水田徹
身近なゴミ問題として、空き缶の投棄はよく話題になる。そして誰もが空き缶を捨てるのはけしからんといった発言をしている。しかし、そうした空き缶投棄という行為が問題になる割には、それを問題とする根拠について余り触れられていないように感じる。そもそも空き缶を捨てることは何故いけないことなのだろうか。
理由は色々考えられる。景観を損ねる、資源の無駄、法律に反する等々。それぞれがそれぞれもっともな理由である。しかし、景観を損ねないような物、例えば煙草の灰などは屋外に捨てたところで景観に影響もでないし、害もない。そのような物なら捨てても良いかというと、そうではないような気がする。資源の無駄というのは、空き缶問題がテレビ等で取り上げられる際必ずリンクしてくる観点だが、それでは本当に再利用できない物なら捨てても構わないという主張を許してしまう。空き缶を捨ててはいけないのは勿体ないからだけではないはずだ。法律で定められているから空き缶を捨てるのがいけないと言うのは比較的容易であるし、もちろん筋も通ってはいる。しかし、目の前に空き缶を捨てる人間がいることを想定した場合、それらの論点ではいささか空虚である。何故空き缶を捨ててはいけないのかという問題は、もう少し個々の感情に立脚した論点、すなわち多分に倫理的、道徳的な問題として語られるべきと考えられる。
では、何を基準にしたら良いのだろうか。まず考えなければならないのは、我々が社会という共同体の中で暮らしているということである。ある行為の善悪は特定の個人がいかに利益/不利益を得るかではなく、その属する社会全体がいかに利益/不利益を得るかによって評価されなくてはならない。つまりその行為によって、どれだけの人間がどれだけの利益を得たか、そして逆にどれだけの人間がどれだけの不利益を被ったかである。この、行為によって社会にもたらされる利益または不利益の総量がその行為が望ましいか望ましくないかの指標となる。当然、行為によって社会にもたらされる利益が多ければ多いほどそれは良いこととなり、その逆は悪となる。
しかし一般的に、ある行為が利益のみをもたらしたり、不利益のみをもたらしたりすることは少ない。大抵の場合、その行為はあるグループの人々には利益を、そして別のあるグループの人々には不利益を同時にもたらすことになる。おそらくはその利益と不利益の総量は同じである。つまり、ほとんどの行為は何もない状態から利益/不利益を作り出すのではなく、そのバランスを変えているだけという訳である。社会全体の利益の総量が変わらないのなら、何をしたって社会にとって不利益にならないから構わないはずである。例えばスーパーマーケットで万引きをした場合、それによりスーパー側が不利益を被ることになるが、その分自分が利益を得ることとなり、社会全体でみれば利益=幸せの総量は変化しない。だからいくら万引きをしても構わないはずだが、実際にはそうではない。
何故かと言えば、更にいくつかの判断基準が存在するからである。一つは平等原理と呼ばれるものである。それによると、利益はできうる限り多くの人に、できうる限り等しく分配されなくてはならない。この原理の下では、たとえ社会全体から見た利益が同じでも、より少ない人数のグループが不利益を被ることにより、多数の人々からなるグループが利益を得るような行為の方がより善である。具体的には、多くの人々が新幹線や飛行機を利用できるという利益を得ることができるなら、ごく少数の人が騒音に悩まされても構わない。これが公共の福祉と言われるものである。逆に不利益を被る人々の個々の不利益が些細なものであっても、利益がより少数の者にしかもたらされない行為は悪なのである。この原理から、スーパーでの万引きが悪であることが導かれる。
もう一つの判断基準として、その行為者と受益者との関係がある。一般的に、その行為者と受益者とが一致する場合、上記の原則にのっとっていても何故かその行為が責められることが多い。逆に行為者が不利益を被り、他者が利益を受ける場合は上記の原則から多少外れていても、良しとされる場合が多々ある。自己犠牲の美徳のようなもので、たとえ社会全体の利益になることでも他者に不利益を強いるのは悪いことであるとされる。新幹線敷設や空港建設が、それ自体は正しいことであっても問題となるのは、このあたりに一因がある。この基準は社会の利益という観点からは根拠のないものであるが、社会を構成する個々の人間の倫理的道徳的観点からはなかなか無視できないものである。要するに一人だけがちゃっかりと得をするようなことは許せないのである。ある意味では平等原理の誤用とも言えるだろう。
次に、これらの指標をもとにして空き缶の投棄が悪であることを説明するために、空き缶の投棄とはどういう行為なのか考察したい。
はじめに社会というものの概念を捕らえてみる。まずその個人が関わりうる領域、すなわち個人が影響を及ぼしうる領域、というものが存在する。これは各個人がそれぞれ固有の領域を持っているが、その領域は互いにある部分で重なり合っている。この重なり合った部分が社会の領域であり、重なり合わない部分が個の領域である。これが広義の社会の概念である(図)。
個の領域は社会に影響を及ぼさないため、何をしても構わない。また社会の領域でも個の領域でもない部分も、同様に社会に影響を及ぼさないため何をしても構わないが、社会の領域においては他者に不利益を強いるような行為は制限されることとなる。
しかし、本当は影響を及ぼしているとしても、感覚的に自分が社会の全ての領域に影響を及ぼしているとは考えにくい。そこで狭義の社会概念というものを考えてみる(図)。
この場合、個人が影響を及ぼしうる領域(=個人の生活領域)は社会の領域と一部分だけ交わっている。この交わった領域が社会とその個人が関わる領域となる。
空き缶を捨てるということは個の領域から、それ以外の領域、特に自分の関わらない社会領域に空き缶を移すということである。空き缶はゴミ、すなわち負の価値を持った物として位置付けられ、領域内に存在することにより不利益が生ずる。これを自分の関わらない領域に移すことにより、その行為者は利益を得、その他の者は不利益を被ることになる。具体的には空き缶を捨てることは捨てた者一人がゴミを処理できるという利益を得、他の多数の者が景観を損なう等の不利益を被る。これは先に挙げた善行の判断基準「社会全体にとって利益となること」「できる限り大勢にできる限り等しい利益をもたらすこと」「利益を得るのは自分ではなく他者であること」のどれにも当てはまらない。このことから空き缶を捨てることは悪であると結論される。
空き缶を捨てることはかくの如く悪である。しかし、ここで捨てるのが空き缶でなく中味の入った、未開封の缶であったとしたらどうであろうか? 景観を損ねる、資源の無駄という論点では中味が入っていようとそうでなかろうと同じく悪である。しかし、損益の総和の観点を導入するとどうなるか。まず、その行為者にとって、捨てる物が空き缶であるかそれとも未開封の缶であるかによって、その利益/不利益が大きく異なる。空き缶は行為者にとって負の価値を持つ物、要するにゴミであるから捨てることによって利益を得る。しかし未開封の缶はそれを手に入れるために支払った代償に見合うだけの価値を依然として持ち続けている。それを手放すのであるから当然不利益となるのである。その行為によって行為者は何の利益も得られないどころか、不利益すら被っているということになる。それなのにその行為を非難されたのではたまったものではない。しかも他者はそれにより価値を保った未開封の缶を得られるという利益をも得ているのだ。非難どころか賞賛されてもおかしくない行為と言えよう。無論、景観を損ねる、資源の無駄といった不利益は依然として存在するのだから、無制限に薦められる行為ではない。しかし、行為者に何の利益もない以上、行為者に責められるべき点は見受けられない。他の者にしても景観を損ねる等の不利益と価値のある物を得るという利益の両者が打ち消し合うから、悪くても損得なしである。よってこの行為は他者から見ても悪くて中立的な行為と言えよう。
行為者は損をして、他者もとりあえず得になるとも思えないような行為を、何故わざわざするのかという疑問も生じるかも知れない。それに対する答えは明快である。自由主義諸国においては、他者に危害を及ぼさない限りたとえ自分の不利益になることでも行なえる権利(いわゆる愚行権)が保証されているからである。
以上の考察から、空き缶を捨てることは社会的に許されない行為だが、中味の入った、未開封の缶を捨てることは、もしもそれをしたいと希望するならばしても構わないのだと結論される。
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