上野均
昨今、未成年による凶悪事件が増加しており、その原因を巡って様々な議論がなされている。原因の解明なくして、問題の解決なし。不変の真理である。
もっともたったひとつ、原因を不問に付したまま、この問題を根底から解決する方法がある。未成年という制度を廃止してしまえばいいのだ。選挙も煙草も結婚も各種免許も、一切、年齢制限をなくしてしまえば、少なくとも未成年の凶悪事件はゼロになる。そして普通の凶悪事件となるのである。事件の発生自体は抑制されないという些細な問題を除けば、ほぼ完璧な理論だと自負しているが、残念ながら、少年非行学会においては、異端視され続けている。学会では古典的な原因―結果図式を尊重する傾向が、依然として主流なのだ。
そこで、ここでは基本に立ち返って、未成年による凶悪犯罪の原因を探ることとしよう。大雑把にいって、未成年が事件を犯した場合に取り沙汰されるのは、以下の6つの要因である。これを責任の妥当性、対策の有効性(効果が高く、かつ容易であること)という観点から検討を加えてみよう。
@ 本人が悪い
A 親が悪い
B 学校が悪い
C 社会が悪い
D その他、もっと超越的なものが悪い
E 悪くない
このなかで最も古くから唱えられ、かつ現在も本命視されているのがAの「親が悪い」説だろう。
@ の「本人が悪い」説は確かに妥当性は高いように見える。ナイフで人を刺殺したり、ゆえなく人を拉致監禁した上、暴行し殺害し死体遺棄をした当人が悪くない(つまりE)というのは(それなりの整合性はあるが)、学会でもかなりの少数意見に属している。しかし、問題は本人のどこが悪いか、だ。ここで「本人のもって生まれた性格が悪い」とする性悪説は、遺伝という観点から、つまるところ両親に帰着する。また「本人が後に身につけた教育が悪い」とする立場は、AからCまでの議論に包摂されてしまう。この場合も、もっとも早期から実施される家庭教育が重要視される傾向が強く、「親が悪い」説の優位を示している。
また@の問題点としては、防犯対策としてはあまり有効とは言い難いことが挙げられるだろう。なぜなら、「本人が悪い」かどうかは事後的にしか決定し得ないからである。誰かが刺され、誰かの首が校門に置かれて、ようやく「本人」が誰かわかるのだ。
一方、Cの「社会が悪い」という説はどうだろうか。この説の難点は「良い社会」と「悪い社会」が存在しなくてはならないことだ。仮に少女が売春し、少年がコカインをキメる社会を「悪い社会」としてみよう。これを批判するとき、批判者は「良い社会」の側に立つことになる。しかし、実際には批判者の属する社会において、まさに未成年の凶悪犯罪が起きているのだ。「良い社会」とは常に幻に過ぎないのである。そもそもそんなに「良い社会」ならば、解決すべき犯罪自体が起きていないはずではないか。
ではBの「学校が悪い」はどうか。これも根強い人気がある学説だ。この学説の正しさを完璧に立証する方法がひとつある。早い話が、学校を全廃してしまえばいいのだ。それでも未成年の犯罪が起こるとしたら、「学校が悪い」説は決定的なダメージを受けることだろう。また「学校が悪い」という説が成立するためには、「学校は未成年に強い影響を与える」という前提が必要である。もし学校が本格的に機能不全に陥れば、「学校は未成年に影響を与えることができない」存在となり、この場合も、「学校が悪い」説は成立しない。
更に言えば、学校はしょせん社会の一機関に過ぎない、という限界もある。そのため、より包括的には第四の「社会が悪い」説に組み込まれる傾向が強いのも、ひとつの難点といえるだろう。
さてこのようにみていくと、Aの「親が悪い」説の妥当性の高さが一層際立ってくる。実際にも未成年の法的責任のおおくは、保護者とされる家族に帰せられる。これはペットが人を噛んだとき、飼主の管理責任が問われる例を考えると、理解しやすい。
加えて対策の有効性という面からみて、「親が悪い」説が抜群に優れている点は、責任が特定できる、ということだ。ひとつの社会が「良い社会」と「悪い社会」に分裂してしまうのは理論的不整合というほかないが、ひとつの社会に「良い家庭」と「悪い家庭」があることは別に矛盾でもなんでもない。
では、どんな家庭が「悪い家庭」「悪い親」なのか。かなり長い間、貧困や片親であることなどが少年非行の原因とする学説が主流だった。しかし、これは差別というものだ。差別である以上、その学説は誤っているに決まっているのである。したがって親の貧困や階級、職業や信条などなどは、少年非行の原因とは全くならない。
近年、人気を博しているのは、子供を強く叱ることができない親が諸悪の根源、という説である。これは子供の発育には乗り越えるべき超自我が必要だという精神分析的な知見によっても裏付けられている。しかも子供も叱ることができないような親を多少強く非難したところで、強い反論や強硬な抗議などを食らうこともない。批判対象として、安全かつ無力であるという点も、対策の容易性、という観点から評価できるのである。
いずれにしても、少年非行問題はすなわち非行少年を生む親の問題である。すると、解決すべきは非行少年を生む親の問題となる。これを解決する方法は、論理的にたったひとつしかない。つまり、非行少年を生む親を育てた親の問題を解決することだ。親が悪いということは、原理的に言って親の親が悪いということにほかならない。当然、これはどこまでも遡行することが可能である。少年非行は祖先の責任なのだ。このことは歴史的にも証明することができる。
祖先をどんどん遡って、ついに最初の人類に辿りついたとしよう。そこには、ちゃっちゃっと一日ででっち上げた息子に、何不自由なく暮らせる楽園と女まであてがってしまう親馬鹿の姿を見ることができる。甘やかされて育った息子たちは、やがて蛇=バイヤーにそそのかされて、禁断の実、つまり食べるとそれまでとは違った気分になるもの=ドラッグを口にし、楽園を追放される。おそらく狡猾な蛇のことだ、女に禁断の実を只で与えたはずはない。ここで人類最初の援助交際が成立した可能性もかなり高いといわざるを得ない。この一家の崩壊ぶりはこれだけに留まらない。親馬鹿はやたらに厳格な父を演じるのだが、追放したあとの一族の子育てにも延々と口出しを続ける。そこで起きたのが、兄による弟殺人事件だ。親馬鹿が弟ばかりをエコヒイキするのに、兄がキレてしまったのである。
もうおわかりだろう。少年非行の原因は人類をこしらえた親馬鹿、すなわち神にある。ここで冒頭の分類に立ち戻って欲しい。現在の少年非行理論の最前線において、もっとも有力なのはDの「その他、超越的なもの=神が悪い」説ののである。近年起きた未成年の凶悪事件において「バモイドオキ神」なる馴染みのない神様が登場したのも偶然でもなければ、少年の気まぐれでもない。「バモイドオキ神」は、すなわち少年の最初の先祖のことだったのである。
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