自動人形はローラーを牽けるか

加藤法之




 我々の身体を律し、我々の生きている証となるにも関わらず、心や意識,精神といったものは、それがどこから来ているのか、どこにあるのかについては、まるで判らない。それは我々の懸命な追求を嘲笑いながら、これまでに100億の人が差し延べたであろう探索の手からスルリと抜けていく。そしてその度毎に、まるで確とした地盤を持たぬ建物に住むように、我々は漠たる不安にさいなまれてしまうのだ。それはまさしく、有史以来連綿と続く、己の存在の不安定性から来る不安なのだ。
 心を探るときの我々の苦悩は実際、心があることは心から証明していくしかない、というところに起因している。ある物があることを、ある物そのものの中からの証明することは、ゲーデルによって不可能と唱えられているにもかかわらず、それでも執拗に真理への渇望を抱き続ける様は、空しい以外の何であろう。行く手が塞がっている事が判っているのに、それでも進もうという気概が失せぬのは、何故なのであろうか...。

 我思う、故に我あり。
 精神は物理現象として測ることが出来ないため、己で認識していることそのものがその存在証明になるのだ、というほどの意味であろか。ギリシアの哲学者が言ったとされるこの言葉(日本語で言ったのではない)は、二千年を経た今の我々にさえ、ある含蓄ある示唆を与えてくれる。すなわち、心は結局、”己の存在は認める”とすること、すなわち”まず己ありき”と宣言してからでしか己を語ることが出来ないという事実である。
 かつてヒルベルトは、数学の全てを数学の言葉で表現する夢を絶たれた後、苦渋の思いで”数学を始める前の約束事”を認めねばならなかった。そしてそれ同様、”我思う、故に我あり。”の言葉は実は、”後からその存在を確認している”ことから逆説的に元々それが”あった”ことを示そうとしているのであり、それはつまり”まず己ありき”の約束をしていることになるのである。
 それは妥協であろうか、はたまた諦観であろうか。遙けき彼方、度重なる追究に疲弊した末に彼の人が残したであろうこの言葉には、己を己足ろうとして成し得なかった、そうした想いが悠久と集約されているように思えるのだ。心に至る道は、かくも険しく且つ遠い。

 以上のようなネガティブな現実は、常に我々の道を暗く閉ざすものだが、それでも敢えて我々は、心の先を見たいと感じている。もはや本能とさえ言えるそれは、ただ己の安寧を求めるだけではなく、そこに行き着いた更なる果てに、広がっているかも知れない何かを見たいがためなのだ。そこまでさせる力、それは人が本質的に持つ、好奇心なのかもしれない。だから、それがどんなに小さな可能性でもいい。もし心を直接探れないのならば、間接的な物でもいい。心を探る橋頭堡となるような物がもしあるなら、それは熟慮に足る価値を持つはずだ。
 本稿の執筆動機は、そんなところに端緒を持っている。

 心の証明が内側から行うことは出来ないことは前述の通り。敢えてそれを強行すれば、先人の挫折の道程を、己が身をもって歩むことになるだけだ。では、外側から、他人から行えば良いか。これは少なくとも、他”人”では駄目だろうことが言える。己と同じ構造を持っている”人”では結局のところ、己と同じ物をそこに見いだすだけであり、”我思う〜”の思想と同じ結末に行き着くだけだからだ。
 しかしだからといって、先人に追従する諦観は早計だ。何故なら我々は、ここに一つの逆説を考えることが出来るからである。すなわち、我々には、他の”人でない者”の心の存在ならば、証明できる可能性が残されているということである。これとても証明できるとの断言は出来ないが、少なくともゲーデルの提示する条件から外れることは間違いない。つまり将来に於いて証明できる可能性は残されているのだ。
 ささやかながら光明が見えてきたが、早速ここで問題になるのは”人でない者”を見つけられるかどうかだ。無情な借金の取り立て人を挙げることも出来る(彼らは一般的に、長屋に住む母子家庭に土足で上がり込み、「へっへっへ、いけねぇや奥さん。こんな所に隠しちゃ。」と、タンスの引き出しにある一家なけなしの金を見つけだして立ち去ろうとする際、同家の子供から、「この人でなしー!!」と呼ばれる。)が、ここではそうした道徳的価値観が人から逸脱している者を指すのではなく、あくまで物理構造的に人間と全く違った者のことを、”人でない者”と指すことにする。
 これがそう簡単に見つけられないことは、これまでにもそれを思いついたであろう先人が、真理に到達していないことを言及するだけで十分だろう。かほどに、先人達の空想では想起しきれないほど明確でなければならない”人でない者”は、神や宇宙人をその対象とするには現実的すぎるのである。
 そしてそう考えると、我々には神や宇宙人以外に、もっと身近に、しかも過去のある時期におけるある者達の存在が思い浮かんでくる。人語を解し、人に近い姿を持ち、そしてその構造は人に熟知されている者達、すなわちロボット達である。
 20年近く前、彼らはその特殊能力に応じてロボ○○と名を冠され、一般家庭に試験的に配された。現在は残念ながら中止されているこのプロジェクトであるが、当時、ガソリンを燃料とする彼らは、配された家庭の家族の一員として立派に存在していたのである。
 本稿ではこうしてこれ以降、上記に呈示したロボットに心があるかを検証していくことになるのだが、心一般を対象にするほどの紙数はとても無いので、心の部分的在り方について見ていくことにする。それをテーマとしていく理由は心情的には、それが心に肉薄する小さな一歩になると信じるからであるが、実際的な理由としては、上記ロボ○○達の中に、明らかにそれを意図したとしか思えない名前を持つ者がいたからである。
 ここで扱う心の部分とはすなわち”根性”であり、それを有する可能性を吟味する研究対象とはすなわち”ロボコン”である。

 ロボットが持つ根性−ロボ根性とでも名付けようか−の証明が今回の目的であるが、ここではまず、根性とは何かというところから、出発したい。というのも、普段何気なくする言葉であるほど、それに面と向かうと意外なほど曖昧な認識しか持たないことが多いからだ。深い洞察を喚起するためにも、己を知り、敵を知れば百戦危うからずの言葉通り、我々はここで、根性について少し造詣を深めなければならない。
 では、”根性”とはそもそも何であるか、滝沢罰金の水槽弥富八根伝によればそれは、
 ”血” ”汗” ”涙” ”努” ”炎” ”拳” ”漢” ”友”
から成り立つという。
「八根と言われる根性の八要素の結実として、究極の根性は出来上がる。八根伝の物語ではそれを、それぞれの字の浮き出た玉を持つ男達が肩を組んでウォークライを叫ぶという、同席したくない男臭さによって端的に表現している。」(参考”江戸の根性”杉浦避難子)
 兎飛びの図案の周囲に八根を描いた根性曼陀羅は、同○社,国○舘といった大学で、形を変えて今も見ることが出来る。和を尊ぶ日本ならではの概念といえようか。
 ここで研究対象を概観すると、はめめ(研究対象が居候していた家族の一人息子の名は”はじめ”であるが、研究対象は発音できなかった。)家の私有フィルムから作られた”がんばれロボコン”中には、明示されてこそいないもののこれら全ての要素が詰まっており、ロボ根性検証に向けて大きな一歩を踏み出したと言える。

 精神力の限界の無さを担うのも根性の特徴であるといわれる。よってその大きさを表すには、特殊な単位が用いられており、経験を積んだ根性などは進化形として、”ど根性”を用いる。
 ”ど”起源争いは、九州と畿内の邪馬台国争いに比せられるほど活発であるが、ここでは、「根性を持つ人は多いが、ど根性を持った人はごく僅かである。」という観点から、フィールドワークによって実際に973,047:1という”並”:”ど”の存在比を割り出した土今和次郎の説、「”ど”は”弩”である。」を推したい。
「”弩”とは1900年代イギリスの軍艦ドレッドノートの事なんだよ。建造当時はとても同艦に比肩することは出来ないとまで言われた大型艦だったので、この艦に追いつくことが各国のステータスになったんだ。だから、後に建造されたこの戦艦と同規模の排水量の艦を”弩級”といい、それを越える艦を”超弩級”と言うようになったんだよ。」
モグタンの名調子はこれ位にする(近年、同解説生物は、公認の六腑と悟コンビに座を譲っている。)が、要するに、根性が一般人の頑張り程度の大きさだとすると、ど根性は戦艦並の規模だということになる。歴史を繙いて、ガンダムの持つ戦艦並のビーム砲は、ジオン内では同定義に従い”どビーム”と呼ばれていることに思い至る人も多いだろう。
 ぴょん吉は縛り付けられたタンカーごと、ひろしの家に帰ってきたことがあったが、彼は字義通りど根性の持ち主だと言えるだろう。この様に、ど根性はこれほどの試練の道を行った末でないと冠することは許されないのだが、”押して駄目なら押し破れ”を信条とする研究対象のそれは、”ど”冠定義に非常に有望であると見なし得るだろう。

 以上、根性定義を明確にすると同時に比較根性学的なアプローチを試みたが、ロボ根性の証明にはなかなか良い条件が得られていると言える。

 次に、実証的な方法、つまり、実験による根性検証をしてみたい。
 一般的に根性を測定する手段としてよく知られているものに、チューリングテストがある。
 根性学の権威であるウラン・チューリングが、根性学会本部前に座り込みを敢行し、雪の中頑張り続けた三日目にその根性を見込まれて採用されたこのテストは、壁を隔てて被験者と測定者を配して会話をさせた後、測定者が反対側にいる者について、”隣にいる人はきっと根性があるに違いない”とした時、被験者に根性があるとするものである。
 本テストは、測定者の判断基準が曖昧であり、且つ恣意的になりやすいという難点はあるものの、根性という多分に主観的な題材を、客観的に判断する方法を呈示しており、哲学系学問の孤独な性向から脱却させたという点で、考案したチューリングの功績は大きい。現に東西冷戦時代の西ドイツでは、鉄のカーテン越しの東ドイツ市民の根性をこの方法によって測定し、対共産圏用の対抗策を練ったとされる。(ドイツらしい、実利的な根性の活用である。ドイツのキャンバス名物の応援団は、対根性用の汎用努力型秘密決戦兵器だったと言われている。)
 そしてこうした点を見るだけでも、ロボットに根性があるかを追求する本稿に、チューリングテストが相応しいことは言うまでもないだろう。

 実験は上記テストの定石通り、壁向こうにモニターとなったロボットを立たせ、測定者と会話をさせる方法をとった。無論実験は厳密を帰するため、防弾,防磁,防放射能処理を施した壁を用い、清めの塩、十字架、ニンニクも忘れずに施した。(これらは、万が一にも被験者の大粒の汗,血塗れのボールなどが測定者の眼に触れないようにするための、適正な実験をする上での厳格な処置である。)
 実験は、始まりから興味深い展開を見せた。同テストに於いては、被験者がどのように根性を表現するかも判断基準の一つなのであるが、開始早々被験者は洗濯機を稼動させるという些か奇特な方法を採用したのだ。被験者は自身の前半身を覆っているボンネット状の鉄板を開けることが出来るのだが、そうして露出させた腹部に内蔵されているバッテリーに洗濯機の電源コードを接続し、腕を振り回すことで、洗濯機を動かしたのだ。
 こうした被験者の行動、自身の腕を振り回すことが、根性の表現になると考えたのであろう。その着想は評価に値するものの、如何せん測定者にその姿を見せられないことまでは思い至らなかったらしい。このためこれが根性認定の決定打に至らなかったのは残念でならないが、それも仕方がないかもしれない。結局、測定者の知り得る情報と言えば、実験を通して以下の科白だけだったのだから。
 ロボコンロボコンロボコンロボコンロボコンロボコンロボコンロボコン・・・

 根性物理学からも見てみることにしよう。
 強い者、権力を持つ者はそれが周りに与える影響も大きいことが知られているが、これを物理的に定義したのがアインシュタインの相対性理論である。
 直線運動を示す”信念”が、時と場合によって変化することを示す有名な公式、
  変化率=TPO/(信念の強さ)
を見てみよう。
 これは権威に媚びへつらう事によって信念直線が曲げられてしまうことを意味している。進行方向が90度変わるなど、変化率が激しい状態を、”根性曲がり”と呼ぶ。根性天文学のこれまでの観測から、銀河系の中心、ブラックホールには、根性の曲がり角があると推定されている。
 しかしこれまで知られている権力の中でも、永田町のブラックホールは最も恐ろしい存在である。そこではどんな信念も曲げられ、初期状態に於いて持っていた公約ベクトルは、いつの間にか汚職、収賄ベクトルに置き換わってしまうのである。(ガリレオがローマ教会で観測した、”偉きゃ白でも黒になる”現象が、最初の科学的発見とされる。)
 そしてこの変化率がさらに限界を超え、時象の地平線(時平)を過ぎてしまうことがある。そんな時、人は己に絶望して、二度と脱出できない自閉症になることが判っている。
 さて、それならば本稿の研究対象はどうかと見るに、厳密な評価の末、信念の強さが無限大であることが知られている。すなわち、
「ロボコン0点。」
の変化率だからだ。

 無限力で突き進むロボット、これを表してロボ根性と呼ぶには最早やぶさかではないのだが、懐疑主義者はここに於いて尚それを認めようとしない。根性も行き着くところ精神現象である以上、明確な事が言えるはずがないということであろうか。
 しかし、実を言えば、本稿で数ある精神現象の内、根性を選んで論を進めてきたのには訳がある。それは精神現象の中で根性が唯一、ある物質と1:1で写像を為しているからである。
 根性と対を為す物質。それは、校庭の隅に置いてあり、黄昏時になると人に牽かれて地面を転がってゆく侘び寂びの極致、”ローラー”に他ならない。それは、ある人にとっては切実な青春の象徴として、そしてある人にとっては口元を歪ませる微妙な笑激を喚起するものとして、根性を語るときに100%引き合いに出される物なのだ。
 根性とローラー、一体不可分な二要素は、なればこそ片方の存在証明はもう片方の存在を必然的に帰結させる。となればもうお解りだろう、研究対象は迅速に行動するときに己の足を引っ込め、車輪(ローラー)を使用するのだ。研究対象を知る者にとってはあまりにも自明な同機能が、ロボ根性の存在を確定する物になろうとは、ガンツ先生でも想定できなかったに違いない。

 かくして、ロボ根性はその存在を明らかにされた。それはロボットの心の全貌を表すにはあまりにも小さいが、我々が我々以外の者の心を理解できる可能性を示した事を考えると、限りない希望の第一歩と考えることもできるのである。
 そして更に後年、友情の証として、ロボットは我々に、我々の心について想いのたけを語ってくれるだろう。そうして具現化した我々の心は、ハートマークのようにほのかな赤みを持つものなのであろうか、それとも、はっきりと形を取りようもない、ショックのパーなものなのであろうか...。



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