意素言語原論

高橋 英明




0:序論
我々は、「理想(、在るべき状態)」を目指し 「様々な手段」で 環境を改善し 進化してきた。人は科学を得り、科学は人を有能にし、有能な人は科学を育て、進化した科学は…何が何だか解らないが 兎に角凄い。科学(技術)は 最早(「人の能力」に留まらず)人の存在(の意味、意義、意図)自体を変え続けている。
 蓋し今、情報機器(computer等)も 驚異的な速度で拡張し変化を続けている。その規模は 既に国際的に広がり、情報通信網と呼ばれるそれは 最早 距離ではなく、高品質に向かい進化している。だが 残念な事に その(進化の)方向は、「情報量と通信速度」(情報環境)のみが注目を集め、重大な要素を見落とされている。
今、此処で我々は 思い込みに捕らわれずに (その盲点である) 「情報自体の質」に目を向けよう。

 とはいえ、今は意味内容の質(…どの様な事が表現に値するか)についてはまだ語るべき時代ではない(ので議論しない)。問題提起は (意味内容の伝達を可能にする)「表現」 に於ける質である。つまりこの論文は 「(人の)完全な表現」を提唱する物である。

1:挫折と妥協
 我々は社会生活を営むためにもっぱら他者と意志疎通を試みている。だがその試みは 概ね挫折し、完全な理解には至らぬまま妥協している。それに対して「完全な理解を為させる表現」を「完全な表現」と呼ぼう。

2:完全な情報
有限の線分すら 無限に分割することが (概念では)可能だ。この現実空間の (情報の記憶媒体に起因する有限の)記憶容量に(記号の定義を含んだ)完全な情報は納めきれない。 故に、完全な情報は構成し得ない(∴完全な理解のために 完全な情報は用得ない)。だが ここで、完全な表現を諦めるのは早計だ。完全な理解に完全な情報が必要とは限らない。
(完全な情報を用いずに)「完全な理解」を得るために、「理解」を考察しよう。

3:理解の精度
科学の光は未知の闇から神秘の帳を奪い去り、驚くべき事実を明らかにした。それは、「我々は事実を把握できない」という事実である。 実は色一つを採ってみても、我々は正確な認知を出来ない。人は人体の構造上、色を「明るさ、青成分、緑成分、赤成分」という四種類の「偏った検知器」で抽象化して知覚している。従って見えない光はその僅かな成分を除いては知る由もなく、それぞれの検知器が検知する成分を(同一に)調整した光は同色だと認知してしまう位、人の知覚・感覚は不正確なのだ。故に人に対して(光に於いて、波形迄特定する程の)完全な情報は過分なのである。
 そして、「完全な(同一の波形としての)色は再現しにくい」が、「人が鑑賞する色は、(人という前提から)前述の四要素(但し極一部の人間では5要素※)を整えるだけで再現可能」である。この事は、理解の再現性に可能性をもたらす。
※進化過程で(夜行性だった時期に)失われていた 昼間色で優位な色の錐体機能が 恢復しつつあるという報告がある。

4:理解の構造
  複雑な表象は(発音に於ける 母音と子音の様に)素となる要素の組み合わせで表現が可能だ。"素"という概念の定義により、「我々が理解する概念は (何らかの)素となる概念 の組み合わせ」だと云える。
 驚くべき事に、(我々は記号を後天的にも形成するが)認識の「素」成分は先天的に備えているという報告がある。ソシュールは 「すべての言語に規則性がある」と指摘したが、チョムスキーは更に踏み込み「人間言語」という概念を提唱した。要するに人間の脳に起因する規則性は全人類に共通するため、人の言語はその基底に、普遍文法を形成しているというのだ。
 この指摘は、「完全な表現(完全な理解)」に対し、可能性を開くのである。
なぜなら、「我々が後天的に学びうる概念が先天的記号の複合物に過ぎない」とすれば、「先天的記号のみの組み合わせで(我々が理解・把握しうる)すべての意味をすべて表現し得る」。更に、「素となる記号の定義が既に為されている」から、素単位で情報の運用が可能である。本稿では人間に共通の、先天的な「素」となる概念を(仮に) いそ(意素) と呼称する。

5:誤解の構造
 時に、我々が同一の「素(そ)」を素(もと)に 理解を行うのなら、なぜ我々は誤解を生むのだろうか。その原因の候補として、「後天的記号形成の誤差」と、「記号運用の自由度による誤差」が 挙げられる。(例えば、「バカ」という 記号には、「愛すべき」という要素が含まれるだろうか?また、例文「たくさんの誤差を産む記号」 は、「数多の記号 が誤差を産む」のか、「単一の記号が 誤差を多発する」のか、特定できない) 厳格に差違を指摘すれば、日本語は日本語を話す人と同じ数の種類があるだろう。  故に ある表現が、「自己の心理状態と矛盾しない」と言う意味で「正しい」としても、「他者に再現性を与えない(…他者が状態を再構築出来ない)」情報であれば、「不正確」である。 (「自分にとって解釈は一つ」の表現であっても、「観測者にとって解釈が一つ」とは保証できない)
結論から云えば、現状で「完全な表現」は (記号(運用上)の自由度が災いし)不可能なのである。

6:完全な表現
しかし、「(素となる概念、)意素」と その「利用意図(文法的位置付け)」のそれぞれを明確に定義し、特定の規則に基づいて記述されたとしよう。そうすれば後天的記号形成の誤差はその差違すら明確に記述され、記号形成に於ける誤解は回避できる。
また、表現としての文自体も 新たな(単一の)記号として捉えれば、同様の対策で 運用誤差も回避できる。つまり、「完全な表現」が得られる事だろう。だが、素となる記号のみで何らかの概念を表現した場合、莫大な容量を要す事が容易に想像できる。

7:文明人の責務
 考えて欲しい。古代人は、「毎日巨大な鉄の箱に寿司詰めされながら片道三時間かけて自分(の労働力)を売りに行く」事を望むだろうか。
一見不条理な光景であろうとも、我々は高度な文明(を築いた現代人)の一員として、斯様な routine work から逃れることは赦されない。文明とはかくも厳しくかつそれに値する程尊き物なのだ。そして我々は今、遂に長年の夢であった「誤解の生じ得ない完璧な表現」を手に入れる事が可能になろうとしている。だからただ一言、朝の挨拶を記述するのに たとえ3年かかろうとも、躊躇すべきではない。左様に迄自己を見つめる行為は崇高であり、文化的である。斯様な尊大なる文化的な生活の前に(三年や五年の歳月など)は極めてわずかな犠牲なのだから。
補稿
 先の部分では 論理的飛躍を行う為に、敢えて 実現可能性には触れなかったが、高度な文化は高度な文明に支えられるべきである。此処からは 態度を豹変し 実用化の方法を検討したい。

a:諸処の問題点
・ 莫大な情報を記述・解読することは 非実現的だ。
・ 厳格な文法が定義されたとしても、それを我々が用いることが可能だろうか? ・ 娯楽としての文章から逸脱するとき、本稿の姿勢が 机上理論 に対し問題ではないか? b:実現への新機軸  情報量…人だけでは不可能な量で あろうと、電脳(D.S.P.…Digital Signal Processor)を活用すれば 莫大な情報量を処理できる。更に電脳は厳格な言語と 我々の口語を仲介し、我々が 完全な表現を 行うことを支援しうるのである。次に、その可能性を構築例とその仕組みにより解説しよう。 c:F.E.P.  (漢字・仮名を入り交じえ利用する)我が國の情報端末では、F.E.P.(Front End Processor)と呼ばれる入力仲介ソフトを利用する。(漢字入力F.E.P.は、発音情報(「読み」)を受け取り、漢字情報(「書き」)を類推し 漢字候補を提示する事で漢字入力を支援する機能を持つ)  更に一部の学習機能を持つF.E.P.は 利用者個人に特化した入力環境を構築していく。 (例えば 「じゅんしゅ(遵守)」という言葉を 「そんしゅ」と読む人が居る。その人が 誤解し続けても、(F.E.P.の学習機能等で)(誤読と漢字を)辞書登録する事で その変換が可能になる。)つまり、「独自の記号付け」を「標準の表記」に変換することが出来るのだ(…通常と異なる文法で入力されても、表現物は正常になる)。  このF.E.P.の概念を拡張し、口語と意素言語を仲介させれば、我々は(自分が用いる言語を放棄し、脳に新たな言語を再構築する手間を懸ける事なく)意素言語の恩恵に与る事が出来る。「自分勝手な(再現性のない)用語の定義」と「独り善がりな(再現性の低い)文法」を、標準(として定義された「記号と文法」の)表現へ変換すれば事足りるのである。 自分勝手であろうと、(同一の定義で一貫して用いられているのならば) 意素F.E.P.が標準記法との誤差を吸収してくれる。(定義が変化する場合でも、(再定義する手間が懸かるけれど)運用は可能だろう。)  更に、(現在では入力にしか用いられていないF.E.P.だが) 入力時とは逆の処理を行うことにより、標準の記法による表現物を、(自分にとっては最も理解し易いであろう)「俺的」な表現(個人方言)に変えて鑑賞する事が出来る。(つまり、意素言語F.E.P.は鑑賞時に難解な標準意素言語を 個人版意素言語に翻訳出来る様に成るだろう。)また、意素言語に於いて国語間の相違は個人間の相違以上の物ではない。よって、国際的な情報交換を一層容易にするだろう(…誤差のない自動翻訳が可能になる)。

d:傾向と対策
 冒頭でも述べた様に科学技術(…情報通信網による社会基盤等)の進化は、我々に更なる進化を促している。その中で、認知科学(言語心理学、認知心理学など)の発展が、より正確な、完全とも呼べる情報の形態をもたらすだろう。
 だがここで現状の情報通信網を顧みると、なんと未だに通信に於いて「(記録に用いられてきた)文字」を用いて居るのである。加えて現在の情報通信網では、(情報の仲介のみを機械が行うが)「表現活動は依然として人間が行っている」。
 現在、電脳での構文解析による 自動翻訳の研究も為されているようだが、それはあまりに自分勝手な解決法だろう(…不確かな言葉を用いながら自己の態度を反省することなく機械に完全性を期待しているのだから)。人が意志疎通を図るとき、従来の言語よりも人に適した言語を用いる解決法は、強力であるにもかかわらず無視され続けている。しかし、我々が 更に高度な文化を築くためには、避けては通れないだろう。
 自堕落に生きている我々にとって、真摯に現実を直視することは 険しく、苦難に満ちている。だがしかし、問題の明確化は「複雑化した社会問題」の解決に有効であり、唯一の解決策でもある。民族紛争、領土重複、人口増加、食糧危機、南北格差、環境破壊。
極めて深刻な問題を数多く抱えた現代に於いて、「意素言語実現の阻止」は諦める他は無かろう。

e:顛末
 斯様な公共の利益を目的とした研究は公的な機関によって研究が行われるべきと存ずる。通産省や文部省(文化庁)、郵政省の諸君には 縄張り根性などは一切払拭し、斯様な公務の遂行を為される事を期待する。一刻も早い 「意素言語の実現」、「標準言語の制定」、「意素F.E.P.の実現化」に期待したい。
 問題の明確化を伴う意素言語は 「尊敬に値する公務」を行うべき諸君を 「敬愛に値する者」に昇華させるだろう(…責任逃れの「お役所仕事」を駆逐してしまうからである)。
実(げ)に恐ろしき は 「科学の進歩」よ。


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