大魔人プンプンプン

加藤法之




[1]はじめに

 かつて、大魔人が暴れたというのは、それが伝説として語り継がれねばならないほど希なことであったらしい。どの位希だったかという例には、He,Ne,Ar,Kr,Xe,Rnの次に見つかった原子番号118の希ガス元素にDm(Dai-mazin)と付けられたことを挙げれば良いだろうか。(ちなみに正式名はキレノンと言う。Dmはシンボリックな当て字と思われる。)
 しかしそれはあくまで以前のこと、彼の伝説から数百年を経、新世紀を目前に控えている現在、大魔人の、それまでのおとなしい表情から一転した、激烈な怒りを表現した憤怒の形相への変転(いわゆる江守徹化)は、途轍もない頻度で起こるようになっている。巷間に“切れる”と表現されているそれは、あまりの多さに最早回数を数えることさえ意味を為さず、理科年表には新種のパルス波として周波数表中に記載されてしまっている。(以下に頻出する“江守化”なる表記は、基本的に“切れる”と同義だと思って欲しい。また、ここに同名の俳優とは一切無関係なのでご注意のこと。異存のある方は遠慮は全くいらないので、緒方拳と読み替えてもらいたい。筆者)
 数多発生した大魔人達のこうした江守化がもたらした、教育代官へのエアガンの発砲、ナイフによる刺殺、集団による暴行等々に代表される諸事件によって、昨今の教育現場は全国津々浦々に至るまで蹂躙されているのが実状である。学校は正に何でもありの修羅場と化しており、仄聞には、オリバーストーンが取材の準備をしているという噂さえ聞く。実際、このまま行けば全国の教室は、機関銃や手榴弾、高射砲や拡散波動砲が飛び交う二百三高地となるのも時間の問題であろう。


[2]今昔大魔人の類項とは

 伝説に伝わる大魔人と昨今の大魔人は一見余りにも違うので、現在の大魔人の方はホントはただの不良なんじゃないのかとの疑念を呈される向きがあることは十分承知している。だが、筆者が敢えて大魔人の表記を続けるのはそれなりの確信があるからなので、まずそれをはっきりさせておこう。過去の大魔人と現在の大魔人が同種かもしくはごく近縁種であると筆者が判断する理由は、両者に類似した行動が大きく分けて以下に示すように三つ見られるからである。
 1.日常(平静)時の没個性
 目と口に三つの穴が開いているだけで他とはまるで見分けの付かない普段の無個性な彼ら(最近の教育代官は、教育大学において働き蟻の個性を見分ける訓練を受けねばならないほどだ。)は、埴輪のように自分の感情を見せない。ために人々からはある種敬虔とも言える畏怖の念をもって崇められている。
(これは具体的には、PTAや臨教審、文部省や関市の刃物メーカー(通称、四天王)などによって構成される厳格な教義に基づいており、教育代官が大魔人様に少しでも触れようものなら、左遷,解雇,誹謗中傷,村八分と、とにかくもの凄い“天罰”が降る。)
 2.頻度の差はあれ、大魔人は、自分の大切なものを傷つけられた事を、“江守化”の判断基準としている
 その昔は敬虔な少女が乱暴狼藉のあげく帯を解いてくるくるくる「あれーご無体な」されてから惨殺されるという位の事がないと江守化しなかったのであるが、最近では“自分への注意が多かった”とか“友達が授業中に指名された”とかが、彼らにとっての大事なものらしく、江守化もそういうことで起きる。
(なんかもうそんなんでよく中学までもったなと思えるが、実は彼らの所属したのは1クラスが約三〇〇万人なので、ホントに指名されるのが初めてだったという説もある。そんな状況は我々にとって俄に理解しがたいものだが、ナチの党大会で直接名前呼ばれて昨日の晩の立ち小便を糾弾されるようなものと言えば近いのだろうか。)
 3.江守化以降の行動の類似
 “現在大魔人”説を唱えるにあたって非常に強い説得力を持つのが最後に挙げたこれである。一度切れたらかっぱえびせんな現在大魔人のその暴走ぶりは、代官を串刺しにした往年のそれの残酷さを思い出させるに十分な凶暴性を具えているのだ。
(特にこれについては、猟奇的な面では寧ろ過去を更に上回ろうとしているとさえ指摘出来る。バタフライナイフから十徳ナイフへの彼らの流行携帯武器の移行傾向がその顕著な例であり、そこには切るという行為に飽きたらず、斬りつける,刺す,突く,削る,開ける,抜くといったバラエティに富んだ攻撃方法によって対象を活け作りにしようという意図が暗喩されているのだ。これに加えてまた、TV番組から影響を受ける状況もまた猟奇性過剰化の一因としてよいだろう。ナイフを携帯するドラマに影響された者の例もあるからだ。故に、今日の料理に影響されたと思われる、大魔人達の間での大根の桂むきの流行には、筆者は空恐ろしさすら感じているのだ。)


[3]大魔人のミッシング・リングを探る

 ここまでで、教育現場での大魔人達の激情的性格の爆発が及ぼす被害の現状と、それが過去の大魔人を継承したものであると見る根拠について論じてきた。こうして明らかになったことを踏まえて次に疑問となるのは、数百年の時を越えて突然湧出したかに見える大魔人達は、この空白期間をどうしていたのかという点だろう。
 この世紀末に来ての大魔人達の大量復活。それはいわゆる、地元ではかねがね存在を噂されながらようやく発見され、その途端に絶滅危機指定種とされて特別天然記念物に指定されるイリオモテヤマネコやヤンバルクイナといったこれまでの一連の発見騒ぎとは、発生個体数が群を抜いている点で明らかに一線を画している。これは明らかに彼らが、平家の落ち武者や横井さんのようにどこかに局地的に隠れていた訳ではないことを示すものだ。
 筆者の仮定はこれについて論理的な検討を促す解を与える。すなわち、大魔人達は人間の中に紛れ込んで、その能力を発揮する時期を待っていたというものだ。この説なら、人間集団への混在比が未知数ではあるとはいえ、現在の大発生状況が、ウイルス感染との類似性から説明出来るのだ。と言うことで、次のステップとしてこの仮説の証明が要求されるのだが、直接証明は不可能であるから、歴史における既知の現象から間接的に迫ることになる。
 羊皮紙に書いていたほどの昔の日記に、筆者の学生時代の記録がしたためられているのだが、その中に、“近年ノ学徒、常ニ学生衣ノ頚ヲ開ケ放チタル者ノ数甚ダシ”とある。学生服(俗に言うガクランタイプ)の頸部の金具を留めていない事に言及しているのであるが、第一ボタンに対して云々していないことは注目に値する。これは実際筆者の記憶にもあることなのだが、当時は確かに第一ボタンを外している学生はいたにせよ少数だった様に思う。転じて現在の学生達を見るとどうだろうか。第一ボタンどころか、うっかりするとボタンを填めていない者も多い状況である。この両者間の時代的推移をどう見るだろうか。カルロス・リベラな者が増えたと言ってしまえばそれまでだが、この着こなしの流行の変化を自由度の高まりと見なすと、呈示問題との関わりが見えてくるのだ。
 昔日の着こなしと比べて填められなくなったボタンの数と、大魔人の増加は明らかに反比例を描く。この事実から、学生服からの解放と、大魔人の力の解放を関係あるものとして結び付けるのは強引な論理ではあるまい。つまりそこから前述の仮定、大魔人は人の中に秘めた存在として抑圧されていたという説が演繹できるのだ。
 人間と大魔人との関わりがこうして明確化したが、ここに学生服の影の機能も浮き彫りになったことにお気づきだろうか。これまで、まるで身体行動の制限のためとしか思えない、学生服が漂わせるある種不自然なまでの窮屈さは、それが何のために導入されたかが謎であった。わざわざそんなことをする目的は何だろう。社会性の教育のためか、大学生活をより謳歌させるためか...。だがここに、積年のそうした疑問は氷解する。学生服には実は、人間の中に内在する大魔人を鎮める機能が密かに付されていたのだ。そう、学生服はすなわち“校則具”だったのだ。
 してみれば、先人が他ならぬ学生服に、無意識とは言えこうした機能を付加したのも宜なるかな、全ての校則具を外して自由になったとき、某人造人間は手の付けられないサルになってしまったではないか。


[4]抑止力としての“痛風”

 現在の大魔人のルーツを探るうち、大魔人が歴史的に見てもその再発を危惧されていたことが判ったわけだが、大魔人問題が事ほど深刻化した現在、事態の改善は望めないのだろうか。
 大魔人の江守化を阻止しようとする運動は、これまでにも多く試みられているが、残念なことに前述したような四天王を筆頭とする守護勢力によって悉く灰燼に帰している。一例としては、熱血教師一万人による“愛の鞭”行使要求を掲げての文部省前のデモ行進が、「吉川く〜ん!」と裏声で叫びつつ竹刀を振り回す参議院議員に蹴散らされた、熱“血の日曜日”事件を指摘すれば十分だろう。
 だがここに来て、事態は意外な方向に転回している。四天王の中でも最強勢力であるPTAが、大魔人達の江守化の防止を画策しているらしいことが判明したからである。
 現代成人病の一つに痛風というのがある。身体にそよ風が当たっても痛いという意味で付けられたこの病気は、不摂生と栄養過多が原因で、間接部に余分な物質が蓄積することで起こされるのであるが、PTAの主構成員である親たちは、大魔人の痛風化を目論んでいるらしいのだ。
 痛風の原因は既に述べたように生活の不摂生と栄養過多な食事だ。受験勉強と称してテレビ東京系の深夜枠アニメや国府田マリ子のなんちゃらラジオをリアルタイムで聴いているような連中は、既にして不摂生の素質がある。だから後は母親による“過保護な食事”攻撃を御供物として供えれば十分というわけである。これが成功すれば大魔人による被害はほぼ完全に防げる。何故なら、よしんば大魔人が江守化したとしても、それは痛風の痛みに耐えかねる苦痛の表現の表明として為されるだろうからだ。
 この方法は、(筆者の論文にしては珍しく断定するが、)成功はまず間違いない。だが、如何せん時間がかかり過ぎるのが欠点である。成人病と言うだけあって初期罹患年齢は二十代後半だからである。どんなに留年の達人な大魔人でも、その頃にはもう卒業しているだろう。だから結局、現在かなりの親が暗躍しているこの計画も、成功した暁には大魔人は却って穀潰しとして家族の生活を圧迫することになってしまう危険性を孕んでいるのである。


[5]痛風を超えて 〜本質へのアプローチ〜

 さて、一般的に問題解決への近道とは、まずその本質を見極めることである。これまでの長々と論じてきた様々な分析が、そうした本質の見極めであったとすれば、ここに我々は自然と“問題”の解決にも近づいていることになる。そう、本稿の目的は、大魔人とその周辺の社会状況を紹介するだけではなく、それを踏まえた上での真の解決への道を探ることにある。となれば、ここまで築き上げてきた土台があればこそ、いよいよ本質、大魔人の江守化の阻止を考える事が出来るのである。
 大魔人抑止を鑑みるに、抑止が江守化の阻止によっても可能と考えれば、それは“切れ”の阻止と同義であるとも言えるから、“切らない”もしくは“予め切っておく”という方法がまず考えられる。また、そのものずばり対象を“止める”ことでも良いわけだから、大魔人抑止にはこれら三つの方法が考えられることになる。以下に、各視点から考えられたさまざまな対処法を見ていく。
(i)切らずに治す匠の技
 まずは“切らない”方法を探ってみよう。前述しているように大魔人の心の琴線は、あまりにも日常的になんでもない行為に及んでいる現在、その全てに触れずに社会生活を行うことは、軟体動物を教育代官とでもしない限り不可能だろう。そも、学校社会が社会生活の縮図であるとするならば、常識的に考えれば“切らない”方法は、大魔人の側でヒューズの容量を大きくしてもらう他無いだろう。ここに、具体的にヒューズの容量を上げるには、線の強度を上げるか、線を太くする方法が考えられる。
 線強度を上げるには、外部からコーティングをする方法がある。この道の達人である、メーテルさん(23歳OL)は語る。「長い髪って、手入れを怠るとすぐに枝毛や切れ毛が出て来ちゃうんです。でも、ヒヤリンスを使うようになってからは違うんです。ブラシをかけていてもしなやかな髪どおりですし、活き活きとしてくるので、出勤前の洗髪が楽しみになってます。」
 長髪の手入れは斯様に繊細である。だが、そんな長髪の彼女も推奨するのが、マモー石鹸のヒヤリンスだ。ヒヤリンスは、新配合の空間磁力メッキにより髪の上に薄い層を形成するため、キューティクルが剥がれ落ち難く、厳しい外部の環境からしっかり髪を守ることが出来る。だからこれを大魔人に使えば、多い日も安心、脆いヒューズも丈夫になると言う訳なのだ。自信を持ってアドバイスして下さったメーテルさんの、取材後の後ろ姿には天使の輪が美しく光っていた。
 線を太くするのは、三つ子で有名な五輪金・銀・銅さん達(一〇三歳独身)に縄づくりを学ぶと良いだろう。短く、折れやすい藁から、あっと言う間に縄を綯ってゆく伝統の技は流石この道百年のベテラン。この技術を体得しさえすれば、どんな質の悪いヒューズだったとて、絶対に切れることはないこと請け合いだ。線を太くするに有効と考える方法として、盆栽から学ぶ“首をバッサリ”法もあるのだが、被験者がいないのが惜しい。
(ii)特殊手術による切断
 この方法はシャルバート教の信者が行っていた儀式である。LSTR-AVなる方法で自身を縮小して大魔人の体内に入り込み、腹の虫を探り出して一刀の元に切り裂くというものだ。予め切っておけば、いざというときにも困ることはないという、まぁ、割礼みたいな文化的位置づけであろうか。(儀式を行う者の呪文を出来るだけ聞き取ってみたので、記しておく。「一つ人世の生き血を啜り、二つ不埒な悪行三昧、三つ醜い浮き世の鬼を...」)
 まだ幼い頃に切ってしまうため、それ以上切れることなく社会生活に馴染むことができる。切ったすぐ後は勿論暴れるが、幼いために周りへの被害は僅少となるのだ。同文化では、その破壊衝動を逆に利用して、父親の肩叩きをさせたことが判っており、何事も無駄にしない合理性は流石と感心する。
 ただ希に、その衝動を持ち続けたまま大人になる者もいた為か、現在この文明は滅亡しており、ウエストケープの遺跡から細々とその痕跡を辿ることが精一杯である。
(iii)大魔人をとめる
 大魔人の停止にかかる力は、概算で見積もってもダンプカー二千台分とされるが、実際にそれだけのダンプカーが運動場に入るわけもなく、経済的にも割が合わないから、物理的に“止める”行為は得策とは言えない。だから、こんな方法がある。
 今日も今日とて大魔人、日がな一日切れまくり、迷惑災難山のよう。だが、伝説のヒッチャー、ルトガー・Hさんはこんな時、少しも慌てない。彼は、「任せときな」の声と共に歩を進めると、雷鳴のような足音を轟かせて迫り来る大魔人の前に立ちはだかっていく。そして、今しも踏みつぶされようとするその瞬間、彼は眼前の大魔人に向かって親指を立てるのだ。「ヘーイ!」
「目標にしっかり目を据えて、脇を締めて、相手の前やや内側に、親指をえぐりこむように突き出すのさ、指紋を見せてやるって位の勢いでやるんだぜ。」ヒッチハイクの総距離ではドロンズさえ敵わないだろう、そんな氏のアドバイスだからこそ、軽い調子にも説得力がある。実際、彼のこの仕草を目にした途端、どんな大魔人も停止するのだから、見事としか言いようがない。彼の持つ、顔の前30cmでの制止はアメリカの新記録だ。なみいる大魔人の前で、今日も男を上げる彼、チキンレースに勝った彼は今日もこう叫ぶ。
「イェーイ、僕は死にませ〜ん!!」
 取材後、ルトガーさんは止めた大魔人の背中に乗って行ってしまった。あの大魔人、大丈夫だろうか...。



[6]江守化の果てに

 さて、江守化した大魔人を止める方法の提案をさまざまに見てきたわけだが、あなたの回りの大魔人に適応できるような方法はあっただろうか。どの方法を選択するにせよ、大魔人の持つ二面性は型通りのやり方だけで抑えきれるはずもないから、臨機応変に対処してもらいたい。
 前章で紹介したような方法や、それを実践する人達は、一見突拍子もないようでいて、実は大魔人に対して前向きである(少なくとも突き放していない)ことに気付く。それは痛風を呼び起こすことで停止を企てる途轍もなく気長な親たちのそれとは一線を画している。親、もしくは教育代官の大魔人達への姿勢に比してもそれは言わずもがなである。
 紹介した彼らと親達との決定的な差は、結局の所それに尽きる様に筆者には思われる。普段、顔に三つの穴が開いてるとしか気付かないのも、裏を返せば、振り向いて語りかけることすら厭うている証拠であろう。実際の大魔人の顔は三つの穴ではない。筋目に穏やかな口元、柔らかに通った鼻筋をしているのだ。要は思い出せないのではない。前から面と向かって見ていないだけなのだ。
 だから最後に、猛り狂って迫ってくる大魔人を止める、筆者独自の方法を呈示して幕としよう。あなたはまず目を閉じ、心の中でゆっくりと数を数えて気を鎮め、ゆっくりと振り返って彼らを見て、こう優しく語りかけるのだ。
「だるまさんがころんだ。」




論文リストへ