一回1カプセル

加藤法之



 ペルー大使館人質救出に於いて、フジモリ大統領が敢行した武力行使作戦は、同建物の下に掘った地下道から兵士がなだれ込むというものであった。チャビン・デ・ワンタル作戦と銘打たれたこの作戦は、ペルーでは有名な同名の遺跡が多数のトンネルから出来ていることに由来している。5年後の日本ではおそらく"渋谷鉄平"や"第6サティアン"、"コスモ星丸"らと同じ文化的位置づけ(コンパですかさず言うと笑劇的に尊敬される)に置かれているであろう名詞を冠したこの作戦であるが、突入部隊にとっては全世界に中継された危険極まりない銃撃戦よりも、実は表沙汰にならなかった部分の方が重大な苦労と困難をもたらしていたのだ。
 突入部隊になされた、公邸の実物大模型を作っての演習は、精鋭揃いの彼らであってみれば、さしたる苦労なくこなしているのは周知の通り。だが彼らはその後、次のミッションとして、大使館公邸の真下までの穴掘りに勤しむという仕事が待っていたのである。
 武器の扱いであれば熟知している彼らも、削岩機(おそらく使っていただろう、国歌の大音響での演奏はこの音を消すためと思われる。)相手にはとんと素人だ。失敗も数知れず、ちょっと掘っては曲がってしまい、また掘り続けては軌道が外れるといった具合で、一向に上手くいかない。縦横に掘られた間違いの数々はリマ市内の73%にまで及び、現在そのまま地下鉄を敷設する計画すら持ち上がっているくらいだ。うっかり一般家庭の食堂にお邪魔してしまうこともしばしばで、地下からの唐突なお客に奥さんは夕食の支度に困ったという(150人以上いたから無理もない)。のべつまくなしこんな経過だったのだから、実力行使に四カ月かかったのも宜なるかな。
 だがそれにつけても気の毒なのは、慣れぬ仕事に勤しまねばならなかった兵士達であろう、およそ三カ月に及ぶ暗闇の中での生活は、実際捕まっている人質達よりも過酷だったといわれる。ある者は精神を病み、ある者は開眼して新興宗教を開いたという。
 狭い場所で精神の安定を持続させることの難しさ。
結局、今回この問題に対する有効な対策は出されないままに占拠事件は一段落したものの、ある意味MRSA側の「感染患者を解放しろ。」といった無理難題に耐えるよりも難しいこの問題はこうして、同作戦の影の弱点として各国に認識されたのである。

棺桶シンドロームと呼ばれるこれらの障害を防ぐのは、ひとえに"閉鎖空間に置かれた人間を如何にリラックスさせるか。"にかかっている。
確かに事件は終結し、公邸までの穴掘りといった特殊な状況は繰り返されることはないにしても、類似状況は日常生活にもいくらでもある。修学旅行でふとん蒸しにされそうなときとか、小錦が運転手のタクシーに乗り合わせたときとか、トランク収納人間として愛川欽也司会の世界ビックリ人間大集合に出演することになったときとかである。となれば、この命題の解決が今や急務であり、且つ注目されるべきであることは明らかなのである。
というわけで、以下はこの問題についての対処を考察しなければならないのだが、そうは言ってもそれだけでは漠然としている。これに具体的なアプローチを試みるには、実際に閉鎖空間への精神的耐久力が比較的高い文化を見つけることが望ましい。そしてこれには日本人とその文化が最も適していると考えるのである。
 それは、アメリカ人なら三秒で窒息死する(アメリカ人の高笑いは1秒間に10立方メートルの酸素を必要とするため、四畳半高さ2m強の平均的日本人家庭の部屋ではそれだけしか過ごせない。JA栃木調べ)と言われた兎小屋住まいをあらためて持ち出すまでもなく、日本人が本質的に狭い場所を上手く使うことに長けているからだ。実際、日本文化を詳しく観察すると、そこには明らかに閉鎖空間を敢えて利用する意図が見えてくるのだ。
 よってここではまず、そんな日本人の文化を概観してみよう。そこから見出される要素について熟考することは、寧ろ棺桶シンドロームの克服法を探る近道である筈だからだ。


 日本文化史を繙くと、狭さを積極的に利用した最初は茶道であろうか。千利休により創始されたこの文化は僅か二畳(違ってたらご免)の部屋(茶室)内で行われる会合を様式化したものである。この場合部屋はわざと狭くしてあり、参加者はこの部屋の狭さにそれでもしかし無限を想うという。"狭さ"の芸術への昇華が見出せる。(無限に広がったその空間に取り残された人も多いが、一期一会といわれる作法のため彼らは二度と現世に帰ってくることは出来ない。そのため茶会終了後の茶室には参加者のプラグスーツだけが主なく置かれていることが多い。)
 そして、現代日本にもこの精神を受け継ぐものはある。諸説異論はあろうが、カプセルホテルがそれだ。起きて半畳寝て一畳という諺を地でいくこの施設は、一見すると芸術である茶道と対極を成す俗なものである。だが、寝ちまえば何処でも同じという発想者と利用者の割り切った考え方は、茶道のそれに遠く繋がるのだ。そう考える根拠は、茶道では空間の無限を自発的に作りだし、カプセルホテルでは空間の無意味性を受け入れるという表面的な違いこそあれ、その発想の根本は、この両者が共に自己と空間の相対的関係に重きを置いていないことにある。
 こうして、小空間を積極的に活用する閉じこめの文化とでも言えるものが見えてくる。それは日本という狭い国土の環境であるからこそ生まれた特質であるとも言える。そうした文化は日々小さくなり続けているために普段は見過ごされがちなのだが、日本文化はそれを見失う事無く、常にそれを持ち続けているのである。


 日本文化を探ることで狭さ克服のためのキーワードの一つが浮き彫りにされたが、ここで、本論と同様そこに目を付けたと思われる研究を紹介しよう。
 アリゾナ砂漠で行われたという米軍の秘密実験がそれである。
 着想のヒントは日本の通勤列車にあったようで、彼らは砂漠を横断する形で線路を敷設、列車の一車両中に実に五百三十四人の人間を詰め込むという形で実験を行っている。中の兵士には背広を着せて吊革に掴まらせ、適度な数の女性にセーラー服を着せた上で綿密に配置するという懲りようだ。
 これだけ内部環境を類似させた上で外の景色だけは広大なものにする。そうすれば中の人間は外の空間と一体化し、自分達が実際に置かれている狭い空間の方を忘れるという理屈だ。
 綿密な想定の元に行われたこの実験であるが、結果は惨敗、中の兵士達の全員が車酔いにかかり、三割の人間が卒倒してしまうという惨憺たる有り様であった。
「兵達の三割には"HOUCHI"もしくは"SUPO-NICHI"を持たせた。これ以上どうすればいいのかさっぱり判らない。」実験の責任者であるカーク提督は苦悩を漏らしている。
 三人よれば250ホーンと言われるほど騒々しいアメリカ人にはそもそも素質がないのかとも思われるが、モンロー張りのプロポーションの女性にセーラー服を着せたのだから逆上しない方がおかしいと見る向きもある。
 成功すれば、フツ族の数百万の難民を一回の汽車で運ぶこともできると目されていただけに残念な結果である。いずれにせよ、7:46新宿着の一車両からは三千九百人の人間が出て来るのだから、日本の天然の混雑のシミュレートにはまだまだだったのだろう。


 本題に戻ろう。上記の様な失敗に接すると、日本文化の奥深さをあらためて感じるが、狭さに対する我慢強さが国民的特徴であるという事が判っても我々には何の益もない。日本で生まれた文化ではあれど人間一般に広く適用できる汎用性を持った文化を見つけなければ意味がないのだ。
 しかし心配はいらない。狭さ先進国とも言える日本には、その分狭さに対するアプローチもバラエティに富んでいるので、そういう視点で日本文化を探るとき、それに該当する文化はちゃんと存在しているのだ。
 狭さという心理学的なものに敢えて自然科学的なアプローチをするという研究がそれで、他とは一線を画した独特な感性が見られて興味深い。そしてこの研究から得られた、物理的に不可能と思われる程の空間にまで生物を押し込める技術は、それこそ正に、今回問題になっている棺桶シンドロームを克服する上で是非とも参考にすべき汎用性を備えたものなのだ。
 カプセル怪獣である。

 地球防衛軍に所属していたD・M氏が持っていた五つのカプセルは、通常は長さ5cm程であるのに、呼びかけてから投げると50mの怪獣が出てくるというものである。カプセルの中に入っている怪獣としては、現在までにウインダム,ミクラス,アギラの三体の存在が知られている。
 D・M氏は現在、一般人には踏み込むことが許されない江戸の町で悪代官という職に就いている(入ることを許されている日本人は少なく、うっかり八兵衛氏と杉浦日向子女史位のものである。)ため、三体を入手した経緯については推察するしかないが、ポケモンなどから類推するに、さんざ痛めつけた後に押し込んだのだろう。
 ここで読者からのこれに対する、押し込んで入るものなのかという問いは発せられてしかるべきである。普通に考えれば最大に詰め込んでも押入には二年分のパンツしか入らないことは、大山昇太(by松本零士)を始め多くの下宿生が経験的に知っていることなのだから。
 だが、実際カプセル怪獣は存在している。何故か。

 京都三鷹通りには奇妙な建物が存在する。昼間は全くの平地に過ぎない場所に夜になると忽然と現れるその建物は、色紙の伝統を千年守り続けている裏色紙家の建物である。この建物は朝、主人が出かけるときに折り畳んでポケットに入れ、夜帰ってくると元に戻すためそういうことが起こるのだ。
 この建物に色紙の桂折りとよく似たコッホ曲線折りと言われる折り方が使われている。千年の歴史のある裏色紙家に伝わるこの折り方であれば、この様に建物でさえポケットに収納できてしまうのだ。
 閉じこめの文化と併存している日本のもう一つの特徴である収納の文化の頂点に立つコッホ曲線折り。実はカプセル怪獣は、この二つの文化を統合した方法で小さくなっているのである。

 現裏色紙家十六代当主である白色氏は、コッホ曲線折りを生物に適用する手法を編み出した人物である。氏は自らの身体で様々な実験を行い、小さくなった門下生を踏み潰してしまうなどの些細なトラブルもあったが、三年の歳月をかけて遂に完成させたとのこと。
 そしてD・M氏は白色氏の協力によってカプセル怪獣を創生した。白色氏直々の指導を受けた怪獣達は、コッホ曲線折りで身体をねじ曲げていたのだ。科学的に説明すると、我々凡人には想像もつかないが、これによってフラクタル次元(2次元平面と3次元空間の間に2.5次元といったような小数次元を仮定する理論。公共で使うとマンデルブローに特許料を払わねばならない。この本は同人誌だからよい。)を下げるのだという。こうして実際の大きさの実に二十七万分の一にまで縮小してしまうのだから、5cmのカプセルに入ってしまうのは当然だ。カプセルは折り畳みが戻らないように抑えておく役割程度のものであればよいのだ。
 これが閉じこめの文化にとって画期的な方法であることは言うまでもない、何しろ今までの閉じこめ文化は如何に空間を感じないかをその着想の基盤としていたにも関わらず、この方法では空間が狭いならそこに入る生物の方で小さくなればよいという逆転の発想をしているからだ。誰でも往年の鈴木都知事のようにほんの少し身体を柔らかくするだけで、自宅の四畳半を大気圏よりも天井の高い場所にすることが出来る。

 これが本論の発端である棺桶シンドロームにも有効であることは最早言うまでも無かろう。カプセル怪獣となっている怪獣にとって、その中を広いと感じこそすれ、そもそも"狭い"という感覚自体がないからである。(ポケモンのモンスターがカプセルの中を快く感じるのも同様の理由であろう。)
 つまり、人類も狭い環境の中ではコッホ曲線折りをし、自らの身体を小さく折り畳むのと引き替えに空間を広く感じるようになればよいのである。
 この技術を世界に推進することにより、トンネル工事や宇宙飛行などへの応用は限りなく広がるだろう。そしてこれまで窮屈極まりないと思えていたはずのそうした空間には、これ以降カプセル化した人間が散在することになるのである。

 科学の力、カプセルの夢...。あぁ人類の至福の時...。


 さて、こうして狭い環境下での人類のカプセル化を推奨する以上、そもそもこのコッホ曲線折りを全ての人間が体得できることが大前提である事は言うまでもない。せめて往年の鈴木都知事程度に身体が柔らかければ誰でも使いこなせるほどでないと意味がないのだ。
 創始者である白色氏によればこの点について、コッホ曲線折りは誰にも成しうることではないと言う。そしてまた日本人には比較的素質のあるものが多いとも言う。これはいけない、カプセル化もまた日本人の持つ特質によってのみ可能であるという事に終わってしまうのであろうか。
 いや、そうではない。何故なら私は、それが些細な努力によって成しうるものであることを突き止めているからだ。
 解決のヒントは、白色氏の部屋に貼ってある絵画ポスターにあった。硬骨漢で知られる氏の部屋の装飾品としてはいかにも不似合いなのであるが、氏は狷介なまでにそれを外そうとしない。これについて不審を感じたので秘かに調査したところ、何とその、セーラー服を着た少女のセル彩色ポスターが、コッホ曲線折りを体得する上で重要な役割を担っていたのである。
 フラクタル次元を下げるためのステップに有効且つ必要なもの。それは二次元への希求であり、具体的には二次元的なものへの渇望だったのである。判りやすく言うと、セーラー服を着てても絣でもプラグスーツでも何でも良いが、アニメ美少女への不条理な傾倒、つまり己を二次元コンプレックスと化すことが、コッホ曲線折りを体得する条件だったのである。

 日本人の、それもビッグサイトに集まるような人間にコッホ曲線折りを体得できる素質を持つ者が多いことはこうして頷けるのであった。
 そういうことなので、人類の発展のためには諸君には、綾波だろうがときメモだろうが大いにはまってくれればよいのである。
 塵類補間計画においてそれは不可欠な要素なのだから。


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