記憶のかなた

穂滝薫理




 痛みや悲しみを忘れるから人間は生きていける、だからこそ人間はものを忘れるのだ。という言葉がある。これは哲学的ではあっても科学的ではない。
 私はこの言葉を聞いて、「ちょっと待て。痛みや悲しみなんて、もともと記憶できないんじゃないか」と思った。記憶できないものを忘れることなんてできるはずがないじゃないか。国語辞典にも「忘れる」の第一義は「記憶がなくなること」と書いてある。
 それにしても記憶について考えるのは難しい。本稿では、記憶の体系化を図るつもりであった。しかし、実際にはまったくまとまっておらず、単なる思いつきの羅列になってしまった。どなたかこれをヒントに私の志を遂げていただければ本望である。

1.記憶とは何か
 今、仮に「7738462」というなんの意味もない数字の羅列を覚えたとしよう。例えばこれを1時間後に暗唱(でも筆記でもいいが)することができたら、それは記憶されているとみなしていいだろう。1日たってもう一度暗唱しようとしてもできなければ、即ち思い出せなければ、それは忘れてしまったということである。
 これを論拠とすれば、記憶できたか否かは、ある時点で覚えたものが、時を経て再現できたか否かと等価であるとみなすことができる。
 歴史の年号でも、歌でも、人の顔でも、また待ち合わせの時間でもいい。この再現性による記憶の説明は十分に正当なものであると言える。

2.痛みや感情は?
 「記憶」を上記のように定義すれば、痛みも悲しみも、もともと記憶できないのだということがわかる。どんなにあのときの痛みを思い出そうとしても、痛みそのものは再現することができない。ただ「ものすごく痛かった」とか「ちくちくと痛かった」とかの言葉やその時の場面を映像として思い出すだけである。悲しみ(感情と言い換えてもいい)も同様、「悲しかったなぁ」という言葉を思い出すだけで、感情そのものは再現できない。仮にその時の場面などを思い出して同じ感情になることがあっても、それはその時の感情の再現ではなく、今思い出した言葉や映像による、新たな感情がわき起こったものである。
 微妙な差だが、やはり再現ではない、新規感情である。それが、以前の感情と似ているだけのことだ。重ねて言うと「7738462」だとか人の顔を思い出すのは再現である。

3.別の記憶
 しかし、すべての記憶が再現性のみで説明できるかというと、反証はすぐに見つかる。例えば味やにおいである。魚を食べてこの魚の名前はハマチだ、などと言い当てられるのは、その人がハマチの味を記憶しているからにほかならない。また、キンモクセイのいい香りがするなどというのも同様である。しかし、ハマチを食べていない時にどんなにハマチの味を思い出そうとしても、舌の上で、もしくは頭の中にハマチの味そのものを再現することはできないのである。先ほどの悲しみの例と同様、「もちっとして少し甘くて、歯触りは○○で、云々」といったように言葉として表わすことしかできないのである(もっとも味の場合はそれも不可能かもしれないが)。
 再現できないのにどうしてそれがハマチだとわかるかというと、食べたその時点で、記憶されているハマチの味と比較してまさに同じ味であれば、それはハマチであると判断しているのである。つまり比較のみ可能な記憶が存在するということである。  このことから、記憶には少なくとも2つの種類があることがわかる。ここでは仮に前者を“可再現記憶”、後者を“可比較記憶”と名付けることにする。
 もう、お気づきとは思うが、痛みや感情も記憶できる可能性が出てきた。そう、可比較記憶としてである。あの時と同じ痛み、として比較することができるかもしれないのである。針がささった時にこれは針の痛みだとわかるのは、まさにハマチの味をハマチだとわかるのと同じものであると言ってもよさそうに思える。ただし、味ほどはっきりした比較性があるかというといまひとつ心許ないが。感情についてはさらに心許ないが、とりあえず、“可比較的”であるとしておこう。

4.第3の記憶
 ところで、子供が言葉を覚えることは記憶と呼んでいいものだろうか。もちろん、呼んで構わないように思える。しかし、上記の例にも見えるように、言葉は記憶そのものではなく、記憶するための手段ではないだろうか。「渋谷のハチ公前に3時」でも「痛かったなぁ」でも、言葉があって初めて記憶として成立するものである。記憶には違いないだろうが前二者とは性質の異なるものであると考えざるをえない。
 この件については、渡辺ヤスヒロ氏がうまいことを言った。「コンピューターで言うとプログラムとデータの違いみたいなもんだね。」つまり、どちらもコンピューターのメモリ上の電気信号には違いないのだが、一方は、コンピューターやデータを制御するための情報(プログラム)であり、もう一方はその制御されるデータに過ぎないということである。ここでは、言葉がプログラムに当たり、“可再現記憶”“可比較記憶”の二者がデータに当たる。
 そこで、記憶の種類を1つ増やして、このような(言葉のような、プログラムのような)記憶のことを“基本記憶”と名付けることにする。基本とは言っても、もちろん絶対的なものではない。イギリスの子供が英語で記憶するように、環境によって、その基本も変化するものである。言葉以外にも、二足歩行のしかたとか、高いところに対する恐怖など、生活上の必須事項がこの基本記憶に当たるだろう。
 記憶の種類は他にないだろうか。心臓の動きや、空腹感、成長や死など生理現象は記憶とは関係ない。様々な欲求、単に希望と言ってもいいが、はどうだろう。希望をいだくためには様々な記憶が介助となるだろうが、希望そのものは記憶ではない。また、現在行なっている行動そのもの、例えば歩いていることなど、についても同様のことが言えそうだ。
 いいだろう。記憶はすべて3種類に分けられると言ってよさそうである。

5.まとめてみると
 ここで、もう一度3種類の記憶についてまとめてみることにする(表1)。
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可再現記憶  言葉、思考   数字の羅列など
       映像(視覚)  夢、人の顔など
       音楽(聴覚)  歌
可比較記憶  味(味覚)   はまちの味
       におい(嗅覚) キンモクセイのにおい

       痛み(触覚)  布の手触り
       感情?
基本記憶   言語
       行動(危険回避などの)
-------------------------------------------------- 表1
 この表を見ると、人間の五感および思考は、すべて記憶されることがわかる。しかし、思い出そうとして思い出せる(再現可能な)ものはその一部でしかない。これを先のコンピューターの例になぞらえて、同じくコンピューター用語である「入力」「出力」という言葉を使うと
記憶の入力:感覚(視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚)、思考
記憶の出力:言葉、感覚(視覚、聴覚)
となる。
 感情には「?」が付いている。これは私自身まだ迷っているのだ。というのも、私の感覚として、どうしても感情を“可比較記憶”として認識できないからだ。

6.3つの記憶の関連性
 ところで、表1では人の顔を可再現記憶としたが、中には「思い出せないけれど、もう一度その顔を見れば絶対にわかる」という場合がある。よく刑事物のドラマで、目撃者が演じているアレのことだが、これは明らかに可比較記憶である。同様に考えると可再現記憶はすべて可比較記憶的な場合があることに思い当たる。逆に可比較記憶は、絶対に可再現記憶的であることはない。つまり、可再現記憶は、可比較記憶に含まれるのではないだろうか。言い換えると、可比較記憶のうち、特殊な場合に可再現記憶になるのではいか。さらに基本記憶は、二者共を含むと考えられるが、私は基本記憶だけはちょっと違うのではないかという感じがする。基本記憶は、あくまでも、記憶を再現もしくは比較するための手段であって、それらのベースになっているものに過ぎないと思う。これまでのことをまとめると図1のようになる。まぁ、図1'のようにしても構わないかも知れないが。

7.記憶深度
 もう一度表1に戻って欲しい。この表において、上の方に書かれているものほど忘れやすい記憶であり、下のほうに書かれているものほど忘れにくい、または忘れたと思っていても実は覚えていた記憶であることに気が付く。この「忘れやすさ」を記憶の深さ、「記憶深度」と考えるとわかりやすい。すなわち、上に書かれているものほど記憶が浅く、下の方に書かれているものほど記憶が深いというわけだ。
 しかし記憶は、そう単純なものではないこともすぐに思いつくことができる。
 例えば、母国語でない言語、日本人にとっての英語などは初めのうちはまさに可再現記憶的である。しかし、勉強を重ね、常用するようにでもなれば、記憶はどんどん深くなり、やがて基本記憶に近づいていく。よく知られたことではあるが、記憶は繰り返すことで忘れにくくなるのである。逆に使わなくなった記憶は忘れやすくなる。
 どうやら、記憶には浮沈があるようである。
 これはさきほどの「含む」「含まれる」の考えを当てはめるとわかりやすい。図1’のように、言葉はすべての記憶に含まれるから、基本記憶にも、可比較記憶にも、可再現記憶の中にも含まれるのである。図1’で、はじめ可再現記憶の中にあった、言葉がだんだんと外に向かって行くと、すなわちそれが記憶が深くなるのである。しかし、味や痛みは可再現記憶には含まれないから、これ以上浅くなることはない。別の言葉で言うと、記憶の出力は、視覚、聴覚そして言葉しかないので、いくら浅くなっても味や痛みを出力=再現することはできないのである。

8.脳との距離
 表1を見ていて、ふと気付いたのは、脳での感覚に近いものほど再現性の高い記憶なのではないか、ということだ。まず、思考は脳での感覚そのものだ。また、我々は映像や、音を、目や耳の感覚としてとらえることは難しい。見えてはいても、目そのものに刺激を感じることができないからだ。見たものを、目をつぶって思い浮かべられるように、脳での感覚に近い。これに対し、味は確実に舌の感覚であるし、手触りにいたっては、脳が感じているととらえることの方が難しい。手触りは、どう考えたって指の先が感じているのであって、脳が感じているようには思われない。ひょっとすると、脳が感じている(と感じている)からこそ再現でき、指には再現能力がないから(指は脳じゃないからね)再現できないのかもしれない。
 では、感情は?
 実は私は今この論文を書きながら、感情はそれ以外と同列に扱ってはいけないのではないかという思いがしてきている。
 確かに感情は、脳との距離が近い。しかし、感情とは何かということは、記憶とは何かとほぼ同列に扱うべき問題で、最初から記憶に含まれると考えたのが間違いではなかったのか。あるいは生理現象と同様に記憶の外にあるものではないのだろうか。感情は、内的外的要因によってその場その場でわき上がるものであって、過去とまったく同じ感情は二度と持つことはないのではないか。だとすれば、感情を記憶する意味はないではないか。
9.最後に
 冒頭の言葉に戻ろう。
 人間は痛みや悲しみを忘れるのか。いや、そうではない、痛みは自ら再現できないのだ。悲しみは記憶する意味がないのだ。
 もしも痛みを自由に、あるいは夢などで無意識にまた無制限に再現できるとしたら、おちおち寝てもいられない。それこそ生きていけないだろう。また、悲しみと記憶は関係なく、その意味において生き死にも関係ない。今わき起こっている悲しみが激しすぎて死にたくなることはあったとしても。つまり、冒頭の言葉から悲しみは排除せねばならない。 もう一度繰り返す。
 人は痛みを再現できない。だから生きていけるのである。

参考文献:『新選 国語辞典』金田一京助、佐伯梅友、大石初太郎編 小学館
ただし、「記憶」の項は次のように書いてあり、あいまいで、なんのことかわからない。きおく[記憶](1)[名][他サ]こころにとどめておくこと。ものおぼえ。(2)[名]過去の経験を保ちつづける心の作用。




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