加藤邦道
1997年5月10日、コンピュータはついにチェスで人間のチャンピオンを破った。2勝1敗3引き分け。最終局は僅か19手(将棋風に言えば37手)でコンピュータが勝利を収めた。
このニュースを聞いた人々の反応は、大雑把に言って2通りに分類できる。その1つは「これはコンピュータが人間を越える第一歩である」というコンピュータ万能論、もう1つは「チェスでコンピュータが勝ったからと言って人間を越えれるわけではない」という人間上位論である。ここでは後者の立場に立って、コンピュータは結局人間を越えることはできないということを論証する。
コンピュータが人間に勝つとはどういうことだろうか? それは、今までは人間にしかできないと思われていたことを、コンピュータが人間に代わって行なうことができるようになり、更に人間よりもうまく(速く、あるいは正確に)できるようになることを言う。この意味では数値計算やチェスなどでは、コンピュータは既に人間に勝っている。
しかしその反面、コンピュータが人間に勝てない分野も厳然として存在する。例えば空間把握。コンピュータが現実の世界を認識するには多大な時間がかかるし、精度もそれほどよくはない。また例えば作文。コンピュータが自分の力だけで何らかの文章を出力すること自体は可能だが、それが首尾一貫した意味のあるものになることはない。
これはどういうことかというと、人間、コンピュータそれぞれに得意分野があるということである。コンピュータは計算、論理といった「左脳的」な分野に強く、逆に人間は空間把握、芸術といった「右脳的」な分野に強い。従ってコンピュータがコンピュータの得意分野で人間に勝ち、人間の得意分野では人間には勝てないというのはごく当たり前のことである。いわゆる人間らしさについてはコンピュータがどう頑張ってみても、所詮人間にはかなわないのである。
ここまで読んできて、人工知能研究者(あるいはコンピュータに多少でも詳しい人)は「ちょっと待った」と言いたいに違いない。
「人工知能研究はその人間らしさを獲得しようと努力しているし、今までもそれで成果を収めてきた」と。確かに計算もチェスもかつては人間にしかできないことであったのだが、コンピュータがこれを凌駕するまでになった。近い将来には、盤面の把握が重要と言われる囲碁でもコンピュータが人間に勝つようになるだろうという予測は妥当なものである。
この考えを推し進めていくと、いずれは人間が得意とする分野でもコンピュータが次々と勝利を収めていくという予測も成り立つ。
コンピュータが1つ1つの単語の意味を理解し、全体として筋の通る文章を生成することも可能になるかもしれない。作詞だって作曲だってできるようになるかもしれない。画面上に美しい絵(あるいは前衛的な絵)を描くようになるかもしれない。それも人間が表現するよりも美しく、示唆に富んだ表現方法でもって。
こうした事態が生じると、もはやコンピュータが人間を越えたと言っても過言ではないだろう。
しかし、ここで今度は私が「ちょっと待った」と言おう。
これでもまだコンピュータは人間を越えたとは言えないのである。なぜなら、人間を越えたと言うのなら、人間が最も得意とする分野(=最も人間らしい分野)で人間以上の能力を発揮できなければならないはずだからである。計算もゲームも言葉も絵もコンピュータにはかなわなくなったとしても、まだ人間がコンピュータに水をあけている分野は無数に存在する。
例えば物忘れ。非常に大切な用事があったとしても人間はあっさりこれを忘れてしまう。そうかと思うと3日ぐらいしてから突然思い出し、愕然とすることがよくある。コンピュータには忘れた用事を思い出して愕然とすることはできまい。
例えば茶髪。自分の、もとからある黒い髪の毛をわざわざ茶色や金色に染めて街中を闊歩するなどということはコンピュータは思い付くまい。あるいは自分の顔を小さくして眉毛を細く書き込むようなコンピュータは、今後どんなに時代が下っても出現することはないだろう。
例えばボケ老人。こちらが何を言っても応答せず、話すことといえば50年も前の昔話ばかり。昨日のことも思い出せず、でも腹はすくようなコンピュータの実現はないと私は考える。
今私がヒントを与えてしまったので、コンピュータ側はこれらを克服した人工知能を作りだそうと努力するかもしれない。でも大丈夫。人間らしさはこれだけにとどまらず、まだまだ無限にあるのだから。
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