Hiroshima paradox

高橋英明




…「この悲劇を繰り返してはならない。」…
半世紀の昔、広島の空に発生させられた 核分裂という 現象。
その苦しみから生まれたこの主張はあまりに重く、厳しいものだ。

私とて経験ではなく 資料を、間接で見ただけである。しかし…
・かつて人として機能していた炭素の塊。
・焼き付いた影。
・遺伝子への負債。
その蛮行を 赦せるわけがない。

時に、記憶と学習の違いは何であろうか? 記憶ならば機械にもできる、単純なことだ。
しかし、学習とは、経験を以て未来を制御する智慧に他ならない。
従って 知的生命体、ホモサピエンスを 自負するわれわれは、二度とあの経験を繰り返せないし、また、繰り返してはならないのである。
そして 我々は、そのために 被爆地広島にまつわる 先人の反省を 検証せねばなるまい。

・軍隊を持たない国家
先日、サファリパークの職員がライオンに襲われた。
檻が開いていたからだという。何の対策も持たずに 自衛(*)を放棄しては、過酷な現実を 生き残ることは困難だ。
にもかかわらず、我々は先の大戦に於ける敗戦への反省の名の下に、平和憲法を戴き、国軍を持たない。
だが、平和憲法と呼ばれる憲法の本質(*)は 米国の植民地化であり、米国への依存の強制に他ならない。
現状の非被侵略は、米国植民地として米国軍の庇護下に在る…つまり、米国軍という「軍隊が居る」ので 侵攻はされていない…というだけである。
例えばイラクによるクウェート侵攻のように、世界が闘争の時代を終えていないという事実(*)は、枚挙にいとまがない。
…そう、残念なことではあるが、軍隊は 現時点では まだ 必要なのである。
(*自衛)己を救うために 他者に危害乃至は絶命に至らせることである。日常における食物や害虫への殺生を見れば、その必要性は明白な事実である。
(*平和憲法の本質)この平和憲法を戴く国に 提唱国の軍事施設が 未だに、実在することからも、同憲法の欺瞞(*)は証明され得よう。
(*闘争の時代を終えていないと言う事実)中近東や東欧だけのことではない。尖閣諸島や竹島を見よ。
(*平和憲法の欺瞞)平和憲法をすばらしい憲法だと思い込んでいると 装う お茶目さんも 確かに存在するが、まさか彼が本気だと思っておられる方はおるまい。

・非核三原則(*)
大量殺戮兵器として、核兵器が有効なことは 疑う余地がない。
地域を破砕せしめる 核兵器は、無差別な殺害として 非難される。
だが しかし、無差別(*)な殺害など、戦争ではあり得ないのだ。
「銃弾も、毒ガスも、細菌でも構わないけど、核だけは堪忍してぇ!」
という 叫びからは、もはや 核へのフェティシズムしか匂わない。
一方、大量殺戮兵器に関して考察しよう。
非常時という大義名分の元に 分けられた 民間人と軍人という範疇がある。
その範疇に秘められた 非人道性(*)を 受け入れた上の論理には 普遍性(*)はない。
戦争の回避こそが 重要なことは 謂うまでもないが、あえて、戦争状態において 考察するに、(太平洋戦争当時における本土決戦のような)双方の消耗戦ではなく、敵国の国力のみを消耗させうる大量殺戮兵器は、大量殺戮兵器保持国兵士の生存を考えた場合、きわめて人道的な兵器(*)なのだ。
(*非核三原則)日本の非核三原則に限らず、世界的には1963年に部分的核実験禁止条約、1966年に核兵器拡散防止条約、1972、1977年戦略兵器制限交渉と言った動きがあり、核兵器は世界的な反省の対象になっている。
(*無差別ー1)戦争状態において、民間人に罪が無いという発想は、国事に対する国民の無責任ぶりを 露呈しているだけだ。
(*無差別-2)国民は戦争当事者であり、決して無関係な第三者ではない以上、無差別な殺害にはなり得ない。
(*無差別-3)たとえ 幼子であっても、庇護を受けるシステム である国家 が担う負債 の負担は、逃れ得ない。
(*非人道性-1)徴兵という儀礼を通過し、民間人の名を奪われた 元民間人である 軍人ならば、その呼称により 一切の生存に対する権利を剥奪されて しかるべきなのか?
(*非人道性-2)徴兵回避を行える権力者、その眷属、並びに 息子や旦那の背中を押して戦場に追いやった者は 罪や責任が無く 生き残るべきで、背中を押された側は 罪や責任があり 死んで当然という発想は 理解できない。
(*非人道性-3)非常時という 言い訳 を 捨て去るとき、兵士の人権をも考慮する必要がある。
(*普遍性)結論に至る過程で仮定を用いた場合、その結論はその仮定の適用範囲内においてのみしか保証されない。
(*人道的な兵器ー1)双方の國に莫大な死者を出す場合と、片方の國に莫大な死者を出す場合を考えると、後者の方が莫大な死者を出さなかった方の國においては人命は救われたことになる。
(*人道的な兵器ー2)客観的に見れば、その(米国兵士の命を救ったという)意味で、広島及び長崎の壊滅を指示した当時の米国大統領は英断を下したと評価すべきだろう。他方 日本から見ても、本土決戦を行った場合の死者よりも 比較的少数の死者で済んだ可能性がある。国土の荒廃については 言うまでもない。

したがって、結論として次のことが導かれる。
あの 広島での「状況として成す術無く 殺戮を行われたという悲劇」を繰り返さないために、かつてよりも強力な、できれば核を保持した強大な軍事力が必要である。
そう、我々が採っている 広島の悲劇 への反省は、ことごとく 誤りであったのだ!

だが しかし、私はあなたが上記の結論に納得できないことを望まずには居られない(*)。
この結論は、自国民を守るためならば、他国への侵攻をも辞さず、結果として報復による殺戮というまさに広島の悲劇を繰り返す虞があるからだ。
そう、あの結論は 「広島の悲劇」を 繰り返さないために 「広島の悲劇」を再び引き起こす物だったのである。
(*望み)机上理論を堪能される 論理性を備えた皆さんに対しては、憂慮といえよう。

戦争の経験が辛かったことは事実だろう。
しかし、一切の戦争を否定(*)をしてしまうと、生存が脅かされかねない。
話し合いによる解決は希望に過ぎず、それに依存できるほど強力な手段ではない。
もちろん、戦争は万能の解決方法ではない。それでも、必死の抵抗(*)は 認められるべき権利であろう。
そう、戦争という異議申し立てに訴えざるを得ない状況という悲劇こそ、駆逐すべき悪なのだ。
(*戦争を否定)無抵抗を主張する輩もいる。彼らが実践する分には問題はないが、ユダヤ人に対し、ガス室に送られることを要求するのはお門違いに思う。あの殺戮こそが古の契約によって約束された救済なのだという見方を否定する根拠はないが、肯定のそれすら同様に持ち合わせていない。
(*必死の抵抗)必死の抵抗は 脅威でもあり、脅威となりうる事実こそ、無視すべきでない存在の 証明(*)になる。
(*存在の証明)ヘブライズムの仮面の下に潜んだ ヘレニズムを基底に戴く アカデミックな論理主義、すなわち 現代の西洋思想では、観測されない現象は 存在の否定(*)として扱われる。
(*存在の否定ー1)未確認飛行物体や、メタサイコロジーに代表される 存在の証明はできないが、非存在の証明もされ得ては居ない諸処の概念に対する扱いを見よ。
(*存在の否定-2)諸処の点で敬愛に値するショウペンハウエルでさえも、植物に苦痛はないと断言している。植物には神経が見られないからだそうだ。しかし、意志や認識を担う器官が神経だけだという証明が何時に成されたのかは疑問として残るのである。故に、その根拠は私のあずかり知るところではない。

我々が 探り当てた 悪とはすなわち、「戦争が最善の解決方法という状況 という悲劇」と、その原因の一つである、「広島の悲劇 を繰り返さないために、広島の悲劇を 繰り返そうという 主張 の 矛盾」だった。
前者に関しては 後ほど考察するとして、後者に関しては、その議論の前提(日本人としての暗黙の了解事項)は、「被害者としての認識」であった。
結論が不条理であった以上、原判断である被害者としての認識は、その否定が正しいことが背理法によって肯定される。
被害者意識の有害性(*)が、証明されたのだ。
(*被害者意識の有害性) 「殴られたくないから喧嘩しない」と言う論理では、(反撃しない者には)平気で殴りかかることを含む。それ(つまり殴る可能性を否定する)どころか、むしろ、(相手が殴ろうと考える前に、殴る体力を奪うことを目的に)殴るかかることの方が 容易に想像できる。

さて、我々は 従来の認識を否定してしまった以上、代替すべき認識を獲得するために、戦争について考察せねばならない。
議論に先立ち、用語の定義を行う。戦争とは、国家権力に因る他国への破壊乃至他国民への殺人行為を呼ぼう(反撃の有無は問わない)

・戦争は正義のぶつかり合いか?
現象という 環境から導かれた必然 によってのみ 構築されている現実においては、存在すること自体が 正義の証明である(*)。
また 我々は 己の信ずる正義を検証するために、生き残らなければならない。
これは、他人に己の正義を押しつけることを必要とはしない。
口先では天動説に追随してでも、心の奥に 真理を擁護することができるからだ。
教会で火あぶりにされるよりも、誰からも理解されずとも、ひとり、真理への理解(*)に近づくことの方が、ホモ サピエンスには重要なのだ。
故に、堂々と振る舞う正義は 所詮 上辺だけの物で、本当に守るべき正義は 我々の精神の奥底に秘められ、決して侵されることは無い以上、戦争での正義は 原因ではなく 口実(*)に過ぎない。
(*存在こそが正義の証明ー1)先ず第一に法。そして たとえ遵法であっても 度を過ぎた悪に対しては 闇討ち(国家に対してはテロ)という報復が存在し、日々粛正を繰り返している。
(*存在こそが正義の証明ー2)ソビエト社会主義よりも、アメリカ資本主義の方が比較的正しかった。ただし、この優劣の差は、イデオロギーにより導かれた物ではなく、アメリカが発表した「ハッタリ」の核施設と競争し、真面目に(使えない・使っても意味のない)核兵器を作り続け、経済を破綻させるという愚を犯したソビエト首脳陣の甘さにあったのだ…INF全廃条約で米国は自国の施設と同等の規模にまでソビエトの軍備削減までさせ、完全にソビエトを手玉に取ったのだ…という説は、私のハッタリである。
(*真理への理解)できれば 同志のために 禁書と秘儀を 残していただけるとありがたい。
(*口実)たとえ侵略を受けても、領土を残し、ダライ・ラマのように、逃げ出すこともできるのだ。そして 彼は今も生きている。

正義が口実だとすると、目的は何なのだろうか?
定義から戦争の周辺概念を見れば、国内の破壊と 国民の殺害が挙げられる。
これらは、開発計画という名の下に 生態系の破壊が行われたり、
未だに廃止されない死刑制度という形で 今も行われている。
所詮戦争とは、自己の利益のためには 他者の被害を省みず、平時においても死刑を廃止し得ない人の持つ苛虐性を発揮するイベントの一形態なのである。
ただし 苛虐性が指摘されたとはいえども、愛と平和を叫ぶ愚を犯してはならない。
なぜなら、愛が 愛の対象 を守るために 愛の対象以外 に対し非情になりうる物であり、平和という非交戦状態が 武力制圧によっても もたらされる事実は 既に知ってしまったからである。

よって 我々は、苛虐性自体を反省することで 広島の悲劇を 反省することができるのである。
己が傷つきたくはない と言う 願いではなく、
人を傷つけたくはない と言う 想いによってこそ、平和は もたらされるのである。
補考:国連憲章は前文で「我らの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救」うことを決意しているそうだ。
故に彼らが 地球上の殆どの国家を加盟国に加えていても、未だに恒久平和を実現できないことは驚くに値しない。

にもかかわらず、南京大虐殺の慰霊祭は定期に行わぬまま、毎年8月6日に広島で、(9日には長崎で)平和慰霊祭を行い、被害者としてのみ、広島をアピールする 偽善者に対し殺意を抱くとき、あの言葉が重くのしかかり、私の怒りを諫めるのである。
…「この悲劇を繰り返してはならない。」

参考文献
阪上順夫 著 教科書にでてくる法律と政治K 世界の平和を守っていこう ー平和な国際関係ー ポプラ社
ショウペンハウエル著 斎藤信治訳 自殺について 岩波書店 (岩波文庫)



論文リストへ