国語憂慮論

高橋 英明




私は 国語の荒廃を嘆く事に、疑問を持っていた。
なぜなら、「「ら抜き言葉」と 称される 活用の変化は主体の区別(註1)を明確にする効果」があり、「「サ行の発音」に 至っては むしろ洗練化(註2)」と思えるからだ。
 だが先日、私のその楽観はもろくも崩れ去った…諸君は「チョベリバぁ」なる言葉をご存知だろうか?驚くべき事に、近頃の女子高生は、(広辞苑第四版にすら載っていない新種の)方言を用いるのである。残念なことだが、彼女らの方言(「チョ〜云々」という接頭辞的な頽廃表現…(彼女らの方言は省略・簡略化という側面も持つ。しかし 略語は 日本では 古来から在る効率的な表現様式でもあり、此処では それらの要素については問題に しない。) )は マスコミに因る虚構などではない。
 それは 幾多の変種を伴い現に用いられているのだ。

 だが 我々は、「健全な発話が、理解を求める行為である事」を忘れてはならない。 そして 発話内容が 理解される為には 解読者にも理解出来る様に表現しなければならない。それが為に 発話者とは乃ち、「一旦主観を捨て去り(客観的視点を想定して)自己を鑑みる過程を 踏まえる者」である。
 我々は そうした努力の末に 自己と他者の境界を築き、自己を見つめる視点を保持し、社会性を自己形成していく。

ところが 「チョ〜云々」という 表現は 自己の客観化を怠り、自己を基準として放棄せず固持し、自己と世界との分離を怠っている。この様な姿勢は 自己完結しており、精神的稚拙さ を放置する事になる。だから、既知の表現を無思慮に延長し濫用する かの表現は、(むしろ表情に近い動物的反応であり)決して、発話行為ではない。そのような態度を続ける事は様々な問題を孕むが為に由々しき事態であり、憂慮に値するだろう。

 故に、全国の女子高生諸君に 是非ともお願いしたい…
「チョ〜伝導、チョ〜流動、チョ〜臨界 などの 軽薄な造語は おやめ戴きたい」、と。

註1 ら抜き言葉は 「食べられる:(自らが他者の)補食対象になる」、「食べれる:(自らが何かを)食用可能」 等の区別 を 可能にする。
註2 発音はsa(サ) si(スィ) su(ス) se (セ) so(ソ), sha(シャ) shi(シ) shu(シュ) she(シェ) sho(ショ) という現行の表記にこそ 不自然さがあるのであり、サ行のシは si と発音して然るべきである。


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