平和の総量

穂滝薫理



 地球に存在する富の総量は一定である。
 全人類が等しく金持ちになることはありえない。それはそうだろう、金持ちというのは、金を持たない人に対する相対的な存在でしかないからだ。ある決まった量の富を全地球の人々がそれぞれの能力や働き、門地身分、運などによって不公平に分け合っているのが個人の財産であり、不公平だからこそ金持ちと貧乏が存在するのである。
 要するに、今、日本人がわりと不自由なく生活できているのは、東南アジアやアフリカに貧乏な人達がいてくれるおかげなのである。
 同様にして、地球に存在する平和の総量も一定なのではないか。
 日本人がのほほんと暮らしていられるのは、中近東あたりで、せっせと紛争を起こしてくれているおかげではないだろうか。

 ある決まった量の平和を全地球の人々が不公平に分け合っていると考えれば、今、この瞬間にも世界のどこかで紛争が行なわれているのも納得がいく。人類の歴史においてついに戦争が無くならないのも、残念ではあるがうなづけるのではないだろうか。
 紛争は、なにも国家間に限ったことではない。国内のある団体同士かもしれないし、あるいは個人同士の紛争もありえるだろう。世界的に紛争がなくて平和だと思われていた時代には、きっと新聞にも載らないような小さな争いがそこここで起こっていたに違いないのだ。こうした細かい争いが、世界に散らばらず、ある場所に集中してしまった状態が、即ち戦争である。

 過去2度行なわれた世界大戦のような争いの極度の集中の影には、極度の平和地域があったことは想像に難くない。例えばそれはアメリカ本土内部かもしれないし、日本やドイツも目を向けなかったような取るに足らない南の島かもしれない。ひょっとすると、規律でしばられた軍隊内部はことのほか平和だったのかもしれない。
 さて、問題は今現在のことである。現在、東西対立はほぼ解消し、世界中で和平交渉が進み世界的な平和が訪れつつあるように見える。これはちょっとやばい状況じゃないかと思うのだ。国家的紛争が消滅するということは、争いが限りなく細分化されて個人のもとに降りてくることにほかならない。今のところ、どうやらそれはアメリカ国内に降り立っているようではある。しかしこのまま国家的和平が進めば、必ず日本国内にも個人的紛争が分け前としてやってくるに違いないのだ。

 世界平和? 笑わせてはいけない。そのようなことを言う奴らは、国内的な小紛争や、隣人との不和、あるいは家族の分裂といったものを受け入れる覚悟ができているのだろうか? そんな彼らを含む我々が、経済的にも不自由なく、そして平和にのほほんと暮らしていきたいのなら、総量の決まっているものを、集中してなるべく多く分取るに限る。金持ちが、金持たずの相対現象であるように、平和もまた戦争の相対現象であるに過ぎないのだ。金をこの国に集中させたように、平和もまた集中させなくてはならないのだ。

 現状のまま、平和国家日本を存続させるための日本政府の役割はもうおわかりだろう。そのためならば、税金を使ってもいいだろう。そう、例えば朝鮮半島、例えばイスラエル。平和の火ダネを消してはならない。



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