目黒四一八
チップという不思議な制度、いや、習慣がある。現在の日本ではあまり一般的でないこの習慣も、外国では結構幅を利かせていたりする。ホテルではベッドを整えてくれる人のために、枕の下に何がしかのお金を置いておくのだということは、そんな習慣がないはずの我々でも知っている。そして実際に外国へ行ったあかつきには我々は何の疑問も抱かずにチップを枕の下に置くし、レストランでは食事の料金に何%か上乗せして払うことになる。
こうした我々の行動は、明治時代以降外国の文化を積極的に取り入れてきた日本人の長所と見ることもできる。「郷に入っては郷に従え」の格言からすると全く正しい行動をしているわけだから。
しかしなぜなのか? なぜ我々はチップを出さなければならないのか?
チップを払うというのはそんなに当然のことなのか?
ところでひと口に外国と言っても、チップの払い方や金額は国・地域によってかなりの差があると思われるので、ここでは主にアメリカ合衆国をはじめとする欧米の国々を想定して話を進めることにする。
まず旅行会社、あるいはガイドブックが「外国ではチップを払うものだ」ということを我々に明確に教えてくれる。これだけだと漠然としすぎていて一体どうすればいいのか分からないが、彼らは実に懇切丁寧である。「レストランではチップは食事代の10〜15%です」とか「枕の下に1ドル程度置きましょう」とかいうことをわざわざ教えてくれる。
しかし、よく考えてみよう。外国へ行っても、レストランの人もホテルの人も「チップを出せ」などとは一言も言わない。私はそんな言葉は日本人からしか聞いたことがない。誰がどういう形でいくらぐらいチップを渡しているのかということは確認のしようがない。実は我々は騙されているのではないだろうか? ひょっとするとチップを払っているような民族は世界中で日本人だけかもしれないのだが、この話は本題からはあまりにも外れてしまうので、ここでは触れる程度に止めておく。
自称国際人とか「英語もできない奴など論外」とか思っている人達は、「日本人はチップを出さないから嫌われる」とか「チップという文化の理解なくして国際化はありえない」とかいうことを主張する。「チップはあの人達の給料だから、1ドル以下なんて失礼」などという話を聞いたこともある。
しかししかし、日本人がチップを出さないのはそういう習慣がないからだというだけのことである。逆に外国人が、日本の変わった料理を食べられなくとも、我々は別に彼らを責めたりすることはない。せいぜい「こんなにおいしいものが食べられないなんてかわいそうに」と思う程度である。だからチップに対しても、その国の人に「チップを出さない(出せない)なんてかわいそうに」と思われるのなら、それはお互い様なので仕方がない。だが、どうやらそれだけではないらしい。
本気で「チップは給料」云々の話をする人に会ったときには、正直言って驚いた。なぜ一介の旅行者である我々が、ホテルの従業員の給料体系や賃金レベルを知っていなければならないのか? なぜ契約した覚えのない奴に我々が給料を払わなければならないのか?
だいたいチップなどというのは、金持ちが貧乏人に施しを与えることと同じだと思うが、どうか。ボーイなり給仕なりがサービスをしてくれるとは言え、誰も頼んでいないサービスを勝手にしているだけなのである。それに対していくら出せばいいのかはチップを払う側の裁量に任されている。特に金額も告げずに勝手にサービスをして報酬を得ようというのは、金持ちのご機嫌をとってそのおこぼれにあずかろうとしているようにしか思えない。
もちろん私はそれを悪いことだと言っているのではない。気前のいい金持ちからはどんどんチップを頂くべきだと思う。しかし、金持ちでない者からもそれと同程度の金額をもらって当然と考えるのはちょっと違うのではないか?
そもそもチップを出す習慣のある人種とは、仕事をしていても毎年1か月の夏休みを平気で取れるような人達なのである。物価は安いのに、年収は我々よりも多い人達のことである。そんな彼ら金持ちの習慣を我々が真似するというのは、それこそ文化をきちんと理解していない証拠だろう。
とある大道芸人はハワイで芸を披露したとき、日本人は金を出さないと言っていた。それはそうだろう。日本では大道芸を楽しんで見て、それに対して金を払うという習慣がない。だから見た人もなかなか金を払わない。
これは至極同然のことだと思う。また、駅で配られているティッシュペーパーに代金を払う人もいない。
ここからも分かるように、向こうが勝手にやったサービスに対しては日本人は金を出さないのが普通である。それなのにチップに関しては出してしまうという主体性のなさが問題である。いや、本当に問題なのは「チップをケチるのは同じ日本人として恥ずかしい」などと平気な顔で言う、欧米かぶれの日本人である。
買い物や食事をしたとき我々は金を払う。この場合、その品物や食事がいくらであるか明確に示されていて、こちらはそれに納得した上で注文するので問題はない。しかしチップというものは店の人からの説明もなければ、こちらの同意もない。だったら払う必要はないのではないか。日本のレストランのようにサービス料込みの金額を明示しているのであれば、それに同意して金を払うことには私もやぶさかでない。
ここではチップの話を進めてきたが、もう少し一般化してみると「外国の隠しルールに従う必要はあるのだろうか?」ということになる。例えば「外国人は毎朝5時に起きてラジオ体操をしなければならない」という隠しルールを持った国があるとする。あなたは旅行でその国へ行ったとき、きちんとこのルールを守るだろうか? 自主的に起きてラジオ体操を始めるだろうか? 自分以外の誰も体操している姿を見かけないというのに?
実は隠しルールは隠し警察が見張っているのかもしれない。いつまで経っても改善の兆しの見えないような悪質な旅行者は、隠し法律に基いて処分されてしまうのだろうか? あるいは、あまりチップなど払わない私は既に外国で隠し逮捕、隠し起訴されていて、隠し前科があるのかもしれない。
となると、隠し懲役は私の知らないところで行なわれている(いた)のか。
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