買いあげの方などと条件があるので、私に言わせれば正しくは店側にとって30KNなのである。(そうした思いで手に入れたトレカの図柄は、えてして早乙女良雄だったりする。)
そもそも、巧話量は次の式で表される。
巧話量=幸運×価値(金銭など)÷(選抜人数/全体)
ここに“全体”とは、選抜された人のことを羨望する人間全てを指す。欲しがる人が多ければ多いほど巧話量は高くなるわけだが、巧話量が高いと選抜されること自体減ってしまう。つまり、うまい話はそうそうないのである。
アニメに傾倒する者達の、一般人とは少し異なる褻(け)の概念を表す単位もある。
測り方はごく簡単で、本日あなたがこの本と同様に会場で買っていった同人誌を見回して、表紙がロリ系キャラクターである冊数を数えればよいだけである。
幼性嗜好指数といわれるこの単位はしかし、変更されることが甚だしく、最近まで通用していたRuli2なる単位(若い人は知らないだろうが、この単位は15年前に一度使われている。2は2回目という意味をも表している。)は、この本が人目に触れる頃にはSakura.ccになっているかもしれない。(ccは付けないと駄目なんだそうだ。)
これまでに単位となった名称で、メジャーなところではClaris,Mo2,Cha2,Sammy(準単位Misa)などであろうか。この単位は一年保つ事はまれで、私が知っているだけでもこれまでに変わった名前を三十程列挙することが出来るのだが、作者の好みの変遷と思われるのも心外なので、この辺でやめておく。
ある基準を作ったものの、以降それを使用するときにその基準が小さくなりすぎて困ってしまうことがある。
以前、つまらない物の基準として、GvsGと言うものを使っていた。これは“ゴジラVSキングギドラ”と読むのだが、これ以降毎年作られる同シリーズを見る度に友人間では、「ゴジラvsモスラは990,000GvsGだったね。」「ゴジラvsメカゴジラは2,800,000GvsGだったよな。」「ゴジラvsスペースゴジラは14,400,000,000GvsGじゃねぇか。」「ゴジラvsデストロイアなんて920,000,000,000GvsGでさぁ。」などという会話が交わされてしまい、まるでハードディスクの容量のように使用量がはね上がってしまった。数値をいちいち言うのも面倒なので、我々の間ではこれらをツクモスラ(99だから)、メガ(M)ゴジラ、ステイシゴジラ(三桁以下切り捨てで14になる)、ギガ(G)ントロイアなどと通称している。しかし世間は凄いもので、733,000,000,000,000,000,000,000GvsGなどと、ここまで来ると一体どうやって読むのか分からないといった数値を弾き出したヤマトタケルなんて物もある。(モスラシリーズはスカウターを破壊している。)
世間は斯様に広いが、特撮界の脚本家層は、オゾン層のようにもろくて薄い。
逆に、基準となる物がとても大きすぎて、先例である奥歯単位よりも遙かに標準使用時の単位量が小さい単位もある。日常使用される量がp(ピコ:10の-12乗)とかf(フェムト:10の-15乗)とかの単位で表されるそれは、“こわさ基準”と言われるもので、単位を“皇室報道”と言う。
この標準単位は、我が身や家族のことを考えるとこれはもう余程のことがないと手を出してはいけないものであるということは、この国に何となく生きていれば痛いほど分かることである。これが基準となっているものだから、日常のこわさを表す際にはまるで電流アンペールのように、上述したような小さな単位を使わなければならないのである。だからこの単位で表現すると、最大加速75Gのウルトラスーパーデラックスコースターでさえ80p皇室報道になってしまう。
とろこでこの単位、勇気の標準単位にも使われている。ただ、こっちの方も日常生活には大きすぎるようだ。
(念のため、私はこの単位の存在に対して何ら政治的意図は持たないことを付記しておく。ちなみに現在本稿でこの単位を紹介するこわさは40m皇室報道くらいである。)
このような、数値化した言い回しをする利点は、なんといっても表現時の具体性が増すことである。礎となるものがお互いに共通の経験であり、そこからどの程度の差があるかが示されるのであるから、この方法により伝達の不明瞭性が格段に少なくなるのだ。
他者に対し自分の意志を明確にすることが出来ない人は、椅子に座る前にこの語法を用いてみよう。頑固なロリコン親父にも、精神病の栄養失調おねぇちゃんにも、あなたの心はすぐに理解され、祝辞と拍手とをもって迎えられるだろう。
そうしてこの語法が日本人の多くの日常会話にまで浸透した暁には、曖昧と言われた日本語がドイツ語同様カルテに記載される日も夢ではないかも知れないのだ。(と述べる文に仮定が多いのは些細な愛嬌である。)
さてこうして、言い回しの数値化という、革新的語法論をこの論文では述べてきたのだが、最後に筆者に起きたある事実も付記しておくのが真摯というものであろう。
先頃開かれた日本転移学会(コミュニケーションの研究を主眼にしている会)において、満を持して同理論を発表した筆者は、質疑応答の時間に、その研究の価値はどうかと追求され、
「いやぁこれがどうも私がはっきり言うのはどうかなぁと思ってしまったりするところなんだけども...。」
とまぁ、奥歯に物が挟まったような言い方しか出来なかったのである。
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